ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

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生きづらさがあったからこそ獲得できるもの

Image Ishizaki Morito with GPT5

 

文・西野 績葉

リード文:この記事は、西野 績葉氏が2016年に書いた手記を加筆修正して掲載したものです。

 

とある記事がTwitterに流れてきた。それをたまたま僕は読むことができた。社会学者の宮台真司さんの記事だ。

realsound.jp

 

僕は広汎性発達障害と薬物依存症という二つの診断をメンタルの医師にされている、33歳の男性です。今に至る前から生きづらさがあり、病んでいた。具体的なエピソードは、今回の記事の趣旨ではないためご想像にお任せしたいが、端的なキーワードを挙げると、いじめ、毒親、不登校、運動嫌い、アニメ、マンガ、ゲーム(ファミコン)、ポルノ依存、パソコン、エロゲー、インターネットやりすぎ、昼夜逆転、2ちゃんねる、オタク、ニート、発達障害、精神科、生活保護、などがある。

僕は典型的なひきこもり像とは違うのかもしれないが、昔から辛いことばかりだった。長期間ひきこもったこともあるし、自殺も考え実行しかけたし、実際にある親友は自殺してしまった。

だが、そのような辛さを長年にわたり抱え続け、みっともないながらも、真剣に生き続けた。見っともなくても、クズ野郎であろうとも、自殺は選択しなかった結果、得たものがある。生きづらさがあったからこそ獲得できる『内発性』の回路が存在するといまは思える。

内発性とは、聞き慣れない言葉だが、損得のない自発性という意味で宮台さんは使っている。損得の価値観ではなく、自分の内側から湧き上がる意思、積極性、自発性、というような意味だと今回は思ってもらえればいい

 

病やひきこもりによって、人生を怠惰に腐らせていた時に、友人はできるだろうか? それは、何を友人だと思うかにもよる。僕は友だちを作るタイプの社交的なひきこもりで、いじめられ経験などで少年期に人間不信になりつつも、自分に関わる人に対して信頼感のようなものを取り戻していくことができた。

僕の場合の友人とは、同じようなことでネット上で愚痴を言い合ったり、煽り合いをしたり、ネトゲをやったりしつつ、同じように辛さがあったからこそできた関係性だった。そこに共感があるからこそ、得たのが友人だと思う。

だいたい、友を得るという表現があるけれど、友達ってのはゲットするもんじゃない。なぜなら所有できないものだからだ。もし人をすべて手に入れることができると思っているなら、それは錯覚でしかない。友達というのは、響き合うからこそ、ありえるものだと思う。言葉で響き合うばかりではなく、記事のように音楽だったり、ゲームを通じてだったり、様々な場合がある。

すぐに離れる友人もいるが、理屈ではなく長年にわたり縁が続く人もいる。ひきこもりやニートやメンヘラやクズ野郎にとって、そんな相手は、単純な損得だけなら、長続きするものではない。自分との関係を維持している人がいるのは、相手の内発性によるものでなければありえない。なぜなら損得で考えたら、僕のような人と付き合うのは損なことだからだ。

だから友達を大事にしろとかいう話では、これはない。大事だと思っても的確にはできないことだってある。許せないことをされるかもしれない。いつか許せるかもしれないし、一人の方がほんとに楽だという人もいるし、それぞれだ。

しかし、痛みの共感が、友だちになるきっかけになることも、同じ痛さを経験しているってことが相手への安心感になることも、たしかにあるのだ。

今後の社会では、痛みを強いられる人たちの心と精神に(観念的刃物)が刺さる時、それは僕らよりもなお抉られることだろう。そのことに対処のしかたもなく、強制的に刺さる日が来るように社会は進んでいる(ように僕には見える)。

そんな時に、自分には『内発性』があったのだ、あるのだ、と、気がつく時が来るだろうという思いが僕にはある。それに、これを読んでいる以上、『ここであるし、どこかにでもある』かたちのない場所があったのだと、気がつく時が来るはずだ。

(たとえば具体的には、昔の2chという空間があり、その空気を共有していたという記憶とか、ブログで、この記事が『どこか』に、あったかなと思って未来にGoogleしても見つからなかったりして、どこでもないどこかがあったとわかる時があるかもしれない)

だから、辛さを乗り越えたから克服体験があるんで、強くなれたよ、などという話では、これはない。まだしも、辛くあり続けること、辛さと付き合ってきた、つきあっているからこそ、多少の痛さには麻痺している、みたいな話の方がまだ近いかもしれない。

それで報われるとは一概には思わないけれど、辛さと向き合ってきた時間は、閉じこもっていたとしても、うんこ製造マシンになっていたとしても意味のないものにはならない。意味がないと思っていても、ある。もしかすると、意味がないってことが意味だということもありえる。

そうしていずれは、誰かと関わることによって気がつく。コンビニで若い店員さんに、冴えない自分の手が触れた時、「あ、すんません」て素で言ってしまった時なのかもしれないし、イケメンの概念が変わっていて若い世代と好みや意見が食い違う時、「私はあれが好きなの!」って思う時かもしれないし。

生きづらさがあったからひきこもりもしたし、だからこそ今の自分の意思がある(内発性)。生きづらさがあることは損だとも言える。普段損得だって考えるけれど、生きづらさがあるからこそ、損得では計れないものを受け入れることができたのだと考えている。

そういう『内発性』があったから、自分が生きながらえていて、誰かと響き合うこともあるし、友だちもいる。拒絶だって断念だって、それもまたコミュニケーションでもあるからこそ、ひきこもることもできていたんだな、と。

ひきこもりの日々が今に続いていること。これらのことが、僕が経験から得たことです。