東京拘置所 写真・ PhotoAC
文・はちこ
編集・ぼそっと池井多
第1回からのつづき......
塀の中から帰ってきた父
私が中学3年生の9月、父が刑務所から出てきた。
出所の日付は、早いうちから知らされていたので、その日はずっと家で待っていた。
ところが、夕方になっても夜になっても帰らない。
父が帰ってきたのは、真夜中だった。
塀の外へ出て、どこかで飲んできたらしい。
祖母はもう寝室に行ってしまっていて、私はずっと居間でテレビを見ていた。
父は祖母の寝室へ、ハグをしに行ったようだった。
「おふくろ、ただいま。愛してる。大好きだ。」
などと聞こえてくる。
祖母は非常に鬱陶しそうで、
「やめなさいよ! 離しなさい!」
と怒った声が聞こえてきた。
この日から、父と祖母と私の三人の生活が始まった。
あるとき、何が原因だったか、父がキレた。
私のことをおかしいという。
そして、自分が精神科から処方されていた薬を、むりやり私に飲ませようとした。
私はそれを吐き出してやった。
それを見て父は激怒し、祖母と二人で祖母の寝室に閉じ込められた。
「学校なんか行かなくていいから俺の話を聞け!」
というようなことを怒鳴っている。
祖母は、
「言うことを聞いてなさい」
とビクビクしていた。
冗談じゃない。
なんとかしてこの部屋を出なくては。
下手したら殺されるかもしれない。
父が横を向いた隙に、私はドアノブに走った。
そのドアを開ければ、直ぐ斜め前が玄関の扉だ。
父が私の腕を掴んできた。
なんとかしてドアノブに反対の手を精いっぱい伸ばして、鍵を開けて、土砂降りの外へ躍り出た。
裸足で突っ走る。
駐車場の車の陰に隠れながら進み、
「誰か助けてください! お願いします!」
などと叫んでいた。
誰もいない公園の広場でベンチに座り、音楽の時間に習った合唱曲を大きな声で歌いまくった。
すると、父がこの土砂降りの中を自転車で
「はちこー!!」
と呼びながらやってきた。
まずい。
殺されるのかもしれない。
階段のある方角へと再び走る。
「もうなんなの一体。
なんなのあいつ。なにされるの。
捕まったら、どうされるの」
とにかく走って、とある駐車場に行き着くと、車の陰でずっと体育座りをしていた。
その後、恐る恐る自宅に帰ると、鍵が開いていた。
開けると、母が来ていた。
父は自室にひきこもったらしい。
私は「お風呂に入ってきなさい」と言われて、お風呂場に行ったのを覚えている。
速攻で住民票を抜く
その翌日、登校するとすぐに私は職員室へ行き、
「転校します。クラスのみんなには言わないでください。」
と担任の先生に言った。
しかし最終日に、先生は、
「みんなには言わないでほしいと言われたのだが、はちこさんが転校することになった」
と話してしまった。
教室から
「えー!」
「うそだろ」
という声が聞こえてくるなかで、私は話しかけてこようとするクラスメイトを振り切って学校を走り去った。
その足でリュックとキャリーバッグに入るだけの荷物を詰めて、区役所へ行き、住民票を抜いた。
「あの家から私がいなくなったら、父のもとに残されるおばあちゃんがかわいそうだな」
と少し思いながら、私は母と弟が住む家へ逃げていった。
勉強する意味がわからない
母と弟が住んでいたのは、母が働いていた床屋の寮だった。
弟は一気に背が高くなり、私よりも大きくなっていた。
最寄りの駅までは徒歩で一時間弱、新しい中学校までは三十分くらいかかった。
高校受験の面接対策のとき、生徒は一人一人校長室に行き、家族構成から何からいろいろと聞かれた。
校長先生から
「お父さんは?」
と聞かれたので、私は取り繕うのが面倒になって、
「父は刑務所を出たり入ったりしていて」
と答えてしまった。
あのときの校長先生の気まずそうな顔を今でも覚えている。
高校では剣道部に入り、しばらくは順調に過ごしていた。
しかし高三の一学期の半ばくらいに、どうして勉強をしなければならないのかわからなくなり、翌日からぱったりと勉学をやめた。
学校は好きな科目だけに出席して、嫌いな科目のときには校外へ出ていき、自転車で帰宅したり、市立図書館へ行き「こういう教育っておかしいよね」というような書物を読み漁っていた。
担任から度々
「どこにいるんだ」
「どうしていじめられているわけでもないのに学校に来ないんだ」
などとショートメールが届いたが、ことごとく無視をした。
だが、お昼休みになると、友達と昼ご飯を食べるために学食へ戻っていた。
テスト時間には不良のように机に突っ伏して寝ていた。
そうこうしているうちに、あっという間に留年が確定となった。
祖母が、
「頼むから高校だけは出ておきなさい、編入費用払ってあげるから」
というので、通信制高校に編入した。
そこは、とても簡単で緩かった。
私は三年間で卒業となった。
どうにか祖母のお金で買ったかのような高卒の資格だった。
布団の中で一日が終わる
高校を卒業してから、半年ほどぷらぷらとしたり、図書館へ通ったりしていたが、コンビニに応募し、バイトとして採用していただいた。
しかし、閉店のため半年ほどで退職となった。
そうこうするうちに、また父が捕まったと聞いた。
「へぇ、今度はいったい何で捕まったのだ? また同じか」
と思いつつ、父のいなくなった祖母の家へ行けば、自分の生活も少しはマシになるように考え、祖母の家に引っ越した。
祖母の家では、また父が出所してくるまで、三年ほど過ごした。
この間に私は、思いつきで地方の工場の寮付きの仕事に就き、三ヶ月でいやになり戻ってくるのを除いて、一切のバイトをしなかった。
このころ私は、だんだんと死にたくなってきた。
高層マンション、橋、ロープ。
街のあらゆるものは、自殺の道具にしか見えなかった。
あるところに書かれていた錠剤名を真に受けて、電車に乗って一か所につき二箱ずつ買い集めたこともある。
致死量まで溜めることができて、すり鉢で粉にしたほうが一気に飲みやすいかと考え、実際に粉にして試しに少しなめてみたらあまりにも不味かったので、頭にきて流しに捨て、
「なんだ、ただもったいないことをしただけだ」
と思った。
そのうち祖母は、糖尿病の合併症でだんだんと目が見えなくなっていった。
無職の私が祖母の介護をすることになった。
しかし、私は介護がしたくなかった。
私は苛立って、
「あなたの育て方が悪かったから、私のお父さんはあんなになったんだ!」
と祖母に怒鳴ったところ、
「あんたのお母さんにも前におんなじことを言われたよ」
と返された。
また父が出所してくる日が決まると、その日の早朝に私は母と弟のところへと引っ越した。
季節はちょうど秋から冬へ移ろいゆくころで、私は夜中にスーパーへ食料を調達しに行く以外は、いつまでも温かい布団の中にいた。
布団の中でお日様が昇って、そのまま布団の中で陽が沈んでいくこともざらだった。
布団の中では、本を読んでいたり、ガラケーのインターネットで何かを読んでいた。
包丁を隠し持って祖母の家へ
ある日、弟が父と祖母が暮らす家へ泊りに行き、その夜に事件が起きた。
なにが引き金だったのか、父と弟が喧嘩になった。
すでに身長は父よりも弟のほうが大きかったため、力で敵わないと思った父は二階へ逃げた。
弟が追って階段を上っていき、その後ろから祖母が止めようと上がっていったときに、祖母が階段から落ちて頭から血を流したのである。
お隣さんから母の携帯に電話が入り、祖母は救急車で病院に運ばれた。
結局、祖母は二度とその家に帰ってくることはなかった。
入院先の病院から、さらにホスピスへと転院し、そちらで亡くなることになったからである。
祖母はすい臓がんで、もう目はほとんど見えなくなっていたのだった。
祖母が亡くなるまでの間、その家には父だけが住むことになった。
どうやら気の弱い父につけこんで悪い人たちが集まってきて、そういう溜まり場になっていった。
悪い女も住みつき、父と同棲し始めたらしい。
Mおばさんが訪ねていったとき、その女の人に会ったと言っていた。
私たちはそこへ近づかなかった。
一度だけ、Mおばさんに聞いて、父がホスピスの祖母の病室にいないと聞いた時間を狙って祖母の面会に行った。
これが祖母に会った最後となった。
祖母は、私の手を握って、私だとわかってくれた。
弟と元気に過ごすように、と言ってくれた。
元気どころか、私はひきこもっていたのだが。
やがて祖母が亡くなり、
「今日は家でおばあちゃんのお通夜だよ」
と母に聞かされたとき、私は百円ショップで包丁を三本購入して、それを手提げに入れて、祖母が住んでいた家へ向かった。
家に着いて、玄関のインターホンを押したら、すぐに父が出てきた。
「よく来たね」
出迎えた父の胸倉を私は掴み、玄関から引きずり出してぶん殴った。
「死ね、死ね」
と連発して、玄関の前の歩道でひたすら殴りつづけた。
居合わせた通行人の何人かがこちらを振り向いて、
「何をしてるんだ」
と止めに入ってきた。
「抵抗しない人を殴るなんて何事だ」
そう声をかけてきた他人を、私は
「うるっせえんだよ!」
と涙目で睨みつけた。
父は、
「いいんです。これは全て俺が悪いんです。」
などと言い、私は通行人の制止を振り切って、その顔面に向かって再度拳をふるった。
「お前のせいでおばあちゃんもU(弟)もあんなふうになったんだよ!
お前のせいで私もこの家で暮らせなくなったんだよ!
お前が外に出てきて今でもこうしてのうのうと生きているから。
だから私もUもお母さんもおばあちゃんの死に目にも会えなかった。
全部とにかくお前が悪いんだよ!」
夢中で殴ったり蹴ったりしていたら、お通夜に来ていたMおばさんやら親戚が玄関から出てきて、私のことを止めに入った。
そこで私はようやく止めた。
Mおばさんが、私の持ってきた手提げ袋の中に包丁三本を見つけ、慌てて手提げごと私から遠ざけた。
私は、その懐かしい家の中へ親戚に支えられながら入っていった。
ネコジャラシ Photo by PhotoAC
更地になった祖母の家
祖母が入院したあとの祖母の家を、淋しがり屋の父は悪い人たちの溜まり場にしていたわけだが、その人たちにお金を巻き上げられて、父はまたいつのまにか大きな借金を作っていた。
祖母の家を売らなければ返済できないほどの大金である。
お金を作るために、早く家を売りに出さなければならなくなった。
あたふたと家の中のものを片づけ、外へ出して、とりあえずトランクルームに預けることにした。
片づけには、私の会ったことにない人たちが手伝いにやってきた。
父の子分のような人たちだったのだろうか、片手の小指の先がない人とか、お金のことで父にお世話になったという人たちだった。
Mおばさんや近くの親戚たちも、手伝いという名の物色に現われた。
「はちこちゃんも持っていきたいものは全部持っていきなさいね。
何箱になってもいいから全て荷作っちゃって」
と言われた。
悲しかった。
売りに出されたこの家には、どうかどなたかいい人が住んでくれますように、と願った。
結局、その家は誰も買ってくれなかったので、今度は家を壊して更地にして売りに出すことになった。
重機が壊している最中の家を、一度見に行った。
その後、まっさらになって、庭の木たちも全て引っこ抜かれていた更地も見に行った。
更地にしたばかりなのに、もうネコジャラシが庭のあちこちからたくさん生え、風にそよそよと黄緑が揺れていた。
・・・第3回「真夜中の電話」へつづく
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