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【ひきこもりと地方】沖縄のひきこもり当事者タイキさんインタビュー第1回「動けなくなって、泣く泣く牛さんを売りました」

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インタビュー・文・写真 ぼそっと池井多

 

 

 

彼の「秘密の浜辺」へ行って、
このインタビューを収録することになった。
苦しい時、悲しい時、
いつも一人で時間を過ごしてきた浜辺だという。

沖縄にしては、何の変哲もない砂浜だが、
住宅地からは少し分け入った場所にあって、
たしかに土地勘のある人でないと入りこめない。

人影は見当たらなかった。
上空を、ときおり米軍の戦闘機が
爆音を立てて飛び去っていく。

私は、そのつど驚いて頭上を仰ぐ。
彼は、まったく表情を動かさず、前だけを見つめ、語り続けた。
2019年1月のことである。

 

海と豚のにおい

ぼそっと池井多 すんごい音ですね。旅客機の比ではないな。

タイキ 戦闘機の音は、生まれたときから聞いているので、
ぼくは慣れっこになっています。
ぼくが住んでる家は、
米軍基地の飛行場の滑走路の延長線上にあります。
だから、毎日のように戦闘機が爆音を立てて真上を通るのです。

まあ、ちょこっとだけ
「うるさいな」
と思う時もあるけど、
意識しなければ、べつになんとも思わない。

ぼそっと池井多 海と豚のにおいがしますね。

タイキ そうでしょう。
沖縄にとって豚はとても大事なんです。
くさいと思う人もいるんだろうけど、
ぼくはこのにおいを嗅ぐと、
「ああ、故郷に帰ってきたな」
と思います。

ぼそっと池井多 小さいころから、
タイキさんはこの沖縄本島の中部にあたる、
この町で育ってきたのですか。

タイキ そうです。1977年生まれ、いま41歳です。
小学校のときから、この町に住んでいました。
あのころの友達はもうみんな沖縄を出てしまいました。

学校では、友達からいじめはあったけど、
今でも心の傷に残っているのは、
学校の個室で先生から受けた言葉の虐待です。

ぼくは、小さいころから何かとできないことが多かったので、
先生や先輩に怒られてばっかりでした。
そういうことはずっと高校くらいまで続いていました。

ぼそっと池井多 いじめられた経験があると、
当時と同じ町に住んでいることが苦しかったりしない?

タイキ べつに。
もともと友達もあんまりいなかったし。
居ても、顔を合わせないし。
コンビニなんかで、
「あ、同級生がいるな」とか思ったら、
ちょっと隠れたりとかしてます。

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米軍基地

ある朝、とつぜん動けなくなった

ぼそっと池井多 高校を出てから、
どんなことをされていたのですか。

タイキ 牛飼いの仕事です。

ぼそっと池井多 畜産ですね。
私は農業とかよくわからないんだけど、
乳牛、肉牛、どちらですか。

タイキ その前の段階です。
牛の繁殖をやってました。

母牛に種付け、人工授精をして、子牛が生まれたら、
生後8か月から10ヵ月ぐらいまで育てて、
ほかの農家さんに売る、という仕事です。

買っていった農家さんの方で、
子牛は2年から3年をかけて育てられ、
大人の肉牛になります。

ぼそっと池井多 へえ。牛飼いの仕事は、
お父さんから引き継いだのですか。

タイキ いいえ、おじいちゃんがこの仕事を始めました。
それを見ていて、
「ぼくも牛飼いをやりたいなー」
って思いました。

お父さんは何でも屋です。
お母さんは介護の仕事やってました。

ぼそっと池井多 牛飼いの仕事で、
つらかったのはどういうことですか。
朝が早いとか?

タイキ いいえ、人間関係ですね。

ぼそっと池井多 おっと、それは意外…

タイキ 同業者にちょっと小言を言われたり、
父方の叔母さんにいじめられるのが、つらかったです。

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牛さんたちが痩せていく

ぼそっと池井多 その父方の叔母さんという人には、
どういうことを言われたんですか。

タイキ お父さんは長男、お母さんは長男の嫁です。
だから、叔母さんは何かとうちを気に入らなかったらしくて、
たとえば、うちが新しいクルマを買ったりすると、
叔母さんが、お父さんやお母さんじゃなくて、
ぼくをどこかの部屋に連れこんで、
「いつ、買ったの」
「いくらだったの」
「どこにそんなお金があったの」
とか、いろいろ尋問するんです。

そういうことが、ぼくが5歳の時から続いていました。
ほとんど虐待だったと思います。

そういうことがきっかけで、
2002年、ぼくが25歳のとき、ある日とつぜん、
ぼくは動けなくなりました。

その前日までは、
「よし明日も、草刈りとか牛舎の掃除をして、がんばってやろう」
と思っていたんです。

ところが夜眠って、起きようと思ったら、
起きられない。
無気力になっていて、動けなくなっていたんです。

ぼそっと池井多 なるほど。
私も23歳のとき、ある日そうなりました。
うつ病の発症ですね。

タイキ はい。でも、
それから半年はうつ病という認識もなく、
「自分はただの怠け者になってしまった」
とずっとふさぎこんでいました。

夜になるのが怖かったです。
なにも悲しくもないのに、なんでか知らんけど、泣いてしまう。

遠くに住んでいた両親がやってきて、
「タイキの様子がなんかおかしいな」
と思ったらしく、ぼくを心療内科へ連れていきました。
そうしたら、すぐに医者が、
「あ、うつ病です」と。

こうしてうつになってからは、
ぼくはもう牛に餌をやれない、草も刈れない。

かわいそうなことに、
牛さんたちにはひもじい思いをさせました。
牛さんたちはおなかをすかして、
どんどん痩せていったんです。

そういう牛さんたちを見て、
「ああ、かわいそう。かわいそう」
とは思っているんですが、
だからといって自分は何もできない。動けない。

そんな自分がほんとに情けない、
と涙を流していました。

ふつう一頭の母牛は、
一生のあいだに多くて12頭ぐらい子牛を産むんです。
でも母牛がやせちゃったら、
もう種付けとかできなくて、出産率がガタンと落ちます。

むりやり種付けして子牛を産ませても、
いい子牛が生まれない。

おばあちゃんの家に遊びに来た人が、
ぼくの牛さんたちを見て、
「お前の牛、だいぶ痩せてるな」
と文句をいいました。

いわれなくても、ぼくはわかっていたんです。
「牛さんたちにはかわいそうなことをしているな」
って。

いわれるのが、つらかった。

それで、すっかりやせこけてしまった牛さんたちを、
泣く泣く他の牛飼い仲間に二束三文で売りました。

当時飼っていた牛さんたちには、
「ほんとにごめんなさい」
って思ってます。

ぼそっと池井多 タイキさんが、
飼っている牛さんたちを、
ほんとうに大切に思っている気持ちが伝わってきました。


第2回へつづく

 

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