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「コミュニケーション能力」ってもしかしたら「自己責任」の別名なのかもしれない

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(文・喜久井ヤシン)

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一番大事なのは「コミュニケーション能力」……?

 三月は就活の季節であるらしい。就活生たちはエントリーシートや面接対策などで大変な思いをしていることだろう。私はといえば、二十歳前後の頃は外出一つするのにも苦労していた時期で、とても働けるような状態ではなかった。ひきこもりとアルバイトのあいだを行ったり来たりして三十代になり、正社員になったことは一度もない。学生の就活は自分にとって遠い話ではあるけれど、この時期の社会の空気感には心をざわつかせるものがある。それは就活のキーワード、「コミュニケーション能力」という言葉のせいだ。

 日本経団連の「2017年度版 新卒者採用に関するアンケート調査」(※1)によると、企業が選考で重視するものの第一位が「コミュニケーション能力」(82%)となっている。二位以下の「主体性」(61%)と「チャレンジ精神」(52%)を引き離しており、しかも15年連続の一位という結果だ。
 採用者を選ぶなら、仕事をやっていくためのスキルが問われそうだけれど、企業が「選考にあたって重視した点」を見ると、「専門性」(14%)も「履修履歴・学業成績」(4%)も低い結果が出ている。スキル以上に「コミュニケーション能力」の高い人材が求められているらしい。

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そもそも「コミュ力」ってどういう意味か

 私は義務教育のほとんどの期間が不登校で、親や教師からはずっと将来を心配されてきた。今思えば心配を引き起こしていた主因は、学力低下よりもコミュニケーション能力の低下だったように思う。学校へ行かないことは、それだけで社会のシステムに適応できないということだし、人と会うことがなくなれば、当然「コミュ力」が鍛えられることもない。社会人としてもっとも重視されるのが「コミュ力」なのだとしたら、不登校の私はたしかに社会の落伍者予備軍になっていたのだろう。就労支援やひきこもり支援の場で、「コミュニケーション能力を身につけましょう!」という、どこか嬉々とした声を聞いたこともある。それを欠いている私は、自分が社会人になれそうもない、劣等感に悩んだものだった。

 私は「コミュ力」というものを、社交的にふるまって楽しい話ができることだと何となく思ってきた。けれど具体的な意味を考えてみると、どうやらそういうことでもないらしい。
 参考として、厚生労働省の「YES‐プログラム」(若年者就職基礎能力支援事業)(※2)の中にある、「コミュニケーション能力」の項目を見てみる。そこでは「意識または能力」として三つがあげられ、その細目としてわずかな備考がついている。

①意思疎通……傾聴する姿勢,双方向の円滑なコミュニケーション,意見集約,情報伝達,意見の主張

②協調性……相手の尊重,組織,人間関係

③自己表現能力……明確な説明,図表等を用いた表現

 これらのポイントを学べば「コミュ力」が高まり、私のような無業者の就労支援になるらしい。会社に入って複雑な仕事をしていくのなら、たしかに意思疎通も協調性もいるだろうし、自己表現を何もしないわけにはいかないだろう。
 ただ、私はどうも違和感を感じる。仮にこれらのポイントが完璧な人がいたとしても、「お前にはコミュニケーション能力がない」と責められることが起きているように思う。
 たとえば、①意思疎通や②協調性の点で、相手の側に問題があったらどうなのか。③自己表現能力の場合も、表現が抑圧される環境の場合はどうだろう。特に、セクシャリティや障碍などのマイノリティ――私はその両方にあてはまるのだけれど――であれば、マジョリティの人々に比べて不自由な状態になりやすい。そこで周囲からの支援を受けられずに苦しんでいたとしても、それが自分の「コミュ力」の問題にさせられるということはないだろうか。

 

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「コミュニケーション能力がない」のは自分だけのせいじゃない

 私の場合、学校や就労の場で雑談をすることは極めて緊張する時間だった。緊張を避けるために会話を減らせば、「コミュ力」がない人間ということになるだろう。けれど、不登校や何らかのマイノリティの集まりなど、同じ経験や価値観を持っている人のいる場では、緊張はやわらぎ、自然な会話がしやすくなる。その時には「コミュ力」のある人間になっている。これは私のコミュニケーション能力ではなく、周囲の環境への安心感によって変化している部分だ。自分の側ではなく、環境の側に私のコミュニケーション能力を左右する要因がある。それでも学校や会社の基準でしか自分が計られないなら、私は「コミュ力」のない人間として問題にされてしまう。

 「コミュ力を伸ばす」とか「コミュ力を鍛える」という言葉は当たり前のように使われている。けれど「コミュニケーション能力」が、もしも純粋に周囲との関係のことを意味しているならどうだろう。「関係を伸ばす」とか「関係を鍛える」という話になって、それは自分一人ではどうにもできない課題だ。「YES‐プログラム」は「コミュ力」の習得支援をして試験まであるけれど、それらをクリアしても周囲との関係で悩むことはなくならないだろう。

 私は不登校の経験から、自分の「コミュ力」のなさに劣等感があった。けれど環境へのなじめなさで悩んだ時に、自分一人の「コミュ力」だけを問題視するのは、物事の見方としてかたよりすぎていたかもしれない。少なくとも、自分の欠点ばかり考えて、自責をくり返す必要はたぶんなかった。

 私はこれから先も、周囲との関係に悩んでいくだろう。その時に自分の「コミュニケーション能力」を疑ったとしても、この言葉からはもう少し、距離を置いて考えていくようにしたいと思う。

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※1 一般社団法人日本経済団体連合会 『2017年度新卒採用に関するアンケート調査結果』
http://www.keidanren.or.jp/policy/2017/096.html?v=s
文中で使用したパーセンテージは、2018年4月入社対象の統計結果によるもの。

※2 厚生労働省 『YES‐プログラム』(若年者就職基礎能力支援事業)
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2009/03/h0313-4.html
このプログラムは現在実施されていない。なお、文中の丸数字は筆者が便宜的に付けたもの