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苦登校~12年に及ぶ地獄の学校生活~ 後編

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(文・アラヤダおばさん)

バカ高校に進学(高1)

加害者連中に進学先まで邪魔され、いわゆるバカ高に通う羽目になった。
高校は予想通り。どの子も意地悪そうで仲良くなれそうな子などいない。もっとも今までもそうだったが。
教室内はいつも全員が、かなりの大声で喋りながら怒鳴るような勢いで爆笑している。
もう自分から声をかけることが出来なくなっていた私は1人で席に座っていた。常に本を広げていたが、何しろ教室内がうるさくて集中出来ず、読めたものではなかった。

どこからともなく「すげーブス。目が尖ってるぜ!」という声が聞こえる。9年間で免疫はついていたが、暴言を吐かれる瞬間のグサッとくる胸の痛みは鈍くなるわけではない。

でも学校のグチなど一切口にする事は出来ない。同居している祖母が乳ガンに罹患してしまったからだ。抗がん剤での治療は甚だしい苦痛を伴うことで有名。

凄まじい副作用で日に日に衰弱していく病人がいる時に「学校がつらい」などと言えるわけがない。帰宅後は母と共に祖母の看病をし、誰にも話せなかった。話せる相手もいなかった。
「あんなに嫌われて、いつも1人なのに毎日よく学校に来るよね。私だったら登校拒否になっちゃう」(当時は不登校と言わなかった)
と言われたり、電車内でも他校の子に「〇〇高校の制服だ」と嘲笑される。近所のオバさん達の井戸端会議中に出くわすと「あの子、〇〇高校…」と言ってクスクス笑う。
レベルの低い高校のせいか、男子が中学の時よりも乱暴な子が多くて怖かった。ロッカーを蹴破られたり、顔にツバを吐きかけてくるやつもいて驚いた。
都内に住んでいたので、名門校やお嬢様学校も、通える範囲に多数あった。

私などはどこへ行っても友達など出来ないだろうと思っていたが、伝統校なら少なくとも今の状況よりはマシだっただろう。良い学校に小学校や中学校から通っている子が羨ましかった。 

最終章

若い頃は必死に隠していた。
それでも12年間で染みついてしまった負のオーラは容易に隠しきれるものではなく、喋ったことのない人からも「何か変…」「変わってる」「私達と違うよね」と陰口を言われてしまう。
唐突に「友達いないでしょ?」と言われたり、「どんな人生を送ってきたの?」と含み笑いをされながら訊かれたり、「一体、学校ではどう過ごしてたの?」と怪訝そうな表情を浮かべながら探りを入れられたりしたことも度々ある。

私は年賀状をもらったことがない。メールが無い時代は、どの家でもポストに入り切れないほどの量が届いたものである。毎年1枚も来ないのが当たり前になっていた。

水着は学校用のものしか持っていなかった。夏でも友達とプールや海に行くことがないのだから買う必要もなかった。

遊園地も行ったことがない。1度でいいから絶叫マシーンに乗ってキャーキャー騒いでみたかった。ディズニーランドは私が高校1年の時に開園したが、初めて行ったのは10年以上経ってからだった。
同世代と話をしたことが数えるほどしかないのだから、気の利いた会話など出来るわけがない。人並みの大きさの声も出せない。手をパンパン叩きながら高い声で笑うなど恐らく一生できないのではないかと思う。

オバさんというと、騒がしくてゲラゲラ笑っているイメージがあるが、そんな彼女達はさぞかし楽しい青春を過ごしてきたのだろうと羨ましくなる。

どの時代にも流行語があり、若者は日常会話の中で頻繁に使うものだが、私は恥ずかしくて口にすることが出来なかった。自分は流行に乗ってはいけないような気がしていた。服装も髪型も。

家庭内で理不尽な扱いを受けてきた人も、昭和時代は相談できる場所はなく、DVさえ我慢を強いられた。国の経済は現在よりも遥かに豊かだったが、イジメは凄まじかったし、残虐極まりない犯罪も80年代は意外と多かった。日本人の民度はまだ低レベルだった。

相手の立場になって考えてあげる事は、思いやりのある人ならば、さほど難しいことではない。昔の事を話すと「何故、今頃になって?」と言う人がいるが、これは考えてあげようと思ったことすらない冷たい人間の言葉だ。
イヤな事は誰でも忘れたいに決まっている。はじめのうちは一刻も早く忘れようとする。そんな事に振り回されてたまるかと。
しかし、つらい記憶は実にしつこくつきまとって、何度振り払っても寄ってくる。
つらい体験は、なるべく早くにカウンセリングを受けるのが効果的だが、カウンセリングが一般に普及していなかった昭和時代は受診自体が困難だった。

近所に不登校から拒食に陥り、激ヤセした挙げ句に入院してしまった同級生がいた。親しかったわけでもなく、クラスも違ったので詳しい事は知らないが、彼女も担任からのイジメを受けたらしい。小4の後半から入院し、卒業式にも出られなかった。小柄で可愛らしい女の子だった。一時退院した時に母親が支えるようにして歩いているのを見かけたことがあったが、文字通り骨と皮状態だった。
中学では同じクラスに優しい女の子がいたようで、良い友達に恵まれて楽しそうだったが、高校で再び入院してしまった。その後、彼女がどうなったのかはわからない。

このケースも、適切な治療を早期に受けることが出来ていたら、こんな事にはならなかったかもしれない。同時に1人の女性の人生を狂わせた教師の罪は重い。

私の身近にも1人いるのだから、この女性のようになってしまった人は沢山いるはず。それでも「何故、今頃になって?」などと言うか‼️と思う。この時代にはどこにも相談できるところがなく、適切な方法が確立されておらず、被害者達は放置されたまま孤独に耐えていたのだから。

中高年世代の人達の「イジメ後遺症」は相当深刻なレベルで、思いやりや優しさといった心の支援が何よりも大切だと思っている。
自身のイジメ体験を羅列したところで何の役に立つのかと思う。確かに役に立ってはいない。就労支援に繋がるわけでもない。
ただ、子ども時代のイジメが、どれほど心にひどいダメージを与えるか、それは生きるエネルギーを吸いとってしまうほど恐ろしいものなのだ、という事、そして適切な治療を受けられなかった中高年世代が深刻な心の後遺症を残している事が少しでも伝われば幸いである。

 

最後に、私の愛読書の中から…

「これほど教育の議論が盛んになった今でも『教育とは、本当に人を愛する事ができる人を造り上げることです』と定義する人に会ったことがない」

「知識が何よりも大切だと思っている人は、愛が全てに勝る力を持つということを承認しないどころか、愛の深い人は知的ではないかのような先入観さえ持っている」
(「心に残るパウロの言葉」曽野綾子 新潮社 より抜粋)

 

(了)