ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

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ワケあり女子のワケのワケ⑪ 親から離れて〜ひとり暮らしで身につけたこと

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(自宅近くの湖。稲がずいぶん育っていた。撮影・ワケあり女子)

こんにちは!ワケあり女子です。先週は予告なく休んですみません…!
ついに夏風邪をひきました。最初は熱中症かと思いました。
妙な気候に身体がやられてます…みなさんも気をつけてくださいね。

実は福井に帰省したりもしたんですが、
風邪ひいた直後だったせいで超余裕のない日程になり、
写真を撮りまくる計画がパァになりました。無念。
ようやく福井の改札にもICカードが導入されるというニュースが唯一の救いです。
ああ不便だった…

それでは「ワケあり女子のワケのワケ」、今週もどうぞお楽しみください!  

 

www.hikipos.info

(これから記述するひきこもり期、おもに15歳から18歳頃までの出来事については、
 本人の記憶が曖昧なため、時系列など一部正確でない可能性があります。)

 

父の変化

出席日数が足りずに留年し、2度目の高校1年生の始業式を控えた私は憂鬱な春休みを過ごしていた。
春から新しく私の担任になる教師がなんと父の元同級生だというのだ。
田舎のコミュニティは狭い。福井県全体の人口は約80万人弱、
一つの市だけで100万人を超える事もある都市部とは人口密度がまるで違う。
それはつまり、知り合いの知り合いを辿れば身内に行き着く可能性がとても高いということだ。
いつどこで誰が見ているかわからない社会に当時の私は生きていた。

新担任は相談室とも連携し、私の両親にいろいろと働きかけていたようだった。
特に父とは気心が知れていたせいか、家庭を顧みなかった過去を批判し、
私の現状は父親のお前にも原因がある、などと諭していたようだった。

そのせいかどうかは知らないが、先に私への態度を改めたのは母ではなく父の方だった。
「学校に行きたくなければ行かなくていい」と言うようになったし、
外に出られない私の気持ちがわかるようになったとも言ってくれた。
父はこの間に失業していた時期があり、
日中の外出がいかに冷たい目で見られるかを身をもって実感したらしい。

ある日父から携帯にメッセージが送られてきた。
今まで不動産業を営んできた父だが、一念発起して司法書士の試験勉強を始めるという。
細かな表現は忘れてしまったが、理系科目が得意だけれどあえて文系の資格にチャレンジするらしい。
そしてそれが私と向き合うことになるというのだ。

父が司法書士試験に挑戦するということが、どういう理屈で私と向き合うことになるのかわからない。
ちっともわからないが、なぜだか妙に嬉しく、そして安心した。
それは「あなたの幸せのため」「あなたが学校に行けるようになるため」などという理屈ではなく、
父親が父親自身の人生を生きるという決意表明だったからだ。

「あなたの幸せのため」という言葉は、一見子を思う良い親に見えて実は非常に危険な発想だ。
「あなたの幸せが私の幸せ」という言葉に表されるように、
その発想はしばしば「あなたの幸せ」と「私の幸せ」を無意識のうちに巧妙にすり替える。
それはつまり、親が自身の幸せを子どもに依存しているということに他ならない。

そして「あなたの幸せ」は「あなたが学校に行けるようになること」と容易に結びつく。
「あなたが学校に行けるようになること」=「私の幸せ」という図式がこれで成り立つ。
その図式を完成させるために親は躍起になる。

だが父はそうではなかった。
父が自分で自分を幸せにすること、それが結果として私の幸せにも役立つことを父は知っていたのだ。
そのことは私を大いに救った。
母との関係は相変わらずだったが、
親の幸せ、親の機嫌を常に伺ってきた神経を少しは休めることができた。

ひとり暮らしをする

件の担任の勧めもあって、新学期から私は高校の近くでひとり暮らしをすることになった。
高校と提携している物件に下宿をするという形だ。
通学時間を短縮して負荷の軽減を図ることと、
関係のこじれた両親から距離を置くという2点が目的だったのだろうと思う。
(親と教師の間で実際どのような話がなされていたのか私は知らない)

初めてのひとり暮らしで、私はほぼ未経験にも関わらず自炊をすることに異様にこだわった。
とにかく母が作ったのでないものを食べること、
工場で作られたのでないものを食べることが絶対に必要である気がしたのだ。

ひきこもっていて特にすることのなかった私は、
高校入学と同時に買ったCASIOの電子辞書に入っていた、
小学館の『食の医学館』という本を隅々まで読んだ。
(結構な値段のする、当時としてはハイエンドモデルだった)
6大栄養素やビタミン、ミネラルの働きといった基礎的な内容から、
各食材に含まれる栄養成分とその働きなどを全て記憶した。

とにかく栄養バランスのとれた、身体に良い食事をしなければと思った。
幼い頃からの家庭環境によって、食事をすることに喜びを見出せなかったので、
「美味しいかどうか」という内発的な動機より
「身体によいかどうか」という外部の基準が欲しかったのかもしれない。
1日30品目だとか、野菜を350gだとか、そうした基準を執拗に守った。

 

生きるためのスキル

滑稽かもしれないけれど、それらはすべて母から受けた毒を消すのに必要な作業だったと今にして思う。
スナック菓子もほとんど食べなくなった。
スーパーに行ってもそれらを買わないようにしたからだ。
代わりに紅茶の茶葉を買って急須で淹れて飲んだ。
本当は相談室で教わったようにコーヒーを淹れたかったけれど、
道具を揃える必要のない手軽な紅茶から始めたのだ。

料理本片手に見よう見まねで作った料理も次第にサマになってくる。
親の乏しいレパートリーをあっという間に追い越し、
家で食べたことのないものも本を見ながら作れるようになる。
部屋の掃除もすべて自分で行い、清潔で快適な空間を維持する。
誰にも侵入されることのない安心・安全な空間をひとりで保っている。そんな感覚だった。
(実家の部屋には鍵がなく、母親は当然のようにノックもせずにいきなり部屋に入ってきた)

この時身につけたスキルはあとあとになっても私の身を守っている。
いまでも気分を落ち着けたい時には丁寧に紅茶を淹れて飲む。
茶葉の種類、道具の形状、お湯の温度などに当時よりもずっと詳しくなっている。
部屋の掃除をすると心が安らぐ。こちらも当時よりずいぶん手際が良くなった。
そして常に身体によい食品を選べるようになっている。
この頃からアトピー性皮膚炎がずいぶん軽くなったのはひょっとしてそのお陰かもしれない。

学校には相変わらず通えていなかったけれど、
私は生きるためのなにか大切なことを身につけはじめていた。

 

(つづく)

(著・ワケあり女子)