(文・みか)
46歳女性。現役ひきこもり当事者。16歳から30年間、精神
「いい子」になる他なかった
私はいわゆる「いい子」だった。
幼少の時より、父は仕事で朝8時頃出て、翌朝の3時まで帰ってこなかったので、私が父と会う機会はそれほどなかった。おまけに、当時は週休1日が当たり前で、日曜日に父が家にいたが、ほとんど眠っていた。
母はそれが寂しかったのか、ママさん卓球にのぼせ上がり、私が幼稚園や小学校から帰ってくると、いつもいなかったし、21時頃帰ってきた。その両親の気を引くため、私は「いい子」になる他なかった。
何歳の時だったか、親子3人川の字で寝ていた時、父が「殺してやる」と寝言を言った。そしてそれで目が覚めた私に、やっぱり目が覚めた父がニコーっと笑ったのだ。恐ろしかった。
私は、この人たちの言う事を聞かなければ、「子ども失格」の烙印を押され、追い出されると、本気で思っていた。母が冗談半分で「あんたは橋の下から拾ってきた子」と言っていたので、本気にしていた。
いつも1人で家にいることが多かったし、友だちの作り方も分からなかった。親子の会話もなかったし、どうやって人としゃべっていいのかも分からなかった。
夏休みのお昼ご飯は、いつも袋麺がおいてあるだけだった。自分で一人で作り、一人で食べていた。いつも寂しかった。
小学校6年生の時、父方の祖父母がいっしょに住まないかと言ってきた。6月のことだ。それで祖父母の家を建て直すことになり、引っ越しが決まった。引っ越し先の公立中学が新聞沙汰になるほど校内暴力が盛んで、私立の中学を受けることになった。
でも小6の6月だ。準備期間はお世辞にも多いとは言えない。ただ、運が良かったのか悪かったのか、合格してしまった。
私立中学には、親が2人共夜遅くまで出歩いている子などいなかった。皆お金持ちで、中1の時にもらった誕生日プレゼントが5千円するもので、お返しに非常に困った。躾も皆ちゃんとされており、私のような何も知らない子はいなかった。息苦しかった。
長い呪縛
常に母は私の成績には無関心だった。ただ、小さい頃からピアノを習っていて、練習だけはしつこく「しろ」と言われていた。今になって知ったことだが、母は、音大なら勉強ができなくても入れると思ったらしい。
自分の学力に自信が持てなかった母が、私を大卒にするために、考えたのが、音大に行かせることだった。ただ、音大は医大並みに学費が必要だと言う事を知らなかったらしい。音大に行くことが私の使命になっていた。この呪縛は長い間解けなかった。
高校にはエスカレーター式で入学した。それまで予習復習はおろか、宿題さえしたことがなかった私だったが、音大に行くためには勉強も必要だと思って、高校生になってから英語などの予習を朝2時までしていた。
中学2年の時に入った演劇部も続けていた(中高合同)し、合唱祭のピアノ伴奏も引き受けていた。無理が祟ったのか、夏休みに入るころには何もできない状態になった。夏休みはずっと寝て過ごした。2学期になっても体力が戻ることはなく、学校へは行けなかった。
私が中高生だったころは、まだ登校拒否と言われていた。不登校という文字が少しずつ現れ始めた頃だ。今のようにスクールカウンセラーがいるわけでもなく、親もどうしていいか分からず、私はただボーっとしていた。ただ、高校を辞めることになったら罪悪人になるということだけが頭をよぎった。
3学期になって、いよいよ進級が危ないという時に、学校から電話があった。残った日にすべて通学すれば進級させてやるというものだった。「罪悪人」になるのが恐ろしかった私は、言われるまま行った。それが最後のあがきだった。
2年生には進級したものの、また学校へ行けなくなった。学校に行かなくなった私は、動物のような生活をし、好きな時に起き、好きな時にコンビニに食べ物を買いに行き、好きな時に食べていた。歯磨きもせず、風呂にも入らず。
虫歯がたくさんできたし、頭には激しく掻いたため、かさぶたが何個もできていた。
音大に行かなくちゃ!と思ったため、大検を受けた。高1の単位を持っていた私は、3科目免除されて8科目受検した。
当時は大検の参考書など売ってなく、過去問が2種類発売されていただけだった。過去問を解くと、8科目中4科目はすでに合格点に達していた。残り4科目を、通信教育で勉強した。1回で全科目合格をした。
音大にも合格し、入学したが、体力不足で3ヶ月で辞めた。この3ヶ月は麻疹にかかったようなものだと、ひきこもり時期に入れて計算している。
今でも息を潜めて…
いよいよ望みのなくなった私は、4階から飛び降りた。だけど死ねなかった。親はこの頃になって、自分たちの「罪」を認めた。
ただ、もう遅かった。自殺未遂をしたことで、親に精神科に無理やり連れて行かれた。「発達障害」だと言われた。その後「人格障害」だと言われ、薬もたくさん飲まされ、頭の回転が鈍り、廃人のようになった。
それから何十年も家から出れない。病院にだけは行っているけど、祖父母が亡くなり、葬儀が行われても、私は出なかった。
世間体を気にして、両親は私の話を外でしない。「罪悪人」のまま、私は今でも息を潜めている。