ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

『ひきポス』は、ひきこもり当事者、経験者の声を発信する情報発信メディア。ひきこもりや、生きづらさ問題を当事者目線で取り上げます。当事者、経験者、ご家族、支援者の方々へ、生きるヒントになるような記事をお届けしていきます。

「二度と家族に近寄るな」 わが家の ”関ヶ原の戦い” ~ひきこもりと兄弟姉妹、私の場合~ 《 ひきこもりの考古学 第7回 》

画:ぼそっと池井多 with Leonardo.ai

文・ぼそっと池井多

・・・ひきこもりの考古学 第6回からのつづき

www.hikipos.info

男性に母子関係を考えさせない社会

33歳でひきこもった時、それは私にとって3度目のガチこもりだったので、私もさすがになぜ自分がいつもこのようになるのか、この際とことんまで突き詰めて考えようと思った。

そのときの詳細についてはあちこちで語らせていただいているので、本記事では多くを書かないが、ようするにフロイトを読んでセルフ精神分析を施したところ、自分の人生にまつわるさまざまな謎が解けていったのである。

もっとも画期的だったのは、母子関係にメスを入れたことであった。

 

当時の日本では、男性が母親との問題で悩んでいるのは大人げなく恥ずかしいという社会的認識が強かった。母のことを考える男性は「マザコン」という語で精神的な幼さを嘲笑された。そのため、私もそれまで長らくそこに向かい合うことができないでいた。

しかし考えてみれば、人間だれしもこの世界に出生して最初に出会う他者は母であるため、母との関係性を軸にして数多の人間関係を構築し社会性を獲得していくのだから、マザー・コンプレックスは多かれ少なかれ皆持っているのである。

世間的な圧力に負けていた20代の私は、自分のひきこもりが母子関係から始まっていることを認めたくなかった。そのため、自分が働かないのは社会のせいだ、労働環境が悪いためだ、などとさかんに喚いていた。(*1)

いつの時代、どこの国でも社会には必ず問題はあるから、「それは社会の問題だ」と言っているかぎりハズレがないのである。

「それは私がほんとうの問題から逃げている証拠だ」
と悟るまでに、14年もの歳月を要した。

 

*1.就職氷河期にひきこもった方々には「ひきこもりの社会的要因」について異なった環境があったかもしれないが、私の場合はバブル経済の真っ只中に最初のひきこもりを始めたので、その点社会のせいにはできないのである。

 

子どもから主体を抜き取る方法

幼少期、母は私という子を思い通りに動かすために、
「お母さんのいう通りにしなかったら、お母さん死んでやるからね」
と日常的に脅迫した。

どんな子にとっても、世界でいちばん失いたくない存在は母である。幼い子どもは自己という概念がわかっていないので、自分が死ぬよりもお母さんが死んでしまうことを恐れている。それは愛着であり、依存でもある。私もそうであった。

 

人を操る天才であった母は、そこを使ったのである。
母という人質を、他でもない母自身によって握られた私は、人質が殺されないためなら何でも言うことを聞かざるを得なかった。

母に言われれば、どんなに恥ずかしい不本意なこともやった。子どもの私は母という親に対して自我を捨てていた。そこに私は、近親姦家庭における父による娘への性的虐待と共通の構造を指摘する(*2)。私にとって母のいう通りに何かを行為するとは、すべてそういう娘が父に身を委ねるのと同じことであった。

 

*2. 約15年もの間、私の主治医であった精神科医の齊藤學さいとう・さとるは、私が指摘する「性虐待が虐待たる所以は、性器の侵襲であるよりも先に主体の剥奪である」という理論を理解しなかった。それは彼の理解力の不足か、それとも患者ごときに指摘されてたまるかと依怙地になっていたせいかは不明である。一時期、私が精神医療というものに不信を抱いた原因もここにあった。

 

 

そこに加えて、母は私が物心つくかつかない頃から、
「お前はお母さんがいなくなったら何にもできないんだから」
と言っていた。
そのため、私は、
「ぼくはお母さんがいなければ何もできないのだ」
と思いこんでしまった。
ご飯も作れない、服も洗えない、自分で生きていくことすらできないのだ、と。

あとから考えれば、これは母が自らの有用性を私の骨の髄まで知らしめ、自立を考え始めないようにするための洗脳にすぎなかった。実際は母がいなくても生きていけたはずだ。

私の場合は、さらにそのようにまちがった母親を支持して、異論を唱える私を否定する家族の構造があった。母を恐れる父は、母がどんなまちがったことを言っても、母を支持して私を叱ったのである。

 

ひきこもりを脱するために家族の協力を仰ぐ

このようにさまざまなことが、30代に起こった4年にわたるガチこもり期間にわかってきた。その結果、私は一つの結論にたどりつく。

「もし私がこの状態から脱したいのなら、家族の協力が必要だ」

あらゆる病気はそうかもしれないが、とくにうつ病のような精神疾患から治るには、家族の協力が不可欠だと言われている。
だから私も家族に協力を仰いだ、ということもあるが、それだけではない。

 

病んでいるのは私一人ではなく、私の病は家族全体が病んでいる歪みから来る表出だという見解を、他でもない家族に理解してもらう必要があった。

ちょうど建物全体が歪むとどれか一つの柱へ過重な負担がかかるように、家族全体の歪みが私にのしかかり、私はうつや強迫というかたちで悲鳴を上げていたのである。それで社会に出られない状態になっているのが、外からは「ひきこもり」と呼ばれる状態となっていたということだ。

これでは、もしひきこもりに「治る」ということがあったとしても、私が一人で「治った」ところですぐ次の歪みが家族から私へ押し寄せてきて、同じ結果となるだろう。だから、もし私がひきこもりから脱してふつうに働く人生にしようと思ったら、どうしても家族の協力が要ったのである。

逆にもし家族がその歪みを正していけば、私も自然に「治って」いき、いつのまにか人並みに働ける人になるのではないか。……

そのためには、まず私がガチこもりを経てたどりついた家族史観を家族で共有してもらうべく、家族会議を開く必要がある。

そこで私は、なぜ自分が家族会議を開いてほしいという考えに至ったのかを説明する長い手紙を原家族に出すことにした。

 

母に読ませたいから母に宛てて書かない

当時、私は埼玉県に一人で住んでいて、原家族は名古屋にいた。

その手紙を原家族の誰に宛てて出すか。それはよく考える必要があった。

家族の行事を決めるのは、家族で権力を持っている母だから、母宛に出すのが筋である。そもそも母に問題があるという話だから、そういう意味でも母に出したいところである。

しかし、母の人格を知り尽くしていた私は、手紙を母宛にしなかった。
母という人は、宿敵のような存在である長男の私がそういう手紙を送ってきたら、まず読まないだろうと予想されたからである。

そこで私は父宛に出した。
すると案の定、母は自分の知らないところで父と私が何か画策しているのではと気になって、私の父宛の手紙をこっそり盗み読みしてくれた。
こうして私はまんまと母に手紙を読ませることに成功した。
それで1999年5月に名古屋の実家で家族会議が開かれることになった。

ここまで大がかりな家族会議が開かれたのは、この核家族が生まれて以来、初めてのことであった。
そして、ここまでは私の計算通りだったのである。

 

否認の壁

私としては、会議はこのように進行させるつもりであった。
まず、私に見えてきた家族に関する認識を母や父や弟に共有させていただく。
具体的には、
「今までこの家族では、いつもこういうことが起こってきたよね。こういう展開になるよね」
と具体例を挙げて事実認定をおこない、それが私の精神にどういう影響を及ぼしてきたのかを説明する。

それを以て家族全体が構造的に病んでいることを理解してもらい、全員で家族療法につながるようお願いする、というものである。それで私も心の病を治して普通に働く人になれるだろう。


ところが家族会議を始めてみると、まず「この家族には今までこういうことが起こってきたよね」という事実認定の段階で、すでに私の目論見と違ってきた。
ここで母親が、
「お前が言っているようなことは、この家族に起こらなかった」
などと言い始めたのである。

私は呆気にとられた。
母にはもともと虚言症の癖があったが、まさかここまで大胆に事実を否認してくるとは、息子として母の近くでずっと生きてきて、母の言動のパターンをだいたい把握しているつもりになっていた私もついぞ予測していなかったのである。


母はすかさず父と弟に、
「ね、そうでしょ。起こってないわよね!」
と威圧しながら同意を求めた。

母を恐れる父は、直ちに母の意を察し、
「うん……うん!起こっていない」
と同調した。

 

権力構造というものは、その舞台が国家であろうと家族であろうと、起こる事象の性質は同じである。
こうなると、父はとうぜん母に従う。

それでも、私はまだ弟に望みをつないでいた。
ここで弟が、
「いや、お兄ちゃんの言っているとおりだよ。うちではいつも、そういうことが起こってきたし、今もそういう風に物事が運んでいくよ」
と私を支持し、母へ叛旗をひるがえしてくれることを期待したのである。

弟も私と同じようなことを母親からされている以上、このさい私といっしょに蜂起することは、弟にとってもメリットがあるはずだった。

 

ところが、私は度肝を抜かれることになった。
弟も父親にならって、
「うん、起こってない」
と言ったのである。

 

慶長5(1600)年、日本の歴史のなかでも最大級の合戦、関ヶ原の戦いはある局面まで勝負は互角に進んだが、豊臣秀吉の甥っ子であり、西軍の重要人物であった小早川秀秋が突如として西軍を裏切り、東軍に転じたために勝敗が決したといわれている。

 

弟の「うん、起こってない」というひと言は、まさに小早川秀秋がわが池井多家にも出現した瞬間であった。

私の目の前に、母・父・弟が協働して築いた堅固な否認の壁があらわれた。

このため、わが家の関ヶ原は私の目論見とは180度違う方向へ進行していった。
みんなで家族療法につながるどころか、起こっていないことを「妄想」として語り出した私が家族の中で一人だけ頭がおかしいということにされ、家族会議は幕を閉じたのである。

 

関ヶ原の戦い(関ヶ原合戦図屏風 by 関ヶ原町歴史民俗資料館)

 

弟の叛旗

なぜ弟は小早川秀秋になったのか。

あとから考えれば、いろいろと思い当たる節がある。

 

まず弟にとって、私は父親だったのだと思う。

兄との年齢差がニ、三歳であれば、力の差も大したことはなく、たまには弟が喧嘩に勝つことがあったかもしれない。しかし八歳上となると体力でも知力でもその差は歴然として、勝つ可能性はゼロに等しい。弟にとって私は壁だったのである。

 

「お兄ちゃんにはいつもかなわない。悔しい」

そんな感情を弟が極めたのは、おそらく中学受験であった。

弟は、私が通った私立の中学校を受験して落ちた。

私から見れば、私は母親にそれだけ激しい教育虐待を受けたから合格しただけの話であって、弟が私より頭が悪かったということではない。弟を受験させるときには母親も人間的に少し成長して、虐待が甘かったため、弟は落ちたのである。

ところが弟は、そうは考えない。

前にも述べたように、私が中学受験のとき、母は、
「お母さんのいう通り勉強しないのなら、お母さん死んでやるからね」
と脅迫することで私を勉強に駆り立てた。

いっぽう、弟が中学受験のとき、母は、
「お兄ちゃんは昔、この問題できたのに、お前はできないの」
と弟の私への競争心や敵愾心を煽りたてることで弟を勉強に駆り立てていた。
そのため、結果として受験に落ちたことは、彼にとっては自分が兄よりも無能の烙印らくいんを捺された記憶となってしまったのである。

 

そんな弟は、「いつの日か兄に勝ちたい」と炎を燃やしながら思春期を成長していったのに違いない。私に勝つことが、彼の人生目標でもあっただろう。
ハ年の年齢差が、もはや能力差にならない大人になるまで、彼は反撃の機会を待っていたのである。

 

父親としての兄

そこへ加えて我が家では、父が父としての機能を果たしていないという実状があった。
学歴も収入も高い妻に頭が上がらず、いつも家の隅で卑屈に小さくなっている父は、子どもである私たちにとって父性機能を果たさず、父親像としておきてを与える存在になりえなかったのである。

生きていくために、子どもはこの世界では何をやってよくて何はやってはいけないか、人間世界の基本的な掟を誰かから吸収する。健康的な核家族では、父がその役割を担う。しかし父がその役割を果たさなければ、子は他に父になってくれる人を求めて精神世界を彷徨ほうこうする。

私もご多分にもれず青年期から成人期にかけて、父親像を求めてみっともない旅に出ることになった。大学時代に主任教授に対してとった失礼な言動の数々も、のちにアフリカ大陸をさまよった「そとこもり」も、私にとってはすべてそんな過程であった。

 

しかし弟には、身近なところに私という人間がいた。

子どもである弟にとって、私はすでに世間を知り尽くした大人に見えた。

もちろん、私はまったく世間などわかっておらず、私自身がそういうものを教えてくれる人を求めていたのだが、弟の前では兄としての面目を保つために見栄を張り、また彼のニーズに応えるかのように、乏しい人生経験の中から処世訓らしきものを偉そうに彼へ与えていたのである。

 

こうして私はいつのまにか弟にとって掟を与える存在、つまり父となっていた。

精神分析的に、男性は大人になるときに「父殺し」をおこなう。実際の父を殺すのではなく、象徴的な父を凌駕する瞬間を迎えるのである。弟が大人としての自我を獲得したときに私を打倒する企てを持つことは、いとも明らかであった。

子どものころ、自分がけっして勝てない鉄壁のような存在であった兄は、いまや三十代の無力な中年ひきこもりとなって目の前で憐れみを乞うている。……

家族会議における弟の裏切りは、彼にとっては父殺しの瞬間だったのだ。

 

画:ぼそっと池井多 with Bing Image Creator + Adobe Photoshop

結婚して世の中の体制に入る

もう一つ、表面的だが現実的な理由もあった。
弟は家族会議のころ、結婚を考えていたのである。

 

弟は、私と同じように若い頃はほとほとモテない男子であった。
私は中学高校と男子校で、周りに女子がいなかったから、モテなくてもそれを実感する機会すらなかったのだが、弟は私立を落ちて公立へ行ったので、モテないという厳しい現実をじかに噛みしめていたことだろう。

それが大学を卒業し、就職して地方に飛ばされているうちに、「東京から来た男」というセールスポイントが功を奏し、地方脱出を夢見る現地の女性をゲットして、ついに彼にも結婚のチャンスが到来していたのである。

 

婚姻制度は一つの虚構にすぎず、結婚するとはその虚構に支えられた世の中の体制に入ることに他ならない。

例えば、「結婚は本人たちがやるものだ」などと口では言っていても、いざ結婚するとなれば向こうの親に挨拶しに行ったりする。子どもが生まれれば保育園を探さなければならないし、ママ友やパパ友のつきあいが始まり、子どもが学校に入れば、くだらないと思っていてもPTAに参加しなければいけない。これらはすべて世間の体制である。

結婚する者は、たいてい世間に対しておとなしくなり、体制の仲間入りを果たす。

原家族のなかでは、親が体制をつかさどっている。
となれば、弟の場合、母による虐待の傷をたとえ煮え湯として呑みこんでも、反体制である兄を裏切り、体制である母親の側についた方が、その先の人生は有利である。
弟はそんなことを無意識に考えたに違いない。

 

関ヶ原の合戦から東京に帰ってきて、2、3日すると弟から電話がかかってきた。

私がまだ家族療法だのうつ病からの回復だの言っているのを聞くと、弟はこう言ったのである。

「まったく暇だな。他にやることはないのか」

私は、弟との間に広がっている、地底深くまでつづくクレパスのような距離に絶望した。

 

私は、暇であったわけでも、他にやることがなかったわけでもない。
やることはたくさんあった。
しかし、次から次へと日常に押し寄せてくる現実的な「やること」を処理しているうちに、人生でいちばん大切なことが先延ばしになっているという状態に、私はもうそれ以上耐えられなくなっていたのだ。

私にとって、人生の根本的な課題をなおざりにして当座の食い扶持を稼ぐだけのために流れていく日々は、年月の表面を空虚に滑走しているだけで、それこそ私はもう「そんなことをやっている暇はなかった」のである。


しかし今、弟はこういうのであった。
「まったく暇だな。他にやることはないのか」


これは、同じ母親から八年という年月を隔てて産み落とされた、長男と次男のあいだに広がる、絶望的な距離を示している言葉であった。


さらに、そこで弟は追い打ちをかけるように言った。
「二度と家族に近寄るな」

 

それは、私を家族から放逐する宣告であったのと同時に、すでに私は家族ではないという響きがあった。

池井多家の子ども世代の代表者は、もはや長男である私ではなく次男である弟であり、まるで権力を持つ兄が弟に宣告するように、弟は私に家族からの放逐を申し渡したのである。

それ以降24年間、私は彼ら原家族との音信不通がつづいている。

 

 

・・・ひきこもりの考古学 第8回へつづく

www.hikipos.info

 

<筆者プロフィール>

ぼそっと池井多 中高年ひきこもり当事者。23歳よりひきこもり始め、「そとこもり」「うちこもり」など多様な形で断続的にひきこもり続け現在に到る。VOSOT(チームぼそっと)主宰。
ひきこもり当事者としてメディアなどに出た結果、一部の他の当事者たちから嫉みを買い、特定の人物の申立てにより2021年11月からVOSOT公式ブログの全記事が閲覧できなくなっている。
著書に
世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現』(2020, 寿郎社)。

詳細情報https://lit.link/vosot
Facebook : チームぼそっと(@team.vosot)
Twitter : @vosot_ikeida
hikipla
 「ひ老会」ほかリアル対面開催イベント: https://hikipla.com/groups/57
 「4D(フォーディー)」ほかオンライン開催イベント: https://hikipla.com/groups/83
Instagram : vosot.ikeida

 

関連記事

www.hikipos.info

www.hikipos.info

www.hikipos.info