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毎日を「何もしない」で過ごしていることにはとんでもない意義がある(かもしれない)

(文 喜久井ヤシン)

「何もしてない」のは人間失格?

 私はここ最近、社会的には「何もしてない」で過ごしている。物事にやる気が出ず、ネットやゲームを日に十時間以上して毎日が過ぎていく。働いてもいないし、勉強しているわけでもない。十代の教育マイノリティ(不登校)だった期間も、二十代の統合失調症の期間もそうだった。社会的には役立たずの、「何もしてない」人間でいる。「時は金なり」というし、現代社会で不生産的に過ごすことは、ほとんど犯罪みたいなものなのかもしれない。四六時中働きまわっている人のことを考えると、自分は人間失格だと思われてくる。ただ、「何もしてない」ことって、本当にそこまで悪いことなのだろうか。

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働きアリの7割は働いていない

 自己弁護みたいに紹介するけれど、「何もしてない」ことに意義が生じるケースもある。
 生物学者の長谷川英祐氏の研究で、7割のアリが働いていないことがわかったユニークな調査がある。アリのコロニー(巣)を調べたところ、エサ集めや幼虫の世話などをしない、全然働いていないアリが必ず一定数いることがわかった。(人間でいえば、すねかじりのニートだらけの社会というところではないか。)俗称が「働きアリ」であるにもかかわらず、一生涯まったく働かなかったアリもいるという。

 働くアリと働かないアリとを分けてコロニーを作った実験でも、同じコロニー内で、働くアリと働かないアリに分かれ、やはり「何もしてない」アリが出た。アリの社会を維持するためなら、全員が働いた方が良いはずなのに、どうして役立たずに思える、「何もしてない」アリがいるのだろうか。

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 長谷川氏は、その理由に昆虫の疲労を挙げる。昆虫にも人や動物と同じく疲労があり、働き続けると動けなくなるのだという。昆虫の労働効率を調べた実験では、疲労に関係なくアリ全員が働いた方が、当然仕事量は上がった。しかし全員がいっせいに働くと、全員がいっせいに疲れて動けなくなってしまう。疲れたアリばかりになると、卵の世話のように、コロニーの将来を左右する仕事もできなくなり、結果、コロニー全体の寿命は縮まる。
 一方、「何もしてない」アリのいるコロニーだと、一部のアリたちが疲れた場合でも、いざとなれば「何もしてない」アリたちが働きだし、仕事が滞らなくなる。疲れたアリも休息ができ、また動きだせるようになる。(休みがとれるので、過労死しないですむという感じだろうか。)結果として、「何もしてない」アリのいる方が、コロニー全体の寿命は延びる

 長谷川氏は書いている。

 『つまり誰もが必ず疲れる以上、長い時間を通してみたらそういうシステムが選ばれていた、ということになります。働かない働きアリは、怠けてコロニーの効率をさげる存在ではなく、それがいないとコロニーが存続できない、きわめて重要な存在だといえるのです。〔中略〕働かないものにも、存在意義はちゃんとあるのです。』

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――この生物学のエピソードは、勝手ながら勇気を受ける話ではある。ただ、これだけでは結局、いざという時に役立つから存在意義がある、という話になってしまう。働かない働きアリに文句はないけれど、「何もしてない」ことの意義にはまだ深淵があるように思う。

 

「何もしてない」神さまたち

 河合隼雄氏は神話研究の中で、心理学者のフォン・フランツが紹介した「中央カリフォルニア北部アコマヴィ族」の神話を取り上げている。世界の初めにはコヨーテと銀ギツネがいたけれど、ここに出てくるコヨーテが「何もしてない」。あらすじはこうなっている

 『世界のはじめ、晴れた空に突然雲が生じ、凝縮してコヨーテになる。次に霧から銀ギツネが生じ、二匹は船をつくって、水上に漂う船のなかに住む。長い年月のうちに彼らも退屈してくる。銀ギツネのすすめでコヨーテが眠っている間に、銀ギツネは自分の毛から陸をつくり、木や石や岩を加える。船がこの新しい世界に到着したときに、銀ギツネはコヨーテを起こし、二人は上陸して、そこに住むことになる。

 この二人の創造者の特徴は、一方が仕事をしている間、片方はただ眠っていることである。この点について、フォン・フランツは、コヨーテは銀ギツネの仲間として、「ただ眠っていることによって寄与しているのです」と語っている。』

 ゴロゴロしていたら世界が創造されたという、壮大な「何もしてない」ケースがここにある。もっとも、世界各地の神話にこのような存在はおり、古事記にもアメノミナカヌシという「何もしてない」神がいる。
 河合氏によるとこれらには「無為」の意義があり、あるがままにまかせて人と自然とが共生することの重要性が込められているという。

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どんな意義をもつかわからない

 生産性が重視される社会では、「何もしてない」ことは価値がないものとされてしまう。けれど人類史というのか、壮大なレベルで見ると「何もしてない」ことの有意義はけっこう言われてきた。

 思想的には「無用の用」(役立たずに見えるものがかえって役に立つ)という言葉もある。中国古典の「荘子」では、その例となる樹木の話が語られている。ある木を役立つものにしようとしても、舟にすれば沈み、道具にすれば壊れてしまうせいで、職人の手におえない。結果その木は伐採されることなく大木となって、やしろのご神木になる。社会的には役に立たない存在だったからこそ、別の意義をもつようになった。

 私は自分が「何もしてない」ことに、「人間失格」くらいの思いで自責をくり返してきた。けれど厳密に言うなら、それは「現代日本での優秀な社会人失格」くらいのことだ。(それで十分悪いという見方はできるけれども、)自分という存在まるごととか、生き物としての人間全体とかを否定することはなかった。そもそも、人間が一人存在していることの意義を、経済への貢献で計ることは間違っていないだろうか。数字には表れてこない別の尺度が、人の生きる世の中には含まれてあるように思う。「何もしてない」ことも、世間的な人知の及ばないところで、何かの意義になっているかもしれない。

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参考文献
長谷川英祐 『働かないアリに意義がある』 KADOKAWA 2016年
河合隼雄 『神話と日本人の心』 岩波書店 2016年

 

 執筆者 喜久井ヤシン(きくい やしん)

1987年東京生まれ。8歳頃から学校へ行かなくなり、中学の3年間は同世代との交流なく過ごした。20代半ばまで、断続的な「ひきこもり」状態を経験する。2015年シューレ大学修了。『ひきポス』では当事者手記の他に、カルチャー関連の記事も執筆している。ツイッター喜久井ヤシン (@ShinyaKikui) | Twitter

 

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