むかし、テニススクールに通っていたことがある。ひきこもりから抜け出して働き出し、心身ともに安定していた時期だった。
そのテニススクールで好きな子ができた。相手は、愛ちゃん(仮名)というすらっと背の高いショートカットの女の子。レッスン中は他の生徒さんとはほとんど会話をしないミステリアスな人だった。時々、月を見上げる横顔がはかなげだったけれど、それがまた彼女の魅力を引き立てていた。
彼女はかぐや姫だったのかもしれない。そう考えるといろいろつじつまが合うんだ。
徐々に愛ちゃんに惹かれるようになったけれど、告白する勇気なんてない。そのときは働いていたけれど、どこか後ろめたさがあったから。だけど、それでも良かったんだ。彼女に会えただけで嬉しかったし、少し会話をしただけで今まで生きてきて良かったと思えた。
僕はこれを愛ちゃんパワーと呼んでいた。からだ中にある、37兆個の細胞が彼女と会うたびに歌い出すんだ。おいおい、お前ら興奮しすぎだって。レディに失礼だぜ。
(※愛ちゃんとのことはひきポス4号で少しふれています)
エーゲ海で指導者オビ=ワンと出会う
ある年、エーゲ海をクルージングすることになった。僕にとって初めての海外だった。父が僕に人生経験を積ませようとしてお金を出してくれた。父のことは嫌いだけどこういうところはとても感謝している。(ただ、当時は海外に放り出されても緊張と不安でお腹を壊す毎日で早く日本に帰りたかった)
イタリア、ギリシャ、トルコと大型客船で訪れることになった。いろんな人に出会った。1ヶ月のバカンスでギリシャのとある島の海辺でずっと読書をしている30代くらいの英国人男性。船内ではたらくインドネシア人の若者(乗組員のインドネシア人率は高かった)。
そして、僕の運命を左右する、ある日本人の老夫婦にも出会った。その夫婦は、冬はタイで暮らし、それ以外の季節は日本で暮らしているという。二人から日本にいれば聞けないような話を聞かせてもらい、世界は広いということを教わった。
なにかの拍子にその旦那さんに愛ちゃんのことを話したところ、今すぐ愛をささやけというんだ。彼の言うことには圧倒的な説得力があった。まるでスター・ウォーズに出てくるオビ=ワン・ケノービのようだった。彼は、愛とはなにかを教えてくれた一人だと思う。
「アタックするんだ、どんどん積極的に」とオビ=ワンは僕をはげましてくれた。
連絡先も交換して帰国後もしばらくメールのやり取りをしていた。愛ちゃんをデートに誘うぞという気持ちが高まってきた。
オビ=ワンからも僕の背中を後押しするようなメールが届いた。その内容を要約すると以下のとおりだ。
「フォースとともにあらんことを」
(May the Force be with you)
(※僕が乗り込んだのは左の船。乗客と乗組員をふくめると3千人以上が乗ることができる。オビ=ワンと出会ったのはこの船上だった。ちなみにひきポス2号に掲載された僕の写真は、この船でカメラマンをしていたウクライナ人のダリアが撮ってくれたものだ)
(ギリシャのどこかの島。ちょうどギリシャ危機が言われ始めたころ)
37兆個の細胞が一喜一憂
その年の冬、キラ子さんという中年女性がテニススクールの仲間たちで忘年会をやろうと言い出した。なぜか僕にも声をかけてきた。
僕は人と一緒に会食をするのが苦手なんだ。自分の状態を知ってくれる人とでもその日の体調によっては、一口も食べられないこともある。
でも、これってチャンスではないか?
思いきって愛ちゃんを忘年会に誘ってみた。愛ちゃんは最初とまどっていたけれど、参加の有無を教えてくれるというのでLINEの交換ができた。
僕の37兆個の細胞が賛美歌を歌い始めた。
びびりの僕にこんなことができたなんて。エーゲ海で出会ったオビ=ワンに感謝。上手くいったらメールで報告だぜ。
しかし、愛ちゃんは参加する予定だったけれど、当日になってやっぱりダメということになった。僕の37兆個の細胞が悲鳴をあげた。
デスノートのLとキラのような心理戦
クリスマスのころだった。キラ子さん指定の居酒屋で僕をふくめて四人があつまった。僕以外みんな女性だった。逃げたい。
キラ子さんとキラ子さんの手下(あとで手下でないことがわかった)、キャリアなウーマンっぽい女性、ひきこもり上がりの僕という面子。
僕が緊張した面持ちだったからだろうか、キラ子さんが僕にいろいろ話しかけてきた。
「さとう君って星座なに?」と乙女なことを訊くキラ子さん。
「さそり座ですけど……」きょどりながらも答える僕。
「さそり座というと11月生まれかな?」
「いや、10月生まれですけど」
「あっ、そうかあ。10月生まれになるのかあ。10月の何日生まれなの?」キラ子さんは微笑んだ。
そのときは何気ない会話だと思っていた。つぎのテニススクールのレッスンでキラ子さんに会うまでは。
レッスンが終わり、家に帰ろうとしているときにキラ子さんに呼び止められた。
「さとう君、これ見ておいてほしいの」とキラ子さん。
キラ子さんが封筒に入った書類の一部をみせた。生命保険の書類だった。すでに僕の名前と生年月日は記入済み。まるでデスノートのようだった。
キラ子さんの誘いを利用して愛ちゃんのLINEをゲットし、有頂天になっていた僕が実ははめられていた。圧倒的敗北感。僕はそのデスノートを握りしめながら嗚咽した。
しかし、僕はあることに気づき笑いがとまらなくなった。
キラ子さん、僕はメンヘラなので生命保険には入れないんだよ。だから、そのデスノートになにを書いても無効さ。
生保レディの巧みな営業に翻弄されながらも最後の最後でひっくり返した。映画版『デスノート』のような展開だった。この年のクリスマスは忘れられないクリスマスになった。
で、愛ちゃんとはどうなったかって? それを聞くのは野暮ってもんよ。もし、君と会うことがあるのならば教えてあげてもいいかな。それまでは黙秘権を行使したいね。
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執筆・写真 さとう学
(Twitter:@buriko555 )
1977年生まれ。 小学生のときに不登校。中学で特殊学級に通うものの普通学級への編入をうながされて再び不登校。定時制高校に進学するが中退してひきこもる。
大学を一年で中退してしばらくひきこもる。障害者枠で働き始めるがパワハラをうけてひきこもる。2017年にひきこもり支援を訴えて市議選に立候補。落選して再びひきこもる。