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年賀状の憂鬱 ― 苦しくて仕方がない年中行事

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文・ぼそっと池井多
 
いったいぜんたい、どうしたわけだか、
一昨日あたりから年賀状なるものが何枚か郵便受けに入っていて、
困っている。
 
年末のうちに、私から年賀状なるものは、
誰にも一通も出していないはずなのだが、
それでも来るのである。
 
これはありがたい。……
というか、
「これはありがたい」
と感謝しなければならない立場に
私は追いやられている。
 
私の目の前にある、
音も出さずモノも言わぬ年賀状が、
私を窮地へ追いやっているのである
 
 
 
 
 
 
年賀状の返事を書くことほど
うつの人間にとって苦しい正月行事はない。
 
というか、
他の正月行事は、すべて省略しても人にバレないが、
年賀状の返事書きは、相手がいることだから、
やらないとバレるのである。
 
 
しかたなく、いただいた年賀状をしげしげと眺めてみる。
 
そこには「何も書いてない」と私は感じる。
 
 
あけましておめでとうございます。
 
あけまして?
 
年が明けたことなど、
あなたに教えてもらわなくても
知っておるわい。
 
うつが反転して攻撃的になる。
 
おめでとうございます。
 
めでたいのか?
 
何がそんなにめでたいの。
 
時計の針が0時を超えて、
日づけが12月31日から1月1日になっただけなのに、
なぜ、みんな、
「めでたい! めでたい!」
と日本中が、いや、世界中が飛びあがって大喜びしているのか理解できないのである。
 
まだしも昔の日本では、正月が来るたびに
人はみんな一つ年をとったから、
正月にはちょうど誕生日の意味合いがあって
「正月はめでたい」
ものであったかもしれない。
 
しかし今の世の中では、
みな、各自の誕生日に年をとる。
 
誕生日のめでたさは、誕生日が持っていく。
となると、
年が明けたからといって、とくにめでたい理由はないのではないか。……
 
 
ふつふつと不穏に沸き起こる疑問を棚上げして、
さらに年賀状の先を読み進めてみる。
 
ご無沙汰しております。
昨年はお会いできませんでしたが、いかがおすごしですか。
今年はお会いできるといいな^o^
 
けっ!
 
「昨年はお会いできませんでした」
というのは、お互いに
「昨年はお会いする機会を作らなかったから、
お会いしなかった」
のにすぎないじゃないか。
 
今年だって、お互いが積極的に
「お会いする機会を作る」
ということをしなければ、
「今年もお会いすることはないでしょう」。
 
なぜ、どうせ毎年お会いしないのに、
正月になると毎回、
「今年こそは会いましょう! 会いましょう!」
と、心にもないエールを交換し合うのかがわからない。
 
正しくは、こう書くべきである。
 
とくに用事もないし、関心もないので、
昨年はあなたとお会いする機会を作りませんでした。

今も用事と関心はありません。

よっぽど緊急の用事など生じないかぎりは
今年もあなたとお会いすることはないでしょう。
 
しかし、考えてみれば、
「会いません」ということを
わざわざ年の初めに通告する意味もないだろう。
 
したがって、年賀状を書く意味はないのである。
 
また、「会いません」「会いません」ということを
一生のあいだ通告しあう必要もない。
 
会うときは、待ち合わせ日時を決めなくてはいけないから、
さすがに連絡しなければならないが、
会わない場合は連絡をしなくていいのである。
 
こうして、よけいな人間関係が淘汰されていく。
 
 
 
 
 
 
他の年賀状を読んでみる。
 
お元気ですか。
うちの子どもはこんなに大きくなりました。
 
そして、私が見ず知らずの
「よその子ども」の写真が大画面で印刷してある。
 
お元気ですか
だと?
 
元気じゃねえよ。
 
うつだよ、うつ。
 
私は母親に虐待されて以来の慢性うつだって、昔から言ってるだろ。
そんなことを年の初めにまた訊いて、どうする。
 
それに、いったい誰だ、この写真の子は。
 
知らねえな。
 
名前も知らない。
 
知らない子が大きくなったところを見せられても、
こちらは感動も何もないわさ。
 
そもそも、ほんとうに「大きくなった」のかもわからない。
 
はじめから大きかったんじゃないの?
 
自分の子どもの発育からもたらされる個人的な感動を
子どもを持っていない私に押しつけ、
むりやり共有させようとしたって、
無理があるのよ。
 
それよりあなたのことを書きなさいよ、
私が知ってる、あなた自身のことを。
 
あなたは昨年、どうだったの。
 
不倫の一つでも、楽しんだんじゃないの。
 
どうせだったら、 
昨年は、不倫の一つも楽しんだところが、
うっかり旦那にバレて、さんざんな目にあいました。
それでクリスマスのプレゼントは無しになりました。

その仕返しとして、今年の正月は旦那の実家へは行きません。
向こうのお義母さんの顔なんか見たくもないから。
とかなんとか、
もっと人間の真実をえぐるようなことを年賀状に書いてきてよ。
 
一人わびしい正月を迎えている貧困層のひきこもりが、
わざわざ時間を裂いて読んであげているんだからさっ!

……。
……。
 
機嫌が悪くなり、ついつい毒舌を口走る。
 
ともかく、人から来る年賀状には何も書いてないと感じる。
 
なぜこんなものを人は飽きもせず、
毎年やりとりしているのだろう。
 
いくら考えてもわからない不思議なことが、
世の中にはたくさんある。
 
(了)

 

<筆者プロフィール>
ぼそっと池井多 :まだ「ひきこもり」という語が社会に存在しなかった1980年代からひきこもり始め、以後ひきこもりの形態を変えながら断続的に30余年ひきこもっている。当事者の生の声を当事者たちの手で社会へ発信するVOSOT(ぼそっとプロジェクト)主宰。三十年余りのひきこもり人生をふりかえる「ひきこもり放浪記」連載中。