ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

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喜久井ヤシン・湊うさみん ひきこもり+セクシャルマイノリティのダブルマイノリティによる対談後編

ひきこもりはマイノリティであり、少数派です。そのうえに「セクシャルマイノリティ」という生きづらさを抱えていて、ひきポスのライターである二人。喜久井ヤシンと湊うさみんが対談を行いました。

お互いのセクシャリティへの興味、体験談、コンプレックスなどが入り混じった内容となります。
長文なので前後編に分けることになりました。

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(編集・湊 うさみん)

 

喜久井ヤシン・・・ゲイ
湊うさみん・・・トランスジェンダー・Aセクシャル・パンセクシャル

 

※この対談はFacebook上のメッセンジャーにて行われたものです。

 

→前編はhttps://www.hikipos.info/entry/2019/09/23/070000

 

後編 学校へ行こう!いやだ!

湊うさみん ちょっと前の記事にも書いたんですけど、私の場合は学校に行ったせいで精神的に良くなかったんじゃないかなと感じてるんです。


学校で男女の区分けをしっかりする場所だから性別違和にとっては苦痛で、しかも先生が男女差別してたんです。怒るとき、男の子は殴るけど女の子は殴らないっていうね。
それに、無口で不気味な存在っていう見られ方をしていました。オタククループの友達は多少はいましたし、いじめがなかったのは良かったですけど。


なので、学校という場所は普通にしてても苦しい場所っていう認識です。親から「学校には絶対行け」って教育を受けたのでサボれなかったです。

 

喜久井ヤシン 学校は多くを分ける場所です。学年、学力、クラス分け、名前順、席順などによって、本来かたちのないものを分断します。性別を意味する「sex」という言葉も、「sect」=区分を語源としていて、まさしく「分ける」ものです。男性か女性か、一年生か二年生か、甲か乙か……。

 

分けることによって、分かるもの・理解しやすいものになり、便利ではあるのでしょうが、その分類をするための線に、私のようなものは切断されてしまいます。枠組みの中でうまく立ち回れればよいのですが、マイノリティはそうはいきません。性においても学校においても、私は断ち切られて、ボロボロになってきました。

 

湊うさみん 私は学校は刑務所と同じだと思ってるんです。同じ服を着せられ、チャイムの音を合図に行動し、狭い部屋に大人数で閉じ込められ、看守(先生)には絶対服従っていう。学校って労働者育成センターですから、刑務所と同じ構造にするのが一番効率よく企業戦士を育成できるんでしょうね。そう考えると学校に順応できないのが普通じゃないのかなぁとも思うんです。

 

学校の歴史ってかなり新しくて、昔は寺子屋で勉強してたそうです。寺子屋に行かない子がいても「しょうがねえなあ」くらいで、「学校に行かない子どもはおかしいから絶対行かせるべき」なんて風潮はなかったとのこと。


現代は「働かない人はクズ」「学校に行かない子どもはダメ」という扱いで、多様性を認めず、単一の価値観に押し込めようとするせいでとにかく生きづらいですね。

 

喜久井ヤシン 今の「不登校」問題の生まれたのが、1950年代以降だったかと思います。私が知る限りでは、学校が現在のような位置づけになったのは、せいぜいこの半世紀のことです。私は学校については多くのことを考えてきたので、批判さえ簡単には語れません。おかしな言い方ですが、真剣に憎悪してきたので、今では学校が「悪い」とも言えなくなっているのです。


それはともかく、良い学校を出て、良い会社へ入るという流れはとても大きなもので、心理的に無視できません。就活の時でも、「正しい」格好のスーツを着て、「正しい」髪である黒髪をし、「正しい」マナーや立ち居振る舞いをせねばなりません。自分が学歴や資格を得られなかったことは、社会に対する劣等感になっています。はっきりとかたちのあるものにたよれないというのは、それだけで弱り目になってしまいますね。

 

湊うさみん  学校が嫌いなあまり、学校について徹底的に調べてたら学校のいいところも見えてきてしまい、純粋に憎むことができなかったというわけです?
学校のいいところというと、忍耐力を養えるところかなあと私は思ってます。生きるにおいて、忍耐力って大事ですしね。

 

他人に言えるような社会的ステータスって自分の心の安寧のために必要ですよね。ひきポスのライターを始めてから、一応は「ライター」と言えるようになったので、多少気分が楽になっています。


就職活動にとき、男性用スーツ着てましたけど、やはり苦痛でした、面接に向かう途中、「男性用の服で働くのと死ぬの、どっちがマシだろう」と真剣に考えてましたもん。

 

喜久井ヤシン 批判するなら、学校だけではなく社会のシステムを考えねばならないと思います。

 

「不登校」もそうですが、「ひきこもり」も「LGBT」も、社会の大きなシステムからはずれるところに生きづらさがあります。世の中と接点がある「社会人」でもなく、異性を好きになる「男」でもない。家族とか教育とか、大きなものが自分から抜け落ちてしまっています。

 

肩書きのない無職という点では、「ひきこもり」は「ニート」と重なるものです。ですが、やはり分けられてしかるべきものでしょう。ニートといえる人は、おそらく自分の好きなことを、他の誰かと楽しむことができます。けれど「ひきこもり」の問題はそういうものではない。自分を責めてしまっているせいで、深い意味での「遊び」ができないのです。

床屋にいって、「お仕事何されているんですか?」と話しかけられるのがこわくなるのは「ひきこもり」でしょう。たとえ話せる友人ができたとしても、「好みのタイプ」についての雑談が地雷になってしまう。「ひきこもり」と「LGBT」の二重マイノリティの状態だと、休むこと、遊ぶことがとても難しくなります。

 

湊うさみん 多数派から外れると生きづらくなるというのは、日本が日本人ばかりでみんな同じという意識が強いから、普通ではない価値観に遭遇したとき「異物」として排除したがる傾向があるからかなと考えているんです。


移民政策などで色んな民族の色んな価値観に触れるようになったら、特殊な人に対してもちょっと許容できるようになるんじゃないかな、と。


日本以外の国に住んだことがないので、推測でしかないですけどね。

 

喜久井ヤシン 日本社会に、全体体主義的な向きはあるかと思います。

 

湊うさみん ひきこもってるとただでさえ家族との関係が悪くなるのに、セクマイだとなおさらですね。うちも父親とは冷戦状態で全然口も聞かないです。
社会的地位から平穏やらお金やら将来やら、色んなものを失ってしまっているけれど、友達だけはいると前向きに〆ておきましょうか。

 

 

あとがき

喜久井ヤシン フェイスブックのメッセンジャーでおこなわれたやりとりを、湊うさみんさんがまとめてくれました。

 

二人とも「ひきこもり」で「LGBT」……ではありますが、その内実はほとんど無関係といってもいいほど、別々のものです。どのように重なっているかということよりも、一言でくくられるもののなかに、どれほど大きな違いがあるのかを読みとっていただけたら幸いです。


 

湊うさみん この対談は4月に行われたものです。ええ、今9月です。半年近くも期間が空いたのは、編集担当である私があんまり体調良くなかったからです。

 

私もヤシンさんも、ひきこもりとセクシャリティに直接の関係はないとしていますが、私たちと違ってセクシャルマイノリティの生きづらさのせいでひきこもった方もいるでしょう。

 

あくまでも色々なセクシャルマイノリティ・ひきこもりがいる中での一例であると捉えていただけると助かります。