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忘却力 むかしの嫌な記憶をはっきり「忘れたい」と思えるだけの魅力が今日以降にないことのほうが問題

「記憶力を鍛えよう!」……といった言葉はよく聞かれます。しかしひきこもり状態のように、心が疲れているときには、むしろ「忘れていく力」こそが大事なのではないか?今回は、記憶をテーマにした当事者手記をお届けします。

 

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(文・写真 喜久井ヤシン)

 

「どうしてお酒を飲むの?」
「忘れたいからさ」
「なにを忘れたいの?」
「恥ずかしいことをさ」
「なにが恥ずかしいの?」
「お酒をのむことがだよ!」
     ——サン=テグジュペリ 『星の王子さま』※1

 


お酒の飲みすぎのせいで記憶をなくすことを「ブラックアウト」という。

これは自分が何をしたのかを「忘れる」というより、そもそも記憶する働きがにぶくなってしまう状態なのだといわれている。

脳みそにある、海馬だかどこかの機能がお酒によってうまく働かなくなり、自分のしたことの記憶がつながらないようになってしまう。

ひどい場合には、目の前で起きていることに対してまったく記憶力がはたらかず、目覚めたときには全部を「忘れた」状態になっている。

それが記憶を失う意味での「ブラックアウト」なのだという。

 

いまでこそ、私はそれなりに活動をし、仕事でいそがしいときもあれば、趣味のことをして、一日が24時間しかないことを憂うくらいに、時間が惜しいと思うこともある。

けれど、ほとんど人と話すことなく、一人きりの部屋で何年も過ごしていたころは、一年の時間なんてないに等しいほど、手ごたえなく年月が飛び去っていったものだった。

人と会わずに鬱々と過ごしていた日々は、記憶の仕方が今と比べてだいぶ異なっていたのだろうと思う。

 

人を避けていたときの私は、直接体験してから十数年の年月が過ぎても、小学生のときの恥ずかしさや怒りを感じた場面の感覚を、とうとつに思い出すことがよくあった。

PTSD、というと大げさになってしまうかもしれないけれど、薄いフラッシュバックのようなものは毎日、それも何回も起きており、自分ではコントロールできない情動にふりまわされていた。

いつでも新しい苦しさを与えてくる昔の記憶に対して、能天気なアドバイザーならば「そんなことはもう忘れろ」というだろう。

「過ぎ去ったことをくよくよ考えるのはやめて、明日に進んでいけ」などと励ますこと、それ自体は間違っていないだろうし、嫌な記憶がよみがえることは自分にとっても苦しい。

けれど私自身に、「忘れていこう」とする力のなさがある。
それを生み出している主な理由は二つほどあって、一つ目はそもそも過去を忘れたいと思っていないこと。
もう一つは、忘れたいと思えるだけの未来がないことだ。

 

20年前に親から言われた一言や、小学校の教室で味わった恥ずかしさなど、それがどれほど嫌なことであっても、私はむしろ忘れてはならない、と思っているふしがある。

自分と直接的には無関係のたとえになるけれど、たとえば二人組で冒険をして、登山の難所のようなところを登っていたとする。

そのようなときに事故があり、相棒である一人が亡くなり、自分だけが生きのびてしまったとする。

自分だけが生きて帰ってきて、その出来事を忘れてのうのうと過ごすことは、人間的に良いことだとは言い切れないのではないか。

追悼をするとか、墓参りをするだとか、何らかの悼みの手立てはあるにしても、自分だけがあまりに陽気に過ごすのをためらわれるような憂いが残る。

その相棒にあたるものが小学生時代の自分自身であれ、親とのひどいいさかいを経験したときの自分であれ、ある意味では忘れきることができない「もう一人」がいて、今の自分一人だけが新しく、未来に期待して進んでいくわけにいかないような思いがある。

これはカウンセラーにでも言ったほうがいいような話で、抽象的なことなので、伝わらない人には伝わらないままだろうけれど、たとえるならそのような「もう一人」の子どもがいる。

 

「記憶力を鍛える」という言い方はよくあるけれど、私はむしろ忘却力(ぼうきゃくりょく)を鍛えねばならないだろう。

 

哲学者のパスカルの言葉に、『わずかのことがわれわれを悲しませるので、わずかのことがわれわれを慰める』というものがある。

どうしようもなくさまつな生活上の雑事をやりくりし、一切れの楽しさや喜びを感じていったなら、むかしの悪い記憶も遠ざかっていっただろう。

孤立して過ごしていたときの私には、楽しさの感覚はほとんどないかのように薄くなっていて、記憶を上書きしていくための日常や、いやおうなしに覚えさせられること細かな出来事の更新がストップしていた。

もしも、新しく経験していく今日以降のものごとに、生きがいになるような希望的なことが待っていると思えれば、むかしのことを忘れていこうとも思えるだろうけれど、期待できる明日はどこにも見出せなかった。

 

毎日労働をして働いている人たちのように、活発な毎日を送ることができる人たちは、嫌な経験をうまく忘れていっているように思える。

適度にお酒を飲むことや、友達とどこかに出かけたり、趣味や息抜きの時間をつくって生活をしている。

それは過去の記憶を消しているのではなく、新しいものごとを更新して、記憶の上書きがうまくいっているためだろう。

おそらく、アドバイザーが私に言うべき言葉があるのだとしたら、むかしの苦しい記憶を「忘れろ」というのではなく、やってくるものを「覚えておこう」と思えるだけの、新しい明日を案内してくれる言葉ではなかったか。

やみくもに過去を捨てさせるような方向ではなく、ささやかな生きがいのように、自ら記憶したいものにむかえるだけの状態にさせてくれるものがあるなら、おそらくはそこに、健全な「忘却力」が起きてくるだろう。

 

 


※1 複数の翻訳を元にした筆者の意訳。
別の話だけれど、これは「お酒」を「ひきこもり」にしても成り立つやりとりではないかと思う。

「どうしてひきこもっているの?」
「忘れたいからさ」
「なにを忘れたいの?」
「恥ずかしいことをさ」
「なにが恥ずかしいの?」
「ひきこもっていることがだよ!」

 

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 執筆者 喜久井ヤシン(きくい やしん)
1987年東京生まれ。8歳頃から学校へ行かなくなり、中学の3年間は同世代との交流なく過ごした。20代半ばまで、断続的な「ひきこもり」状態を経験している。2015年シューレ大学修了。『ひきポス』では当事者手記の他に、カルチャー関連の記事も執筆している。ツイッター 喜久井ヤシン (@ShinyaKikui) | Twitter 

 

 

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