日本経済の衰退が「ひきこもり」を問題化させた
「ひきこもり」を語る支援者たちは、ときとしてビジネスの話をしているかのようだ。
「ひきこもりの回復」「ひきこもりからの脱出」などの表現は、「経済の回復」「不況からの脱出」といった言い回しと重なる。
言葉遣いが似ているのは偶然ではない。
そもそも「ひきこもり」が、経済的な観点によって問題化されてきたためだ。
1990年代、週刊誌などで「ひきこもり(引きこもり症候群)」が取り上げられるようになったとき、真っ先に問題視されたのは「若い男性」だった。
「社会との関係を絶って閉じこもっている人」としては、以前から女性や中高年もいた。
にもかかわらずメディアで「若い男性」が取り上げられたのは、「労働力として期待されているにもかかわらず、働いていない」ことが目立ったためだ。
「若い男性なのに働いていない」という世間のまなざしが、「ひきこもり」を社会問題にまで引き上げた。
2000年代に広まった「ニート」も、定義上34歳までの「若者無業者」の問題化であり、男性のイメージが強かったように思う。
1998年に出版された斎藤環の『社会的ひきこもり』では、「ひきこもり」が「20代後半までに問題化」するという一文があった。(改訂版で削除。)
これは個人の「ひきこもり」が「20代後半までに問題化」するというより、「20代後半まで」の若者を周囲が問題化した、という因果関係があったのではないか。
近年では女性や中高年の「ひきこもり」も大勢いることが認識され、メディアでとりあげられるようになった。
うがった見方をしてしまうと、このような「ひきこもり」の多様化も、社会の就労圧力と連動しているように思える。
女性の就業率はこの20年上昇傾向にあり、自民党は「女性の力(労働力)が経済成長に不可欠」であるというようになった。
定年が引き上げられ、高齢者の再就職支援などの政策も広がっている。
女性と中高年の「ひきこもり」が問題化した背景には、「誰もがひきこもりになりえる」社会=「誰もが働くべきとみなされるようになった」社会が到来したという要因があるのではないか。
日本社会で「ひきこもり」が問題化した時期は、バブル崩壊後の「失われた10年」にあたる。
巨視的に見るなら、「ひきこもり問題」の前景化は、日本経済の衰退と反比例しているかのようだ。
ひきこもった原因が「経済的な価値観」であるとき、「経済的な支援策」には近寄らない
私は社会性においても人間関係においても、長く孤立した期間を過ごしてきた。
学校へも会社へも所属できない自分に罪悪感を持ち、その罪悪感によって、人との関係がさらに遠くなった。
私の「ひきこもった原因」は語り難いが、負担になったものの共通点を探すなら、「経済的な価値観の強制」があげられる。
学校教育でも、労働現場でも、日常生活であっても、現代では経済的な効率化が求められている。
大きな話になるが、明治期に始まった学校制度は、労働者を効率よく生み出すために作られた仕組みといえる。
義務教育(原語の Compulsory Education は、当初「強迫教育」と訳された)を受けて、製品を効率よく生産するための工場労働者になる。
黒板に向かっての一斉授業のスタイルも、効率化の追求によって生まれた形式だ。
みなと同じ時間に、みなと同じことを、みなと同じ道具を使って、みなと同じようにおこなう。
それは社会全体としての効率化であっても、私個人をひどく疲れさせることだった。
義務教育においても、労働現場においても、私を「ひきこもりにさせる原因」があったといっていい。
そして社会の「経済的な価値観」が負担であるとき、「経済的な価値観による支援策」も負担となる。
厚生労働省の「ひきこもり支援」は基本的に就労対策に力が入れられており、支援の効率化も進められてきた。
日本経済のために、100万人ともいわれる「ひきこもり」を就労させ、良い納税者にするため、サポートステーションなどの取り組みがおこなわれている。
社会的な孤立を防ぎ、当事者が有意義に過ごせるなら、就労支援の有効性もあるだろう。
しかし私自身が孤立していたとき、そのような支援策に近寄りたいとは思わなかった。
端的に言って、就労すれば「ひきこもり」が「解決」するかのようにみなす経済的な価値観は、〈人間の話〉ではなく〈金の話〉だ。
(そもそも「解決」という言葉自体に経済的・ビジネス的な発想がある。)
「ひきこもり」を社会問題化させた要因に、日本経済という〈金の話〉がかかわっていた。
経済的な観点で問題化されているために、「解決策」まで〈金の話〉にかたよりすぎていないだろうか。
「解決」ではなく「問題化をなくす」向き合い方
私は現在、まがりなりにも社会や人とのつながりをもって、働きながら生活している。
就労を重視する「ひきこもり支援」の観点でみれば、私の「ひきこもり」は「解決」しているといえるだろう。
私の孤立がやわらいでいった理由をいくつかあげるなら、それは遊びを楽しめるようになったことであり、詩を書いたり絵を描いたりといった文化的な趣味をもったことや、親しい人と出会えたことだ。
それらは雇用統計や年収と違い、〈金の話〉として数値化できるものではない。
直接的にGDPを高めるものごとではないだろう。
しかしそのような〈人間の話〉こそが、孤立に対して重要なことだ。
経済的な尺度ではなく、日々をいかに楽しみ、自由に過ごすことができるかという人間的・文化的な尺度を、「ひきこもり支援」においても忘れないでほしい。
アメリカなどで見られた「有閑階級」や、落語の世界に登場する「与太郎」、明治期にあった「高等遊民」など、自身が労働をしなくとも、自由に暮らした人々はいた。
〈金の話〉ではなく〈人間の話〉の尺度で物事が考えられたとき、「ひきこもり」は問題化そのものがなくなりうる。
それは就労支援的な「解決」ではないにしても、問題化自体がなくなるという点で、より根底的な「解決」であるはずだ。
KIKUI Yashin 2021 / Photo by Pixabay
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文 喜久井ヤシン(きくい やしん)
1987年生まれ。詩人・ライター。10代半ばから20代半ばまで、断続的な「ひきこもり」を経験している。
ツイッター 喜久井ヤシン (@ShinyaKikui) | Twitter
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