文 喜久井伸哉 / 画像 Pixabay
「明るい」支援者はお断り?今回は、ひきこもり経験者が語るユニークな〈支援論〉をお届けします。
世の中の「明るさ」がこわい
私は半分本気でいうが、就労支援所は葬儀社をモデルにしてほしい。
今の世の中は、「明るさ」が肯定されすぎている。
「ネクラ(根暗)」や「陰キャ」といった俗語は、「暗い人」を思わせるネガティブな言葉だ。
「コミュニケーション能力が高い」といえば、「明るい人」を想像する。
近年のスマホのカメラは、撮影した画像が、自動的に明るく加工されるようになった。
SNSでは顔の陰影を消した、光の強い画像がよく拡散されている。
カメラ機能で求められているのは、画素数よりも、光度を取り入れる量だと思えるほどだ。
「明るさ」は、社会人としての有能さの印象とかかわっている。
私にとって、「明るさ」は恐るべきものだ。
学校の授業では、多少の間違いがあっても、ハキハキと意見を言える人の方が、評価されやすいものではないか。
就活時の面接で目立つのは、明瞭に自分を語れる人だ。
ビジネスにおいては、「陽キャ」の方が何かと有利に思える。
職場にしても、求人情報で「明るい職場です!」といった標語を掲げ、社員が笑顔でポーズをとっていることがある。
それは志望者を増やすための常套句なのだろうが、私が求職者だったら敬遠させてもらう。
就労支援やひきこもり支援でも、私にとっては印象が明るすぎる。
ホームページやパンフレットで使われているのは、やけにキラキラした、さわやかなイメージ画像だ。
明るい場の明るい人に囲まれるしかないなら、それだけで、私の気持ちは暗くなってしまう。
ひきこもりと「暗さ」の取り組み
「明るさ」を重視しない試みもある。
NHKの「みんなでひきこもりラジオ」(NHK第一)は、あえて「暗さ」を演出しているという。
ラジオのアナウンサーは、通常なら声を張って、視聴者に伝わりやすい発声をするものだ。
しかしこの番組は、ゆるめの声で話すように意識されているらしい。
取材記事によれば、スタジオの照明も暗めにしているとのことだ。
キラキラしたコミュニケーションをしない、というのは良い実践だと思う。
鈴木大介の『「脳コワさん」支援ガイド』(医学書院 2020年)という本では、キラキラした感じからくるプレッシャーについて述べられている。
鈴木氏は障害を負ったことで、病院のリハビリ室に通わねばならなかった。
リハビリは大変で、どうしても「行きたくない」と考えてしまう。
リハビリ自体の苦しさもあったが、理由はそれだけではなかった。
鈴木氏は、『リハビリが嫌なのではなく、あのキラキラしたリハ室やリハ職さんが苦手なだけだったんじゃないかな?と、つねにモヤモヤ思っています。』という。
テキパキと働く職員たちは、よかれと思って笑顔を向け、リハビリがスムーズにいくように励ます。
しかし、その「キラキラした」感じは、プレッシャーを与えるものでもあった。
また鈴木氏は、「ちょっぴり当事者性を感じられる人」の方、が援助希求(自ら助けを求めること)ができる、とも語っている。
一般的には、支援者はテキパキ・ハキハキと働き、快活にコミュニケーションをとれる人が望ましい。
だが、ある意味で「完璧」な人だと、「完璧」でいられない被支援者側にとっては、ある種の負い目になってしまう。
この感覚は、個人的にとてもよくわかるところだ。
話を聞くときの態度にしても、熱心に耳を傾けて、「何でも相談してください!」という熱意を向けられると、大切なことを話せなくなる。
むしろ、支援者の話し方が下手であったり、物事がスムーズにいかない「当事者性」のある人だと、話しやすくなる。
明るく・テキパキと働けるのは支援者として模範的なのかもしれない。
だが合理化が進む世の中にあって、「テキパキしていない人や場所」の価値が、もっと認められてほしいと思う。
ひきこもり支援とは関係ないが、ユニークな取り組みの一つに、「注文をまちがえる料理店」というものもあった。
ごく短期間おこなわれたイベントにすぎないが、注文をとって配膳をするスタッフの、全員が認知症という料理店だ。
お店に来たお客さんには、店員が「テキパキできないこと」を前提にして利用してもらう。
店名のとおり間違いがあっても、コンセプトそのものが「まちがえる」ことを前提としている。
そのため、他のスタッフやお客さんが間違いを受容できるだけの、おおらかな雰囲気を保てる。
この料理店は企画の面白さが評価され、国際的にも大きな反響があったそうだ。
私は支援者的な人との関係でも、これくらい受容的な関係が結べたら良かったと思う。
「完璧」に仕事の出来る人たちに囲まれて、自分も「完璧」を目指さねばならないなら、私には窮屈すぎる。
どうしても「支援」があってしまうなら、キラキラしすぎないように、せめて「暗い」支援がほしいのだ。
「暗い」支援の可能性
長年引きこもっていた人が就労したとき、周囲はたいてい、「明るい話」として喜んでしまう。
特に支援者にとっては、「ゴール」にたどりついたという点で、ハッピーエンドとしか思えないかもしれない。
(それと、「自分たちと同じような就労者になれた」という、一種の同類意識的な安堵もあるだろう。)
だが私のような当事者側の視点からすると、就労こそ「暗い話」だ。
働き始めることによって、自らの生活拠点を離れ、傷つくかもしれない危険な場所に、自らの身を投じなければならない。
支援者には「ゴール」に見えたとしても、当人にとっては、恐怖の「スタート」にあたる。
就労に対して、キラキラと未来を語るような職員は、私には恐ろしい支援者だ。
放言的に夢想するなら、支援事業は葬儀社のような雰囲気で、暗く、沈鬱におこなってほしい。
職員の「コミュニケーション能力」の査定においては、「おしゃべりのうまさ」よりも、「沈黙のうまさ」が評価されてほしい。
職員は全員が喪服を着て取り組み、「暗い」雰囲気を欠かさないように。
被支援者の就労が決まっても、笑顔にならず、いっそ「ご愁傷さまです」と言って、喪に服すように送り出すのだ。
多様な支援の可能性の一つとして、これくらい戦略的な「暗さ」も、ありなのではないかと思う。
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文 喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。8歳からスクール・マイノリティ(「不登校」)となり、ほぼ学校へ通わずに育った。約10年の「ひきこもり」を経験。20代の頃は、シューレ大学(NPO)で評論家の芹沢俊介氏に師事した。現在『不登校新聞』の「子ども若者編集部」メンバー。共著に『今こそ語ろう、それぞれのひきこもり』、著書に『詩集 ぼくはまなざしで自分を研いだ』がある。
Twitter https://twitter.com/ShinyaKikui
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