(文・写真 喜久井ヤシン)
政治家などによるLGBTへの差別発言は、当事者を深く傷つけてきました。しかし直接的な言葉だけでなく、「語られなかった言葉」にも差別があります。今回は、小説や詩の言葉から〈生きづらさ〉を考察。ゲイの当事者の声をお届けします。
差別の真骨頂は、「見える」ことよりも「見えない」ことにある。
LGBTなどの性的少数者は、「一般的」な世の中から見えなくされてきた。
現代の日本において、ゲイがドラマや小説などで描かれることは、それほど珍しいことではない。
しかしそれなら、2000年代以前のテレビや小説は、そこにいたはずの人をどうして描いてこなかったのか。
トランスジェンダーを主役にした話は描かれても、女性の同性愛者が自然なかたちで登場していないのはなぜなのか。
描かれていないことや、物語られていないことに、人は敏感になれない。
社会の少数派は、気づかないうちに存在を修正され、削除され、改竄(かいざん)されている。
言葉そのもので作られる文学も、作品そのものが歴史的にくり返し書き換えられてきた。
17世紀に出版されたシェイクスピアの恋愛詩集は、文学史上に名高い名作と言われている。
しかし当初、同性の「彼」への恋を謳(うた)った詩は、男性名詞が女性名詞に書き換えられたもので、150年にわたり異性愛の詩にされていた。
同様のことは、映画の『恋に落ちたシェイクスピア』(1998年)でも起こされており、同性愛者だったシェイクスピアが、女性と恋愛をするストーリーになっている。
そこでは同性への恋をつづった名詩(ソネット)が、平然と、女性に宛てたものへと書き換えられていた。
映画はヒットし、アカデミー作品賞もとっているが、そこで描かれなかったものに対する批判の声は、ほとんど聞こえなかったといっていい。
また、ペルシャの偉大な詩人、ハーフィズの日本語訳は、男性美をつづったハーフィズの詩が、女性美を謳う内容にごっそりと「誤訳」されている。
訳者による伝記においても、まるで異性愛者が気まぐれに同性への詩も書いた、とでもいうようなニュアンスで、同性愛の逸話はおまけとして付け加えられているにすぎない。
しかし外国の批評家による別の本を読むと、同性愛がハーフィズの主題でさえあり、作品が熱烈な恋愛抒情詩(ガザル)であることがわかる。
同性愛の視点があるかないかによって、まるで違った人物像や作品が見えてくる。
他にも、同性の女性への恋をつづったエミリー・ディキンソンの詩が、「彼女」から「彼」に修正されていた例。また、「万葉集」の解説で、同性への恋文が、異性への恋文として紹介されている例などがある。
これらの、ささやかにして根こそぎの改竄は、多くの場合気づくことさえできずに、スルーしてしまう。
私自身も、修正されていることがわからずに、異性愛の記述として鑑賞しながら、あとになって憤(いきどお)るべきものだったと知ることがよくある。
ましてや、「一般的」なセクシャリティである異性愛者が、「描かれていない」性的少数者の存在に、わざわざ気を止めて悩むことは起こらない。
「一般」の異性愛者には「見えない」ものが、性的少数者である私の障害になっている。
女性の昇進を難しくさせる「ガラスの天井」のように、私の足元には、さながら「ガラスの墓石」とでも呼べるようなものが転がっている。
異性愛者では「見えない」墓石をよけて、自分自身の足でその段差を踏み越え、ときには足蹴にして、世間を渡っていかねばならない。
目に見える異性愛の世の中を当然のものとして受け入れ、男性社会の中で、なごやかに微笑み、同じように仕事をこなしていく必要がある。
この「見えない」墓はひどく疲れさせるもので、人と同じ距離を歩いているとしても、「見えない」障害物のせいで、周囲の人から見れば、なぜそんなに疲れているのかといぶかられてしまう。
異性愛男性に「特権」があるといっても、当の異性愛男性には、障害になるものが「見えない」ために、なぜ特権などと言われているのかが、本当に理解できないことがあるのだろう。
少数者に社会的なサポートをして、歩くことから苦しさを取り除こう、という取り組みは、本質的には「平等」なものだ。
しかしガラスが「見えない」特権的な人たちは、それを「不平等」・「逆差別」だと訴えさえする。
目に見える差別だけでなく、見えなくされた差別がどれほどあるかを数えられたなら、まっとうな理性でそのように言うことはできなくなるだろう。
願わくば多くの人たちに、まずは少数者を「見る」ことからはじめてほしいと思う、これ以上透明な墓石の数を増やさないように。
参照 ジェローム・ポーレン著『LGBTヒストリーブック』北丸雄二訳 サウザンブックス社 2019年
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執筆者 喜久井ヤシン(きくい やしん)
1987年生まれ。20代半ばまで断続的な「ひきこもり」を経験している。
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