ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

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私の空にかかる虹は黒色 「ひきこもり」とセクシャルマイノリティ①

(文・アートワーク 喜久井ヤシン)

 前書き

 2018年5月5日と6日に、渋谷区の代々木公園で「東京レインボープライド」が開催された。日本最大の「LGBT」の祭典で、二日間でのべ14万人が参加した。私自身は「LGBT」の分類でいうなら主に「G(ゲイ)」に入るセクシャリティで、これまでにもイベントに参加したことがある。近年は一般的にも「LGBT」の言葉が知られるようになり、セクシャルマイノリティに対する受容は進んできているように思う。けれど性的なことから生じる「生きづらさ」は簡単になくなるものではなく、それは私の「ひきこもり」の経験ともつながっている。
 また、その「生きづらさ」は「#MeToo」の運動に関する政治家の暴言や、「女性問題」(という名前で言われる異性愛男性の問題)のあつかわれ方など、日本のジェンダーの問題とも通じているように思う。私は今回文芸的なエッセイを書いたけれど、「ひきこもり」で「ゲイ」のための限定的な記事、というよりも、広く生と性にかかわる課題を含んだものとしてお読みいただけたらと思う。

 

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 私の空にかかる虹は黒色

 

   私は
   これらの街を泳ぐ。
   他の人達は歩いていく――ヒルデ・ドミーン「ケルン」


 ひとひらの雪片の小ささにふくまれている軽さがどれほどはかなくても、それは人を痛めつけるだけの重さになりえる。細雪もふり積もれば木々を折り、人の住む家の屋根におごそかな重圧をかけて潰していくものがあるように、ごくわずかでしかないものが、いつしかとり返しのつかない致命的な重さになっていることがある。

 ある晴れた日の朝に私はラジオをつけた。めずらしいことに体調のそう悪くない目覚めがあって、特別な用事もなかったけれど、その日は何か前向きで活動的なことができそうな気がする起床後の時間があった。ラジオから騒がしいコマーシャルがいくつか流れていくなかで、コーヒーの宣伝を無意識のうちに耳にした。男性会社員二人が雪山で遭難してしまい、コメディチックなかけあいをする。後輩らしき会社員の方が、「抱き合えばあたたまりますよ」と叫び、それに対して上司は「なにが悲しくて男二人で抱きあうんだ」とツッコミを入れる。そうだ、こんな時にはこれがある、これであたたまることができるぞ、と新商品のコーヒーが紹介され、十数秒にすぎない小さなコマーシャルは終わる。それはよく晴れた日の朝だった。新しいことができそうだった私の目覚めの気分はもうしぼんでいて、陽の射しこんでいた朝がにごっている。男同士で抱き合うことが悲しいことなら、私はどうしてずっと悲しみを求めているのだろう?毎日何千何万と浴びるコマーシャルのなかのいくつかが、棘になって私の気持ちを打ち落とすことなんていつものことだし、世間話や日常の気にさわる言葉づかいなんていくらでもある。それらにいちいち立ち止まって傷ついてなどいられないのだけれど、それでも私は度々、くり返しブレーキを踏まされてしまう。

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 日々を生きていて私にふりかかるささやかなものは、たとえば出会った人の薬指に指輪があることの平和的な細部であったり、何気なくかわされる言葉のすみずみに言われる「彼女」や「奥さん」というわずかで平凡な言いまわし。それに青色の人のと赤色の人とで描かれる分かりやすい二分の仕方といったそれらのものがある。もしくは、多くの人にとってはどうということのないすべての場面――テレビの「好みの(異性の)タイプは?」というよくある会話、雑誌の「(異性に)モテる方法」という平凡な特集、ネットの「あなたにも(異性の)恋人ができる」というただの広告などの――小さくわずかでしかない一つ一つのものを私は目にして、耳にして、くらって味あわされて毎日を過ごしている。マジョリティ(多数派)の異性愛男性なら感じることのない、異国の文化の中にいるみたいな居心地の悪い日常を私はずっと生きている。

 私はこのうちの一人に入ることになるのだけれど、「性的少数者」に関する統計は、どれもこれも絶望的な結果が出ている。調査の一つは、「性的少数者」の自殺率がそうでない人に比べて4倍高いというもので、厚生労働省の『自殺総合対策大綱』にも、数年前から「性的マイノリティに対する支援の充実」の項目が入るようになった。(逆に言うと、最近まで入っていなかった。)その他の統計でも、「性的少数者」は自殺未遂をする割合も、自傷する割合も、学校でいじめられる割合も、学校に行かなくなる割合も、そうでない人に比べて数倍高い※1。規模の大きな調査を知らないけれど、「性的少数者」が「ひきこもり」になる割合も、そうでない人に比べて何倍か高いものになるだろう。

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 「ひきこもり」、もしくは「ニート」に対して、ネットの世界などではひどく粗雑な言葉による批判的な発言が出回っている。働かないで親のすねをかじっている奴なんて人間のクズだ、みたいに言う言葉は、浅くうすっぺらいものではあるけれど、積み重なって憔悴(しょうすい)させられるものではある。否定する人のなかには、「自分が社会に出て苦しんでいるのだから、お前も同じように社会で苦しめ」というような心理があるのだろう。自分が毎日プレッシャーを受けながら働いているのに、「ひきこもり」が親の金でゴロゴロしているだけなのは不公平だ、というような。(「ひきこもり」の心理の問題は、本心からゴロゴロできるような余裕が一切ないことだけれども。)
 同じ条件で同じ環境にいるのだとすれば、「ひきこもり」とそうでない人はたしかにバランスを欠いているように見えるかもしれないが、実際は、違う条件で違う環境下にいるように思う。少なくとも、マジョリティ男性の暮らしているこの国の風景と、同じ男性と見なされている私の見えている風景とはへだたりがある。私は、世間話やコマーシャルや何かの一つ一つが差しさわりになりえるように、人間関係の築き方も目線のそぶりも、細部が慎重にならざるをえない。「男性」という言葉一つとってみても、そこには性的指向性自認をめぐる複雑で長い葛藤を経てのことで、同じ言葉を使うために別の労力がいる。同じ風景が同じに見えているわけではなく、日常にふり積もるたくさんの負荷が、私の人生のおそろしい重圧になっている。

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 それら日常のことというのは、外国にある暴力や差別、イスラム圏での同性愛者への処罰に比べれば、ごく軽い、ささいなものだと言えなくはない。日本でも同性愛者への殺傷事件があった※2にしても、私がセクシャリティを公表して、殺害されるとは思わない。ただ、「殺されはしない」として、その「殺されはしない」という思いを抱えながら生きていくところにすでに負荷がある。ごく軽いものにすぎない、頭をよぎる、一瞬の、ささいな警戒心や緊張、という言葉にすらあてはまらないくらいごくわずかなものとしてだけれど、意識をしりぞけるための小さな負担であるものが、生活上微細に含まれている。「性的少数者」の自殺率の高さは、同性婚が可能になった現在の西洋諸国にも当てはまっているもので、自殺率を高くするのは、このような日常の負荷の蓄積のせいもあるだろう。「事件ではない」軽さ、「暴力ではない」軽さ、「差別ではない」軽さ。(それにもっと言うなら、「差別といえるほどのものではない」軽さや、「人によっては差別だと感じられる場合もあるかもしれないがとりたてて差別だと騒ぐほどのことではない」軽さも。)そうではない、としりぞけるたくさんのわずかな労力が、いつしか人生にふり積もる致命的な重さになっている。
 セクシャリティに限らず、私なら学校にまつわる経験や家族との関係性などが、社会の「ふつう」ではないものに属しているせいで、日常であるはずの会話やまなざしが、異物をしりぞけるための徒労をふくんでいる。私に「セクシャルマイノリティ」の要素がなかったとしても、外に出ることや人と会うことことには、多大な疲れをおこすものだったろうと思う。

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 5月6日には「東京レインボープライド」のパレードがあり、過去最多の七千人が参加した。私は今年沿道で観ている側だったけれど、「LGBT」のシンボルである6色の虹がかかげられ、大勢の人たちが渋谷と原宿の大通りを何時間にもわたって歩く姿は、心を盛り上げる光景だった。パレードでは、同性同士が手をつないで歩くことや、親しく寄りそって歩くそれだけのことが、同性愛が身近に存在するメッセージになる。マジョリティとは違うセクシャリティを伝えることで、たとえ違和感や驚きであったとしても、多くの人に考えさせるきっかけを提供する。
 ……ただそれでも、人口一千万の人がいる東京にあって、参加者数七千というのは少ない数字だろう。都市の真ん中で開かれる年に一度の祝祭でも、渋谷の雑踏に埋もれる隊列のように、東京のめまぐるしい日々に埋もれていってしまう。同性同士が手をつないで歩くだけでメッセージになるなら、毎日のヘテロセクシャル異性愛者)の日常は、私にどれくらいのコマーシャルを見せていることだろう。毎日の渋谷の街、もしくは毎日の日本、もしくは毎日の世界のすべての街角で、ヘテロの行進が平然と開かれている。プライドパレードの最中でも、渋谷の街は通り過ぎる男女のカップルがいた。男女が平然と手をつないで、薬指に平然と指輪をしているその街の中を、多くの人が平然と歩いていく。私が外出せねばならない毎日は、プライドパレードではなくそのような世界であって、私が人と会わねばならない毎日は、平然と歩いていく人たちでできている。家の外に出て人と会う、というそのシンプルで平凡な出来事は、私にとっては「セクシャルマイノリティ」と「ひきこもり」である自分の存在とぶつかる軋轢(あつれき)になってしまう。街の景色も、人の目も、一回のあいさつも、マジョリティの社会人たちとは同じではあれない。多くの人たちが平然と歩く平凡な道でも、私は同じその場所を泳ぐほどの負荷を負って、たくさんの労力をかけて進まないといけない。私が外に出て人と会うことには、そのようなささやかで致命的な重度をふくんでいる。


※1 「性的少数者」の統計については日高康晴「LGBT当事者の意識調査」(2016)などを参照している。一例をあげると、「LGBT」の「不登校」(私はこの言葉を使いたくないけれども)率は、10代で32%にのぼる。小中学生全体の「不登校」率は3%前後のため、比較すれば約10倍高い。

※2 同性愛者へのヘイトクライムとして思い出されるものに「新木場事件」がある。2000年2月11日、東京都江東区夢の島緑地公園で男性の死体が発見され、十代の少年を含む3人が逮捕された。
 江東区は当時私が住んでいた街で、この事件の報道は自分の将来に暗い悲嘆を起こすものだった。

 

 


 続編「『ひきこもり』とセクシャルマイノリティ②」

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