ひきこもり当事者・喜久井ヤシンさんによる小説「遊べなかった子」の連作を掲載します。12歳の少年みさきは、海の上をただよう〈舟の家〉に乗り、行く先々で奇妙な人々と出会います。さびしさやとまどいを経験していくなかで、少年はどこへたどりつくのか……?時にファンタジー、時に悪夢のような世界をお楽しみください。
文・絵 喜久井ヤシン 着色 PaintsChainer
人生で一番若い日
輝く花々に囲まれた泉で、裸の少年が泳いでいた。その少年はレテといって、みさきの姿を見つけると、ギラギラした瞳を見開いてこう言った。
「こんな日に人がやってくるとは、人生は最後まで驚きを用意していてくれる!しかし、お前は本物の少年か?本物の〈若さ〉なのか?」
みさきには、レテが何を言っているのかわからなかった。見た目は同い年くらいだったけれど、偉そうなしゃべり方をしている。
「君はどういう人なの?ぼくはみさき。この島には、一人だけで住んでるの?」
レテは答える。
「みさきというのは聞き覚えのある名前だが――まあいい。この島には、私一人だけで暮らしている。最後の仲間が亡くなってから、もう何十年が過ぎたことか。私は書物を読み、小夜啼鳥を友とする、つつましやかな晩年を生きてきた」
レテは、裸の体を隠しもせずに、水をしたたらせながら岸辺に上がった。
「何十年もって……本当はおじいさんなの?おかしいよ、そんなの」
「今はそんなことどうでもいい。みさき君、せっかくこうして出会ったんだ、共に遊ばないか?水浴びはどうだろう。清らかな泉に体を浸し、小魚たちと泳いでみないか!」
レテは話し方も身振りも熱狂的で、どうしてそうなのか、みさきには理解できなかった。
「ぼくは、泳がなくていいよ。見てるだけでいい」
みれきは首をふったけれど、レテは言う。
「そうだ、〈ティエシエの樹〉に案内しよう!巨大なツタのからみついた見事な樹だよ!あれは楽しいぞ!」
レテには大人っぽいところと子供っぽいところがあった。みさきに着いてくるよう命令すると、レテは裸のまま駆け出した。
レテは走りながら、木の根をジャンプし、枝を叩き折り、木にとまっていた鳥たちを驚かせた。みさきは見失わないようにしたけれど、レテはあっちへ行きこっちへ行きと、狂ったように飛びまわりながら移動した。
「ちょっと待って、もうちょっと落ち着きなよ。案内だけなら、ふつうに歩けばすむでしょ?」
そう言うみさきに、レテは答える。
「私は今日という一日を、遊びで埋めつくすことにしたんだ!お前だって若い。内から湧き上がる生命の燃焼に、とどめえぬ喜びを感じないか?そもそもお前はどうしてここへやって来た?よほど大きな目的のための、長い旅路の途中なのか?」
レテは木の枝を、意味もなく放り投げながら言った。
「ぼくは……、何もしてないよ。ただ〈舟の家〉に居て、流れるままにしている。目的地も探しているものも、あったらいいとは思うけど、ぼくにはわからない」
みさきがそう言うと、レテは足をとめて、怒りと困惑の混じった表情を見せた。
「正気か?お前ほどの〈若さ〉があるというのに?〈若さ〉も可能性も無下にして、毎日暮れていく夕陽を見ているだけだというのか。多くの者が未来へと足を進めている時に、お前は一人目的もなく過ごしていると?それがどれほど馬鹿げているか、理解できないのか?」
みさきは反論しようとしたけれど、言葉が出てこなかった。それにレテは、自分の指先に見とれて、すぐにみさきから目を離していた。
「見よ、この肉体を。これが〈若さ〉だ、黄金だ。痛むところもない。老いたところもない。可能性で織られたこの肌の卓越は、未来の階段へ続く栄光の道ではないか……。来い!日が暮れる前に、せめて今日という日を遊びつくせ!」
そう言うと、レテはまた走りだした。そのあとを、みさきはとまどいながら着いていった。
レテの言っていた〈ティエシエの樹〉は、ビルみたいに巨大な、信じられないくらい大きな樹木だった。長く四方に伸びた枝には、大蛇みたいなツタが何本もぶら下がっている。
「たしかに、これはすごいね。ちょっと見たことがないや」
「ツタに乗っかればブランコにもなる!あっちの切れたツタをつかめばターザンごっこもできる!疲れたら広がったツタをハンモックにして寝たっていい!」
そう言うレテは、眠ることなんて想像できないくらいに、はしゃぎまわり、飛びまわって遊んでいた。胴体より太いツタをよじ登って、ツタからツタへと飛びうつり、ターザンごっこをしては叫んだ。
〈ティエシエの樹〉は、老木のせいかほとんど空洞になっている枝もあった。けれどレテはおかまいなしにしがみついて、あちらこちらに木登りをする。肌にすり傷ができていたけれど、レテは傷ができることまで楽しんでいるようだった。みさきはケガをしないよう、枝の低いところをジャンプして渡っていった。レテはみさきがどこにいてもかまわないようで、たまに思い出したように、高いところから叫んで話しかけてくるのだった。
しばらくのあいだ、みさきは樹の下の方でぶらぶらとし、猿みたいに飛びまわって遊ぶレテの姿を見ていた。空にあざやかな朱色がかかってきて、雲は光を宿しながら流れている。
「君が信じようが信じまいがどうだっていいが、〈時のエレディシアの種族〉のことを、聞いたことがないかね!」
「ぼくはわからないよ、本も読まないし。レテと関係があるの?」
「もはや世界各地に、わずかな者が点在しているだけだろう。なんともむごい宿命を負った、時に呪われた伝説の種族だ」
レテは樹の枝をギシギシいわせながら、みさきに語った。
「〈時のエレディシアの種族〉は、生命の炎が消える最後の日、つまり死がおとずれる最後の一日に、最良の〈若さ〉がよみがえる。どれほど年老いた、病気まみれの老人であっても、その者の生涯で一番若かった日の肉体が、一日だけ返ってくるのだ。精神と経験はそのままに。ただ健康な〈若さ〉がよみがえる!」
〈ティエシエの樹〉に立ったレテの肉体は、太陽の西日に照らされて輝いていた。黄金の髪に、黄金の体があった。
「レテ?待ってよ、それはレテの話をしているの?だったら、本当はレテはおじいさんで、今日が終われば死んでしまうってこと?」
「みさき君、遊びたまえ!毎日が人生最後の日であるがごとく、楽しみについやせ。書物も、肩書きも、名前も数字も、それらはどうでもよい!孤独な歳月に意味はなく、一人百年を耐え忍んだところで、生きたことにはならない!」
レテは巨大な枝からジャンプし、垂れ下がるツタを器用にたどって地面にまで降りてきた。
「向こうの小高い丘にモモの樹がある!お前が来なくても、私は走るぞ!」
「待ってよ。さっきの話って……」
「よーい、ドン!」
みさきの言うことも聞かずに、レテは走り出した。楽しさというより、どちらかというと狂気みたいな様子で、レテの姿はあっという間に見えなくなった。
レテが、走りながら叫んでいるのが聞こえる。
「故郷よ、大地よ、大空よ、ありがとう!この命とは、よろこびであった!」
みさきは足早にレテのあとを追ったけれど、緑のしげる樹々のあいだに道らしい道はなく、遠いレテの声をたよりに進んでいった。落ち葉や枯れ枝の積もった土はやわらかで、みさきの体重でもすこし沈むくらいだ。レテの熱い調子も影響してか、歩いているうちにみさきの体もだんだんと熱を持ち、いつしか走り出していた。樹々のあいだを駆けぬけて、体の体温を吐き出す息をして、みさきは島の大気の中を走っていく。大地には夕陽がやさしげな火をおこしていて、樹の幹や、草花や、虫たちを赤く染めていた。
みさきが草木と岩をよけて斜面を登っていくと、小高い丘に出た。モモの樹が、たくさんの炎をつけているみたいに、満開の花を咲かせている。レテの言っていた場所は、きっとここだろう。
「レテ?着いたよ!遅くなったけど、ぼくも走ってきた。どこにいるの!」
みさきがモモの樹まで歩いていくと、根本のところにうずくまっているかたまりを見つけた。はじめは、汚くなって捨てられボロ布か何かだと思えたけれど、違った。それはしわくちゃの肌をした、老人の亡き骸だった。ほとんど骨と皮だけの体で、黒ずんだ皮膚に、白髪が散っている。モモの木から花びらがヒラヒラと舞って、老人の目元を隠すみたいにして一枚落ちた。老人の口元は、ほほえんでいるように見えなくもない。
丘からは海岸線までがきれいに見渡せて、先ほどまでいた〈ティエシエの樹〉も見える。たぶんレテがずっと暮らしてきたのだろう、一軒家の屋根もあった。乾いた風は澄み渡っていて、にごりけのない空気がモモの樹にそそがれている。夕焼けの空は大地にまでその光をおろし、レテの国はおごそかな火事をおこしていた。岸辺にとまった〈舟の家〉の、それよりもはるかかなたの水平線で、日没が真っ赤に焼けている。爆弾の手前でじりじりと導火線が燃えるような、時間の終わりを伝える赤い火だ。みさきはまた、沈んでいく夕陽を長いあいだ見ていた。
つづく
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執筆者 喜久井ヤシン(きくい やしん)
1987年東京生まれ。8歳頃から学校に行かなくなり、中学の三年間は同世代との交流をせずに過ごした。二十代半ばまで、断続的な「ひきこもり」状態を経験する。『ひきポス』では当事者手記の他に、カルチャー関連の記事も執筆している。