文・ぼそっと池井多
・・・「ひきこもりの考古学 第7回」からのつづき
「自分は愛されてこなかった」
と今の私が言っていることを、もし母が知ったなら、たちまち激昂してきっとこう言うにちがいない。
「何言ってるの。ちゃんとご飯食べさせてあげたじゃない」
飢える苦しみがないから
生き苦しさを訴えられない
母は塾をやっていた。
私が生まれる前は学校の教員だったらしいが、私にはいっさい過去を語らないので、よくわからない。
のちに私が搔きあつめた断片情報から推測するに、たぶん学校で教えていて、それが私立だったために学校の生徒を家でも教えて副収入を得るようになり、私が生まれてからは後者だけに絞るようにしたのだろう。
ところが母はその点すごい人で、担当の英語科だけでなく、しだいに数学、国語とつぎつぎと教える科目範囲を拡げていった。
あきれたことに、フランス語なんて大学の第二外国語で取っただけで
対象学年も、下は幼稚園から上は大学浪人生までと幅広く、すべてのクラスが終わるのは夜11時ごろだった。
私たち家族四人の夕食は、そのあとである。
たとえ遅くなっても、母は夕食というと、家族で食卓を囲むことにこだわった。
付近に店がなかったわけではない。私たち子どもに小遣いを持たせて、夕食どきに何か食べに行かせることも、あるいは店屋物(*1)を取って先に喰わせることもできただろう。
しかし、母は決してそうはせず、どんなに深夜になっても、あくまでも自分で作った夕食で家族に食卓を囲ませた。
それが正しい家族のあり方だと考えていたようなのである。
*1. 店屋物(てんやもの)今でいうデリバリー。当時はÜberEatsのようなシステムがなかったので、個々のお店が自分たちで配達していた。
母と食とのあいだには、奇妙な関係が浮かびあがる。
児童虐待の種類には、ネグレクトなど子どもに然るべき食事を与えない虐待がある。私は幼時より母からさまざまな種類の虐待を受けたものの、しかし食べ物が与えられず苦しんだ記憶だけはない。いつも満腹で苦しかったくらいである。
「それはよかったね。恵まれていたね」
という人もいるだろう。
ところが、私の耳にはこうした声が虐待の二次加害のように響き、虐待被害者の
「食べさせた」という勝利感
母の作る食事は、バターや肉をたっぷりと使った洋食が多く、めざしと味噌汁だけの簡素な和食を、幼い私はついぞ食べたことがなかった。
うちの経済水準は貧困層だった。私は欲しいものなど買ってもらったことがない。だから、資力に任せて豪勢な食事を摂っていたのではないのだ。
どうやら母の家系は、明治時代には欧洲に駐在する外交官も輩出していた横浜の上流階級だったらしい。それが東京の下層階級である山谷の近くの出身の父と結婚して貧しい家庭をつくった。バタ臭い洋風の味付けは、母の出自を示すものなのかもしれない。
しかしそれ以上に、ボリュームのある料理はそれを作る母にとって「相手に食べさせた」という満足感をもたらすものだったようである。
料理する人ならば誰しも身に覚えがあると思うが、つくった料理を相手がたくさん食べてくれると嬉しいものである。
けれど、その喜び方にもいろいろあって、
「相手が食べた。しめた。やった」
という
苦痛の食卓
私にとって家族で食卓を囲む時間は苦痛以外の何物でもなかった。
私が望む食事とは、単なるカロリーや栄養の補給ではない。
たとえば鍋物であれば、一つ一つの具材を「煮る」という行為から楽しんで、会話をはずませ具材を味わい、食べたものが自らの体温となっていくのを実感する時間であってほしい。
それは私だけでなく、母を恐れて口に出さないだけで、父もきっとそうだっただろう。
ところが、塾の生徒たちが帰った後に広げられる食卓で、母はまるで大量生産の工場のように次から次へと鍋の中に具材を放り込み、
「ほら、食べて食べて!」
とあわただしく号令をかける。
煮えすぎるとまずくなるから早く食べろ、というのである。
言われたところで、そんなに早くは食べられないし、食べたくもない。そこで、私たちが自分のペースでゆったりと食べていると、母は、
「あああ! 煮えちゃう煮えちゃう!」
と、まるで家でも焼けたかのように騒ぎ出す。
しかたなく私たちは必死に箸と口を動かすのだが、母の要求するスピードにはとうてい追いつかない。すると、
「ほーら、煮えちゃった!」
などと、まるで私たちがものすごく悪いことでもしでかしたように溜め息をつくのである。
母のそんな溜め息から、私たちは毎度大きな罪悪感を抱えこんだ。
こんなやりとりを聞いて、人は、
「馬鹿馬鹿しい。そんな母は放っておけ」
と笑うことだろう。
「お母さんにとっては、作ってやった食べ物の美味しさが彼女自身の人間評価に直結していて、それをまずく食べられると彼女の価値が低められたように感じてしまうのだ。それはお母さんのエゴだから、つきあってやる必要はないよ」
と。
ところが、そうは行かないのだ。
放っておくと、母は、
「じゃあ、もう食べないでいい!」
といきなり破裂し、一転して私たちに夕食を打ち切らせ、台所からゴミ袋を持ってきて、食卓に並んでいる料理を土石流のようにその袋へ流しこんでいくのである。
もはや
「何も捨てなくてもいいじゃない」
というまともな声が通る空間ではなくなっているので、こうなるともう止めようがない。
悲しいし、腹が満たされないうちに食事を終わりたくないし、そもそも貧乏人なもので「もったいない」と思ってしまう。
私たちは母の食事を食べたくないわけではないのだ。だから土石流が発生しないように、すなわち母が感情を損ねないように、私たちは注意深く感情をおさえこみながら、初年兵のように従順で機敏に鍋から揚がった具材を口の中へほうりこんでいく。
このように私たちの食事はいつも、遅滞なき消費であり、家庭を運営するための職務であった。
私がのちに仕事をしない人になった一因は、幼いころから日常生活そのものがこのように職務だった点にもあるかもしれない。
食の密貿易に手を染める
母に「食べろ、食べろ」と言われるままに、自分の食欲を超えて食べていたら、小学生の私は風船のように膨らんで肥満児になっていった。
まるでブロイラー(*2)に餌を与えられている気分だった。
母は「食べさせる」以外の「母のやり方(mothering)」がわからなかったのかもしれない。すなわち、「受け止める」「見守る」「信じる」といったことは、母の中では「母のやり方」のスキルに含まれていなかったのである。
*2. ブロイラー(broiler) 工場のような養鶏場で飼育されている食肉用のニワトリたち。
ところが中学校に入ると、私にも自我が芽生えた。
相撲部でも柔道部でもないのに、母は私の弁当箱に他の生徒の3倍はあろうかという分量を詰め込んだ。そして全部食べてこないとすこぶる機嫌が悪くなった。
一方、私の横の席に丸井(仮名)というクラスメイトがいた。彼もまた相撲部でも柔道部でもないが、まるまると仔豚のように太っていて、たいへんな大食いであった。
しかし彼の親は彼にダイエットをさせ、少しでも痩せさせようとしていたため、彼の弁当箱には他の生徒の3分の1くらいしかご飯が詰められていなかった。丸井はいつも腹を空かせていた。
やがて、私と丸井の間に昼食時になると一つの習慣が生まれた。
私は母からギュウギュウに詰めこまれた弁当の3分の2ぐらいを丸井の弁当箱へ入れてやり、丸井はそれをうまそうにパクパクと喰った。
私たち本人は当時気づかなかったが、食べさせる私も、食べる丸井も、食をコントロールしようというそれぞれの母に対抗する息子たちによる密貿易をおこなっていたのである。
ただ、この密貿易によって、私も丸井も、何も知らない私の母も丸井の母も、四人がみんな幸せになっていたことは確かである。
「誰もがみんな幸せになる社会」といった偽善的なフレーズがよく福祉や支援の業界で使われるが、それはきっとこのように実現されるのだろうと思う。
「食べない」という抵抗
母はひとに「食べろ、食べろ」というくせに、自分自身はあまり食べない。
それどころか、何か自分の思う通りにならないことがあると、母はすぐ食事どきに「食べない」という態度をとって、私たちへ向けて陰湿な気配を放散するのだった。
そういうとき、母は家族の食卓で一人だけテレビを見ずに下を向き、
父と弟と私は母の爆発を恐れているから、これ以上1ミリたりとも母を刺激しないように神経をつかっている。まるで金融監督庁の査察が入っている最中の銀行員たちが戦々恐々としながらも平生をよそおって通常業務をこなすように、何気ない顔をして粛々と食事をすすめるのである。
「食べない」という態度から、母が私たちへ発信しているメッセージには、自分のいうことを聞いてくれない恨み節のほかに私たちへの軽蔑も含まれている。「食べろ」と言われるままに、ついつい食欲に抗いきれずパクパクと食べてしまう私たちを、うっすらと蔑むような表情がまじっているのである。
こうした母の無言のメッセージに、私たちが気づかないふりをしていると、やがて母はつと立ち上がり、台所の冷蔵庫から小さな弁当箱を出してくる。そこには二、三日前の残り物が、まるで野菜クズのように汚らしく詰め込まれている。
それを母は、一人でいかにもまずそうに
これによって母はしきりに私や父に、
「自分はこういうことをしている。早く気づいてよ」
と無言で叫んでいるのである。
この時分、まだ弟は小学校低学年で幼かったので、母のメッセージの送信先には含まれていなかった。
むろん父は、早くから母の異変に気づいている。
しかし、へたに敏速に対応すると、かえって母が調子に乗ることも経験的に知っている。だから、しばらく放置しているのである。
やがて父は頃合いを見計らったうえで、
「なんだ、どうしたんだ」
などと、とぼけた声を母にかけてみせる。
母は、
「え? 何でもないの。これ残っているから、食べてるの」
などと答える。
言葉には日常の
「何でもないわけないだろ! もっと私に関心を示せ! もっと私のいうことを叶えろ!」
という金切り声をミュートで発している。
隠し持っている要求を、正々堂々と言葉に出して表明したくないものだから、いつも母は「食べない」という態度で私たちに、
「あとはお前たちが空気を読んで、内容を判断して解決しろ」
と未分化なメッセージを丸投げしていた。
小学校高学年くらいから、私はそんな母が業腹で仕方がなくなった。
だから、そういう時はわざと母に聞こえるように、父へこう言ってやった。
「いいじゃない、お父さま(*3)。お母さまは、それ食べてるっていうんだから、ほうっておいてあげれば。何を食べようと、人の勝手だよ」
いかにも母をかばうようでありながら、じつは拗ねた母の戦術を無効にするようなことを、この少年は言ってのけるのである。
我ながら、かなり根性の悪い子どもであった。しかし、このような根性の悪さを持たなければ、生き残れない家庭であったことも弁解させてほしい。
こういう私の言葉がまた、母はいまいましいので、母は食事中さらにいじけた態度をとるようになっていった。
*3. お父さま・お母さま 私の原家族では、母の方針で幼時より父母のことは「お父さま」「お母さま」と呼ぶようにしつけられた。経済的には下流階級だったので、こうした上流階級的な家庭内呼称は不自然だった。こうした不自然さも、我が家が家族としての自然なまとまりを獲得できず、やがて分断し音信不通になっていった遠因であると考えられる。
なお、「お父さま」「お母さま」という呼称教育は8歳下の弟には適用されず、弟は大人になっても「パパ」「ママ」と呼んでいた。この違いは、私と両親、弟と両親の関係性の差異を象徴的に物語る。
「母」のアリバイとしての「食べさせる」
現在、ひきこもり界隈であれこれとタブーに触れた発言をしてしまう私を「周囲の空気が読めない発達障害」と評している人々が少なからずいるようである。
発達障害は当たっているかもしれないが、じつはあまり空気が読めていないわけでもない。相手の意図が読めれば読めるほど、そういう相手の意向に合わせてたまるかという気持ちが湧き起こるのである。
はっきり言われれば、気持ちよく正面から対応したい。でも、
「言葉では言わないけど、空気で察してくれ」
といわんばかりの湿った態度で接せられると、私は母を思い出してしまうことがある。
それが外へ出ることに慣れていないひきこもりの当事者さんなどだったら、まだいい。察してあげるのが、私に求められている役割なのだと肚をくくる。
ところが、私と同じくらい外に出ている、れっきとした当事者活動家や専門家だったりすると、たちまちねじくれた甘えに見えてしまう。
そういう態度に接するたびに、思わず「おえーっ」とペースト状になって粘性の高い内容物を胃から口へ逆流させて外界に押し出したくなるのだ。
人は皆、苦労して自分の思いを言葉にするという仕事をしているのに、自分だけその労苦を執らないで、その怠慢を他人の「空気を読む能力のなさ」にすりかえるなど図々しいにもほどがある、などと思ってしまう。
かなり性格の悪い奴である。
先ほど書いた、中学時代の弁当横流し事件もそうだが、思春期になって私は拒食症になった。
小学生のころは肥満児だったのに、育ち盛りの高校時代になるとできるだけ食べないようにして、それによってかろうじて自分をなけなしのプライドで支えて立っていた。
ようするに、摂食障害だったのである。
それは、成長するのを拒否していた現象と考えることもできる。成長の拒否という点で、その後の私のひきこもり人生に結びつけて解釈する専門家が出てきても不思議ではない。
摂食障害は、母との関係から来る病気だとされる。
私もそうだと思う。なぜならば、同じ母から育った弟も、私の8年後に高校生になるとやはり拒食症になったからである。弟の場合は、私などよりはるかに痩せてガリガリになった。それによってなんとか自尊心を保っていたようである。
見栄っぱりの弟は、自分の拒食症に高尚な名目をつけた。
「ガンディーの思想に共鳴したから食べない」
というのである。
ときに 「食べない」という行為はさしも崇高である。
インドの父、マハトマ・ガンディーは祖国の平和のために断食し、女性哲学者シモーヌ・ヴェイユは思想のために餓死した。彼ら彼女らの前では、毎日たらふく喰っている私たちは堕落したブタ野郎に見えてくるものである。
たしかに「食べない」ことによって、人は動物的な欲望を克服し、精神性を高めた存在になったという自信と幻想を抱きがちである。
「食べない」ことによって人は優位に立ち、「食べる」ことによって堕落する。
「食べない」ことは勝利であり、「食べる」ことは敗北であった。
しかし弟は、自分の拒食が母への抵抗であることに気づいていたふしもある。
なぜならば、ある日、台所で弟と母が口論していたときに、弟が、
「そんなに人に食べさせて、いったい何が面白いの?」
という言葉を母にぶつけていたからである。
壁をへだてて聞いていた私は戦慄した。そしてわが弟を、幼いくせに人間の本質をえぐりだす能力を持っているすごい奴、と尊敬したものである。
ここで母は、
「あんたが育ち盛りでおなかが空くでしょうから、たくさん食べさせてあげているのに、そんなふうに言うのはひどいんじゃない」
といえば済む立場にあった。それで悪意も我欲もない「いいお母さん」になりおおせてしまえば、それはそれですべての辻褄が合うのだ。
しかし、母も虚を突かれたのか何も言えず、台所には張りつめた沈黙が流れていた。
言葉には出さないまでも、私も弟も、生まれて以来の母との関係性から、今の私が使える言葉でいえば、ようするに母の中にはこんな告白が渦巻いていると思ったのである。
そんなにあんたたちを食べさせて何が面白いのか、って?
それじゃあ、教えてあげましょう。
あんたたちをたっぷり食べさせていれば、わたしが『母』をやっていることになるからよ。
わたしはほんとうは『母』をやっていない。
子どもの存在をまるごと受容して承認し見守るなんてことは、とうていやっていないし、わたしにはできない。
だって、わたしはまずわたしを認めてほしいもの。
でも、それを認めちゃったら『母失格』ということになる。
わたしみたいなプライドの高い女が、子どもを産んでおきながらそう認めるわけにはいかないじゃないの。
だからここは、何としてもちゃんと『母』をやっていることにしなくちゃいけないの。
そのためには、とにかくあんたたちにたくさん食べさせておかなくちゃいけないの。
あんたたちがまるまると太ってれば、世間の人はわたしが立派にお母さんをやっていると思ってくれるし、どんなにわたしが家の中で虐待をしていたって、あんたたちは自分の成育環境が不幸だなんて外で訴えられないわ。
あんたたちにわたしが精神的虐待をやってるなんてことを外で触れ回ってほしくないから、たっぷり食べさせて太らせておきたいのよ。
子どもをネグレクトして、食べ物を与えないで、ガリガリに痩せさせて餓死させてしまう母親なんて、アタマ悪すぎると思うわ。子どもを食べさせなかったら、自分が虐待していることを世の中に公表しているようなものじゃないの。悪いことやるなら、ちゃんと隠さないとね。
わたしはそんなアタマ悪い女たちとはちがうから、虐待してしまったら、それが家庭の外にわからないようにできるだけ表面をカモフラージュするわ。あんたたちを太らせておくのは、そのカモフラージュのためなのよ。
それに、あんたたちが太ってるために思春期にモテなくても、母親の私はどうでもいいわ。
むしろ、あんたたちが年頃に男としてモテないほうが、あんたたちの心の中に占める女性の割合が母である私の方へより大きく割かれるから、そういう意味では、わたしはあんたたちにできるだけ太っていてもらって、モテないでいてほしいのよ。
こうして私は、
「母にとって食は愛のアリバイである」
という命題にたどりつくことになる。
・・・「ひきこもりの考古学 第9回」へつづく
<筆者プロフィール>
ぼそっと池井多 中高年ひきこもり当事者。23歳よりひきこもり始め、「そとこもり」「うちこもり」など多様な形で断続的にひきこもり続け現在に到る。VOSOT(チームぼそっと)主宰。
ひきこもり当事者としてメディアなどに出た結果、一部の他の当事者たちから嫉みを買い、特定の人物の申立てにより2021年11月からVOSOTの公式ブログの全記事が閲覧できなくされている。
著書に『世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現』(2020, 寿郎社)。
詳細情報 : https://lit.link/vosot
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