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「孤独」は日常に溶け込んでいる 私が行政の無料相談を使いたくない理由

文・写真 喜久井伸哉 / 画像 Pixabay

執筆者の喜久井(きくい)さんは、コロナ禍において、強い孤独を感じていたといいます。しかし、行政のサポートがあると知っても、どこにも相談しませんでした。サポートに頼らなかったのは、どうしてなのでしょうか。ひきこもり経験者の声をお届けします。

 


私はここ数年、ひどい孤独に、おちいっていた。
コロナ禍によって、参加していたイベントが消え、人と会う機会がなくなったことで、いつのまにか、心身が追い詰められていた。
何らかのかたちで、助けを求めた方が、良かったのだろう。
しかし私は、誰かに相談することを、まったく考えなかった。

行政などでは、孤独を感じている人に向けた、サポートがおこなわれている。
「悩みがあれば気軽に相談を」、「困り事があったらすぐに相談を」、などと言っている。
「相談」。人に話すことは、それは、良い効果はあるのだろう。
だが、問題が「孤独」だったとして、それを、「悩み」や「困り事」として、どう伝えたらいいのか。

孤独は、はっきりとした「事件」ではなく、「日常」のなかに溶け込んでいる。
日々を過ごしていて、少しだけきついとか、少しだけ寂しい、といった感覚くらいなら、ありふれている。
ある意味では、疲労のようなものだ。
ちょっと疲れているが、ちょっと休めばよくなるだろう、といった、「ちょっと」の変化にすぎない。
疲れがつづいていたとしても、しばらくすれば、良くなるかもしれない。
もうちょっとだけ頑張れば、良くなるかもしれない。
ケガや、病気や、災害とは違う。
孤独は、どこまでが安全で、どこからが危険か、を判別しづらい。
そのため、これを誰かに相談しよう、と思い立つタイミングがない。
私の、「日常」の辛さめいたものは、コロナ禍において、いつもあやふやだった。

これは、「ひきこもり」を、「悩み」や「困り事」ととらえられるかどうかとも、重なる。
孤独な人の一日や、引きこもる人の一日には、特別な「悩み」が、「事件」となって勃発するわけではない。
(むしろ、何も起こらない、ということが、問題になってくる。)
私は十代のころ、長い期間を、一人で過ごしていた。
それでも、ある一日だけを切り取れば、非ひきこもりの人の休日と変わらない、平時の姿でしかなかったはずだ。

 

 

たとえ、孤独に関するものを「悩み」として自覚できても、相談するまでの、ハードルが高い。
研究者の綾屋紗月(あやや さつき)は、「悩み」の語りづらさを指摘している。
綾屋氏は発達障害があり、当事者研究をおこなっていた。
「悩み」を人に語る重要性は、わかっていたはずだ。
それでも、なかなか人に話せなかった、という。

『実際は思い切って誰かに打ち明けると、「なに深刻に悩んでるの?そんなたわいのないこと、さっさと誰かにグチれば済むことなのに!」と言われてしまうことが多いのだが、話すほうにしてみれば、「たわいのないことだからこそ話せない」という事情がある。話すという行為は、「聞き手に脅かされない」という信頼によって支えられている。その信頼を持てずにいると、「たわいのないことにもかからず、毎回こんなに深刻に悩んでしまう自分」を恥じ、それを責められることに怯えて話せなくなってしまうのである。』(綾屋紗月・熊谷晋一朗著『つながりの作法』)

私は、「居場所がない」とか、「友達がいない」なんてことを、誰かに相談することが、ありうるだろうか。
「さびしい」とか、「一人ぼっち」だ、なんてことを、人に言いうるだろうか。
想像すると、まず、言葉にしたときの、その内容の「たわいなさ」に、自分自身が、傷ついてしまう。
「こんな程度のことに悩んでいるのか」と感じ、自尊心というのか、自分を支えているための何かが、欠損してしまう。
「自分を恥じる」、という表現では足りない。もっと、損害的だ。
相談相手に対して、一方的に、幼弱におちいり、恥辱を撃ち込むような自損。
そのようなことを、自ら、おこなえるだろうか。

 

もし特定の出来事であれば、少しは、自分と切り離して考えやすい。
病気や、事故や、災害の「悩み」なら、対応策を話し合い、今後どうするか、を考えていきやすい。
だが、孤独は「日常」にあり、自分と同化している。
どのように暮らしていくか、という態度まるごととかかわっており、自分と分離させられない。
「日常」を変えねばならないのだとしたら、自分とその生き方を、大規模に、否定することになってしまう。

 

また、相談した後にどうなるか、という怖さもある。
孤独だとか、「ひきこもり」だとかを、伝えたとして、相手がどのように反応するか。
恥辱とともに、ようやく伝えたのに、しょせんは、自分一人の問題にすぎない、とみなされたら、立ち直れない。
一歩もしりぞけないほど、ギリギリのときに、相手から、何か欠損してしまうことを言われたら、取り返しがつかなくなる。
世の中には、「自己責任」や、「自助」を重んじる発想が、蔓延している。
相談した相手も、そう考えるのではないか、と疑う要素は、いくらでもある。

 

さらに、(これは共感されないかもしれないが、)良い相手に相談できたとしても、良い方向に進む、とも思えない。
相手が真摯に話を聞いてくれて、さまざまなサポートや、居場所の紹介をしてくれたとする。
親身になって、「悩み」の「解決策」を出してくれたとする。
そうなったとしても、私は、まだ、うっすらと傷つく。
日常の孤独は、ある面では、「たわいのないこと」だ。
その「たわいのないこと」を、重々しくとらえられすぎたり、行政的なサポートを総動員されたりすることは、何か、負担に感じる。
「そこまで大きな問題ではないのに」、と感じたり、「自分は社会に面倒をかける存在なのか」、と感じたりして、新しい落胆になりうる。
立派な「対応策」が、必要以上に堂々と出されると、精神的な債務のようになる。
(これは、生活保護の受けにくさ、ともかかわってくる。)

このように感じるのは、自分の「悩み」を、過小評価しているせいかもしれない。
自分の「悩み」を、誰かに抱えさせるほどのものだと、自分自身が、思えていない。
真剣に「解決策」を出されるほどのものではない、と、否定したくなるような、心理がある。

自分の「悩み」が、相談に値しない、というだけではない。
もっと言うなら、自分自身が、誰かの手間をかけさせるものに、値していない、とどこかで思っている。

 

もちろん、行政であれ民間であれ、サポートはあってほしい。
今回は、サポートに対して、私が相談しないのはなぜか、という点についてだけ述べた。
サポートがないことや、内容が不十分なことの方が、はるかに問題だ。

(今回のような話のあとで何だが、)話を聞くことの必要性も、支援の必要性も、もっと大事にされる世の中になってほしい、と思っている。

「自己責任」の風潮も、消滅してほしい。

そして、そもそも、私が誰かに相談するに値するほど、わずかでも大事な存在だ、ということを、自分に信じさせてくれる社会があったなら。そのときには、誰かに相談することが、今よりも、はるかに簡単であるだろう。

 

 

 

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喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。 ブログ
https://kikui-y.hatenablog.com/entry/2022/09/27/170000