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「不登校」という鎧を脱ぐまで

(文 信田風馬)

 

今回は、不登校経験者の信田風馬(のぶた ふうま)さんの当事者手記をお届けします。信田さんは十代の頃から、大勢の前で自身の体験を語ってきました。しかしある時から、「不登校」にふり回されてきた自分に気づき、うまく語ることができなくなります。不登校の経験は、人生にどれだけの影響を与えているのか。信田さんは自分自身を研究し、家族との対話などを経て、あらたな発見をしていきます。探求の先に見つけたものは何か……。注目の当事者手記をご覧ください。

 

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 数ヶ月前のこと。私は不登校、フリースクールについての学習会にゲストの一人として招かれた。自分の不登校経験を語るのは久しぶりだ。事前にもらった資料には、私の名前の横に「学校外の多様な学び場で育った若者」と肩書きがあり、なんとも言えない居心地の悪さがあった。なにせもう38歳だ。若者と呼ばれるにはさすがに厳しい年齢である。それから「学校外の多様な学び場で育った」という表現も気になる。私は13歳からフリースクールに通っているけれど、刹那的な遊びに日々を費やしていたので、それを「多様な学び」と表現するのは口幅ったい気がした。とはいえ私はクライアントの注文にはバッチリ応えたいタイプなので、居心地の悪さをこらえて話すことにした。

 当日、私の出番がきた。準備は万全である。集まった30人ほどの人々の前に立ち、いざ話を始めようと顔を上げた。しかしその瞬間、「あ、ダメだ」と思った。私は緊張している私に気がついてしまったのだ。人々から向けられる目線がとても怖いものに感じる。簡単な自己紹介の段階で喉がカラカラになり、息継ぎがうまくできなくなってしまった。不登校経験を語る機会はこれまでに何度もあった。それにも関わらず、やたらと緊張している自分に戸惑った。

 

「不登校の当事者」として振る舞う

 一口に「不登校経験」と言っても、経験の質には個人差がある。私は子どもの頃から、自分の不登校経験を語る機会がとても多く、これはかなり特殊なことではないかと考えている。

 初めて人前で不登校経験を語ったのが15 歳のぐらいの頃だ。通っていたフリースクールのスタッフに誘われ、岩手県の教職員組合の集会で「不登校の当事者」として発言した。教師ばかりが1000人ほどいる会場で、膝を震わせながら、不登校当時の気持ち、親や学校とやりとりを話した。その後、不登校の当事者として発言する機会が増えていった。場数を重ねるごとに緊張感もなくなり、口は滑らかになる。場の雰囲気を読んでアドリブを交えるようなこともできるようになった。飄々とした雰囲気で、悲惨な不登校体験を自虐的に語ると聴衆のウケが良い。私はどんどんウケを狙うようになり、体験談をよく言えば演出、悪く言えば誇張するようになった。不登校に理解のなかった保護者や教師たちが、私の話を聞いて真剣に考え、泣き、笑い、時に考えを改めることに喜びを感じた。他人に認められたいという気持ちが一時的に満たされた。

 

私はいつまで不登校なのだろう

しかし思い返してみると、人前で飄々としている私はありのままの私ではなかった。その頃の実際の私は、自信がなく、他者から責められることを恐れ、不登校の「その後」を生きる方向性が定まらずに不安を感じている「私」だった。不安は年齢を重ねるほどに強くなった。気がつけば20歳、最初に学校に行かなくなってから8年が経過していた。「自分はいつまで不登校の当事者を名乗るのだろう」という疑問も湧く。「不登校の当事者」という肩書きにすがりついて、「何者にもなれない私」を情けなく感じた。さまざまな思いを抱えきれなくなって、私は不登校経験を語ることをやめた。

フリースクールを出た後、いくつかの職を経験したがどれもうまくいかなかった。会社にかかってくる電話を取るのが怖く、仕事でわからないことがあっても聞くことができない。注意を受けると、私という存在そのものを否定されているように感じられ苦しくなった。自信がなくなると決まって「不登校」に原因があるような気持ちが湧いてくる。私は不登校を「選択」した自分を後悔した。といっても、私は学校に行きたくなかったことを「不登校を選択した」という強い言葉で表現したい気持ちは持っていなかったのだが、不登校に批判的な人の口を封じたい時と、自分を責めて後悔したい時にだけ「不登校を選択した自分」を都合よく持ち出した。「不登校」を肯定したり否定したり忙しかった。「不登校」という言葉に振り回されていた。

 

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自分を知ることで起きた変化

ちょうどその頃、私の職場のすぐ近くに「シューレ大学」という学び場があった。そこに通う学生たちの多くは不登校や引きこもりの経験者だった。学生たちと話をしているうちに、私はシューレ大学の活動に興味を持つようになった。中でも「自分から始まる研究」という活動が特に興味深かった。自分にとって切実な事柄をテーマに設定し、様々な研究手法を使って分析・考察し、発表とディスカッションを繰り返しながら、最終的に論文にまとめていく。不登校や引きこもりの経験、働くことや人間関係でつらかった事柄などがテーマになることが多く、発表や論文もとても面白かった。

仕事を続けることに限界を感じていた私は、「自分から始まる研究」が自分に必要だと思い、仕事をやめてシューレ大学に入学した。そして、自分の不登校経験を研究することにした。研究を進めるために、過去に自分が書いた文章を読み、昔の写真を見返し、当時聴いていた音楽や小説から考察し、親や周囲の人に聞き取りをし、研究をするメンバーとディスカッションを重ねた。シューレ大学には11年間在籍し、その間ほぼ毎年のように研究論文を書いたが毎回新しい発見があった。私は自分の体験したことの多くを忘却しており、記憶していたことは事実の一部分に過ぎないということがわかった。

不登校になったのは中学生からではなく本当は小学校5年生だったこと、家と学校の間にある街道を渡ると途端に喘息の発作が出ること、母は友人に「お宅の息子さんが不登校になったのは狐が憑いているから」と言われて悲しかったこと、家で働く父は子どもが家にいることは実は嬉しかったこと、東京で15歳からひとり暮らをしたのは両親に見放されたせいではなくむしろ愛情からくる配慮の結果だったこと(配慮がうまくいったかどうかは別にして)、不登校を経験するなかで生きにくさを蓄積していったこと、その生きにくさを飄々とした態度で受け流すことは私なりの身の守り方だったこと、苦しいのは自分だけではなくフリースクール時代の友人たちもそれぞれ苦しかったこと……。

私のことだけでなく、家族が何を感じてきたのかを知ることもできた。私の家族もまた、私を経由して不登校という現象に巻き込まれた「不登校の当事者」だと思った。そうとらえると少し気が楽になった。そして、このような認識は「不登校」や「私」というもののとらえ方に奥行きを与えた。「私」は周囲の人々や環境とのやりとりの中で形づくられている。私は一般に否定的な印象を持たれている不登校を経験することを通して、社会に触れ、人々に触れた。それは多くの場合、苦しく、つらく、その苦しさをなんとか切り抜けようと泥臭く這いずり回り、人を攻撃したり他人を出し抜いたり迷惑をかけたりしながら、動的に生きてきた。その結果として今の「私」が出来上がっていることがよくわかったのだった。

自分が経験してきたことのとらえ方が変わるということは、世界の見え方も変わるということなのだと思う。気がつくと、他人から責められることに無闇に怯えるとか、社会に対して無根拠な不信感を持つとかいうことがだいぶ少なくなった。私は十分満足して、シューレ大学を修了することにした。

私にとって「不登校」という言葉は、自分が正常ではないことの証明としてこの社会から押された「烙印」であり、かつまた逆に、その烙印を隠し、自分を守るための「鎧」でもあった。自分の経験を知り直し、全体像を把握することができてはじめて、私は「不登校である私」を降りることができた。

 

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それでも不登校経験を考え続けている

 学習会の持ち時間の30分は、あっという間に過ぎてしまった。時間のコントロールがうまくいかずに、話したいことの半分くらいで持ち時間を超過してしまった。冒頭で「不登校経験を話すことは気力を使うことなので、言葉が出てこないこともありますがご了解ください」と断りを入れたこと、話しながら涙が滲んできたことは我ながら新鮮で、不思議と気持ちがよかった。私はすっかり人前でもオロオロと途方に暮れてしまえる人間になったらしい。問題は「学校外の多様な学び場で育った若者」としての期待に応えるような話がいまひとつできなかったことで、仕事人としては失格である。

不登校である自分を降りることができた私は、今でも自分の不登校経験について、しばしば考える。ネガティブな問い方ではない。「あの時のあれ、一体何だったんだろう」という問いを立てることを通して、私は現在の自分を確認し、どのように生きていくべきか指針を得ているのではないかと思う。最初に学校に行かなくなってから26年がたった。不登校経験の振り返りは、まだまだ終わらない。

 

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 文 信田風馬(のぶた ふうま)

1982年、栃木県生まれ。小学校6年生から学校に行かなくなりはじめ、中学生の時に不登校となる。東京のフリースクールに通い、いくつかの職を転々としたあと、2006年度にシューレ大学に入学、2017年度修了。現在は 株式会社創造集団440Hz所属。グラフィックデザインを生業にしている。