ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

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クリスマスの駅頭で出会った小さな「現代」―「ひきこもり支援」を考える

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文と写真・ぼそっと池井多

 

 

一昨年の今頃のことであった。
 
クリスマスが近づき、
街には慈善(チャリティ)の空気が満ちていた。
 
夜の駅の入り口に
寒風の吹きすさぶ中、
募金箱をかかげて、
一人の若い女性が立っていた。
 
シリア難民のための
 支援をお願いしまーす!
 
と、高い声をはりあげている。
 
声は、折からの強い風にあおられて、
切れ切れになって、私の耳へも届いてきた。 
 
そのころ、シリア難民の問題が深刻化していた。
 
シリア第二の都市、アレッポをめぐって
政府軍とIS、反政府勢力が半年近く攻防をくりひろげ、
多くの一般市民が家を焼かれ、
難民となって地中海をわたり、ヨーロッパへ押し寄せていた。
 
トルコの浜辺に打ち上げられた難民の幼児の遺体が、
世界中の多くの人々に戦慄と危機感をもたらしたりした。
 
いっぽうヨーロッパ国内では、難民たちによる
地元市民への強姦事件なども起こっていた。
 
そのような状況を遠くにひかえて、
「シリア難民」は、
意識ある人々にとって、
いまの私たちの国際社会がかかえる喫緊の課題になっていたのである。
 
だから、駅の入り口で
シリア難民のために募金を集める若い女性の立ち姿は、
その年の世相を映し出す象徴的な光景ですらあった。
 
 
 
 
 
 
しかし、このとき私の目は、
駅の階段を降りたところ、30メートルほど先に、
もう一つの異景を認めたのである。
 
私は思わず階段を降りていく足を停めた。
 
募金の声をはりあげている彼女の向こうから、
ちょうど50代ぐらいの
白い杖をついた目の不自由な男性が歩いてきたのであった。
 
杖のつき方からして、
おそらく全盲であろうと思われる。
 
視覚の障害を抜きにしても、
いかにも内気そうな、
自分から人に声をかけることなど
とうていできなさそうな風貌の男性であった。
 
いうなれば、ひきこもり気質の男性であって、
自身、ひきこもりである私は、
そういう人は瞬時にして共振するのである。
 
男性は、若い女性の真後ろまで来て、
杖を止め、立ち停まった。
 
募金をする彼女は、
自分の前に行きかう通行人たちだけを眺めており、
背後に来ている白い杖の男性には、
まったく気づいていない。
 
いっぽう、聴覚だけでその場の状況を
すべて把握しているらしい男性は、
自分の進路に起こっていることを、
すばやく理解したようであった。
 
彼女が立っている場所は、
目の不自由な人のための突起がついている
黄色い点字ブロックが
縦横にまじわった地点だった。
 
いわば、それを頼りに外を歩く人たちにとっては
交差点にあたる地点である。
  

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シリア難民のための
 支援をお願いしまーす!
 
相変わらず彼女が夢中ではりあげている、その声には
悲痛な焦りすらまじっていた。
 
彼女の脳裡には、
トルコの浜辺に打ち上げられたシリア難民の幼児の遺体が
あったのにちがいない。
 
どうすることもできない悲惨な状況が、
遠く離れた中東の地で起こっているのに、
自分は何もできない。
 
自分は何もできない。
自分は何もできない。
何をしたらよいのかわからない。
 
とりあえず、募金をするしかできないから、
募金をしている。
 
でも、道行く人は「わたし」の感じている危機感を
まるで共有してくれないかのように、
ただ通り過ぎていく。
 
これでいいのか。
 
……そんな焦りが、彼女の声に感じられるように思った。 
 
ところが、白い杖をついた男性は、
彼女のすぐ後ろに立っている。
 
彼女がほんの一、二歩、立つ位置を変えるだけで、
おおいに助かる人間が、すぐ後ろに立っていた。
 
彼女はそれに気づくことはない。
しかし、男性も彼女に声をかけることもない。
 
「すみません、どいていただけませんか」
 
の一言をかけることができない様子である。
 
杖の男性の、その躊躇は、
痛くわかる気がした。
 
点字ブロックの交差点を占拠している彼女の存在は、
 
「遠い外国のかわいそうな子どもを助けている」
 
ともいうべき、
あまりに社会的な正当性を得ていたのである。
 
そして、その声が持つ、ある種、悲愴な張りの強さから、
 
「あんたにかまっている暇はない。
 わたしは忙しいんだ」
 
と、あたかも女性が言っているかのような印象を、
杖の男性が勝手に受け取ってしまっていても、
じゅうぶん頷けるような状況であった。
 
白い杖の男性は、
すっかり気後れしてしまったらしく、
彼女を畏敬するように避けた。
 
何も言わず、
点字ブロックの上をはずれ、
大きく迂回して駅へ入っていこうとして、
白い杖の先を大きく扇形に伸ばしながら、
新たな進路を模索しはじめた。
 
しかし、夕方のラッシュ時のこと、
さまざまな方向へ行き交う通行人の足に阻まれて、
杖による進路の探索は進まない。
 
私は、よほど自分が階段を駆け下りていって、
その女性にひと言、
 
「そこ、どいてあげてください」
 
と言ってやろうかと思ったが、
それもまた、白い杖の男性の領分に踏みこんだ、
過ぎた干渉である気がして、やめた。
 
男性は、目は不自由かもしれないが、
口がないわけではないのである。
 
ここでは、男性の躊躇すらも、
彼という人間のひとつの選択ではあるまいか。
 
人間関係的ひきこもりである。
 
私がむりやり介入して、
彼の「代弁」をしてやったところで、
彼をそこから「引き出す」ことになってしまうかもしれない。
 
もし私が彼の立場だったら、
同じ世代の男性に、このような場面で介入してほしいか、
はなはだ微妙である。
 
となれば、むしろこれは、
貴重な異景の目撃者として、
この一件を最後まで見届けてあげることこそ、
私の役割ではないか、と思われてきたのである。
 
私は、まるで一つの天啓を受けた者のように、
そのまま階段の中途に立ち尽くしたまま、
雑踏のなかの小さなドラマを注視しつづけた。
 
行き交う人の波が、
すうっとフェイドアウトして、
募金の女性と白い杖の男性にだけ
スポットライトが当たっているように見えた。
 
私は、なにも
「募金をしている彼女が目の前にいる視覚障害者をないがしろにしている」
というつもりもない。
 
このドラマに、悪者はいない。
 
しかし、善い者もいないのではないか。
 
何万キロも離れた先の正義や慈善を考えなくても
文字通り彼女の足元に、
まだ彼女が気づいていない、
彼女がすぐにもできること、
そして、彼女にしかできないことがあるのだった。
 
たった一歩、動くこと。
それはあまりにも小さいことなので、
「支援」などと呼んでは、かえって別物になってしまう。
 
こうしたことが、何万、何億と
地球上で起こっているのが、
いわゆる「現代」と私たちが呼んでいる時代なのだろう。
 
私は駅頭の二人が織りなすドラマに、
国際化した「現代」の縮図を見させていただいたのである。
 
 
……。
……。
 
 
私がこのドラマを咀嚼(そしゃく)しているあいだ、
白い杖の男性は、
募金の彼女にいっさい気取られることなく、
彼女の背中を大きく弧を描いて迂回した。
 
杖の先でふたたび点字ブロックを探り当てると、
彼は軌道を戻し、
そして、おもむろに駅の階段を一段ずつ
手すりを伝って上がり始めた。
 
みじんの怒りも見せない
白い杖の男性の無感情な対応は、
 
「おそらく彼にとっては、
よくあることだったのだろう」
 
という確信を私に運んできたのだった。
 
(了)

 

<筆者プロフィール>
ぼそっと池井多 :ひきポス記者。「ひきこもり」という語がまだ社会に存在しなかった1980年代からひきこもり始め、以後「そとこもり」「うちこもり」など形態を変えながら断続的に30余年ひきこもっている。当事者の生の声を当事者たちの手で社会へ発信する「VOSOTぼそっとプロジェクト」主宰。