文・宇場崎 一郎(仮名)
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はじめに
『ひきこもり当事者が仕事に就いて社会復帰を果たす』それ自体は素晴らしい事だろうし、私自身もそうなって良かったと思う。
今回、私がこの手記を書こうと思ったのは、ある種の成功談の裏に、ひきこもり当事者として大切な何かが見落とされている。そんな違和感が消えなかったからだ。一人のひきこもり当事者が抱えるネガティヴな側面を表現したいと思った。
途中、過激な表現もあって、書くのを控えようかと思った。だけど、言葉を我慢して(又は、言葉にできなくて)対人関係で強いストレスを感じた事が、ひきこもりになった要因の一つだと思っている。黙って部屋の中に居ても、誰も助けてくれないし、我慢していても何も起こらなかった。だったら多少の誤解や批判を覚悟してでも、声を発した方が良いと思った。
小難しく書いてしまったなと思うのだけど、読んで頂けると幸いです。
筆者の近況
一時期はコロナ自粛の影響もあり全盛を極めたフードデリバリーも、度重なる報酬の削減で、今は以前よりは稼げなくなった。地域や稼働手段にもよるので一概には言えないが、個人的な体感だと2割減。人によってはそれ以上に減ったと感じる人もいるかもしれない。
これ以上の削減は望まない。報酬が減って残念な気持ちは当然ある。以前の様な仕事へのモチベーションは保ちにくくなった。ただ、私は元々あの時の報酬の高さが異常なだけ(ボーナスタイム)だとわかっていた面もある。生活水準を上げない様にして、他に副業も始める事でダメージを減らす様に努めてはいる。
仕事を始める前の私は14年ほど無職だった。300円の電車賃を払う事ですら、躊躇する生活を送ってきた。だから、仕事があるだけで私には十分に思える部分もある。1回15分程度の配達で300円以上は稼げる喜びが今もある。
ひきこもりだった時は、親や近所の目を気にして、夜でも部屋の灯りを消して生活していた。気配を悟られない様に、足音を立てずに部屋の中を歩く。働けない罪悪感で頭の中がいっぱいになる。その頃の窮屈さに比べれば、現在は自由に外出できるから楽だ。
先の見えないひきこもり生活の恐怖に耐える日々よりも。一日中、布団の上で寝返りを打つだけの毎日よりも。外に出て仕事をする毎日の方が余程、健全で健康的だ。
今やフードデリバリーの仕事は私になくてはならない存在になった。
ひきこもりを抜けた先にはひきこもり以外の難問が待ち構えていた
ひきこもり状態を抜けて、仕事をし給料(報酬)をもらう。それまでの無職・ひきこもり状態に比べれば、社会生活を営む苦労や大変さはあるが、ある程度の満足感が得られる。
しかし、社会に出て仕事をすると見えてくるモノもある。
自分がひきこもりにならなかったら、もしかして手に入れていた“かも”しれない他人の『幸せ』が嫌でも目に飛び込んでくる。ひきこもりで過ごした時間は二度と戻ってこない。
イジメにあった学生時代
私は学生の時に色んなイジメにあった。イジメの内容は省略するが、私の学生時代は教師の体罰も学生同士のケンカも珍しくなかった様に思う。
その時の体験のせいで、外を歩いていると急に蹴り飛ばされるのではないか?階段や駅のホームに立つと後ろから突き落とされるのではないか?気を許していると後ろから首を絞められるのではないか?と心配になったりする。
仕事や生活のあらゆる場面で、そういった不安や緊張を感じて落ち込む事も多い。
イジメよりも恐ろしかった家庭環境
私はイジメにあっていたが、当時はそれが酷い事だとはわからなかった。いや、イジメはもちろんつらかったが、当時の私をもっと苦しませていたのは両親からの期待(プレッシャー)だった。
若い頃の父親は学歴主義者で「東大や医学部レベルじゃないと大学とは認めない」と言うのが口癖。母親にいたっては「いい大学に行くだけじゃダメだ!最低でも年収1億や年収10億円くらい稼いで親孝行しろ!できないならお前を産んだ意味がない!この家から出ていけ!」と言う始末。
学校の成績が悪いと、友達と遊ぶ事を禁止された。相手の家に「うちの子供と付き合うな!」と電話をかけられた事もある。定期試験で100点満点を取っても「当たり前だ」と言われて褒められた事はない。
私には子供の頃から『将来は父親と同じ職業に就きたい』という目標があった。けれど、母親に「父親の様な人間に絶対になるな!」と言われて否定されてしまった。
自活力のない学生の私は、親に家から追い出されると、命の危険に晒されて死んでしまうかもしれない。親に逆らえば、仲の良い友達関係を壊される。その事が学校のイジメなんかよりも余程、恐ろしかった。家庭の中に安心や安全はなかった。
過去からの後遺症
私はその後、約14年のひきこもり生活を送る事になる。成人した頃の私は、すっかり自信を失くし、常に他人の目を気にしてオドオドしている…そんな人間になっていた。もちろん少しでも努力して一人前の大人になろうとはした。
けれど、一人前の最低条件が年収1億円だった私は一向に自信がつかなかった。むしろ、出来ない事があるたびに自分を責めて、自己否定感や自責の念を強め、周囲の人に対して劣等感や不信感を抱く様になった。
人が何気なく言う「親孝行しなさい」の言葉。私の耳には「年収1億円を稼いで親孝行しなさい」「年収1億円を稼げないお前は親不孝なんだ」「親不孝なお前は出来損ないのダメ人間なんだ」と聞こえて、深く傷ついていた。
両親に育ててもらった事には感謝しているし、頑張って親孝行したい気持ちもあった。だからこそ失敗するたびに「また親の期待に応えられなかった…。」と罪悪感を感じて自分を責めていたんだと思う。
そんな失敗体験・傷つき体験の積み重ね
私の様な 親不孝なダメ人間は 社会や人の迷惑になる
いつしかそう思う様になり、人を避け部屋にひきこもる様になった。
そして、働ける様になった現在も、その時の後遺症は色濃く残っている。
『最低でも年収1億円だ!それができないなら親不孝だ!必要のない子供だ!
お前はダメで出来損ないの子供だ!怠けるな!もっと努力しろ!甘えるな!
できるまで喜ぶな!楽しむな!満足するな!もっと苦しめ!もっと苦労しろ!』
過去に親や周囲の人たちに投げつけられた否定的な言葉が、常に私の頭の中に湧いてくる。気づけばその言葉に負けそうになって、自己否定感や自責の念を強めてしまう。再び社会や人との関係を断ち、ひきこもり生活に戻りそうになる。
そんな生活には二度と戻りたくない!
葛藤の中で生きる
学生時代の私は家庭の中で『頭の悪い出来損ないの子供』というレッテルを貼られていた。年収10億円どころか年収1億円すら稼ぐ自信もない。けれど、それができなければ家から追い出される。
さらに『父親の様になりたい』という目標を失った私は、授業も全く集中できず、数学の公式も英単語も覚えられない。勉強が全く手につかなくなった。朝起きれなくなったり、食べ物を受け付けなくなり体重が38kgに落ちた時期もあった。
私が通う高校はちょっとした進学校だった。学歴が全てだとは思わないが、周りの友人の多くは、現在は社会的に優秀な人間として活躍している人も多いだろう。今更、彼(彼女)たちと同じ生き方ができないのはわかっている。
『これから社会に出て年収1億円、10億円と稼がないといけないのに、どうしてみんな楽しそうに笑っていられるのだろう?』
当時から妙な隔たりを感じていたし、比べても仕方がないと割り切るしかない。若い頃にあった劣等感や自己否定感も薄れつつある。
ただ…
「私は彼らと同じ子供だったのに何がダメ(出来損ない)だったんだろう?」
「なぜ私は親に年収1億だの10億だのを要求されたのだろう?」
「なぜ私の人生を親が決めて私自身で決めさせてもらえなかったのだろう?」
なぜ私は 私の人生を 生きさせてもらえなかったんだろう??
その思いだけは、いくつになっても消えはしない。
これからの未来を生きる
配達の仕事は楽な仕事ではないと思う。夏は暑いし、冬は寒い。雨や強風の日もある。何よりも運転中の事故が怖い。「いつまで続けられるのだろう」と不安になる。これが“最後の手記”になるかも?なんて縁起でもない事を考えたりする。
最近は残りの人生の事を考える。『どうやって生きていこうか?仕事がなくなったらどうする?住む場所や食べる物は?ケガや病気をした時は?一体どこに助けを求めればいい?』
過去のイジメ体験や両親の事で葛藤しながらも、葛藤するだけでは解決しない『これからの人生』という現実が目の前にはある。特に、ひきこもり当事者にとっては親亡き後のシビアな現実(5080問題)が待ち構えているケースもある。
幸いこの国には、人が生きていくための様々な支援制度がある。ひきこもりだった私は、そういった国や自治体の社会保障や支援制度がある事をネットで知りとても安堵した記憶がある。
『情報は力なり』という言葉がある。社会のそういった仕組みを知る事が、ひきこもりだった私に生きる勇気を与えてくれた。
『死に方』ばかりを考えて毎日を過ごしていたひきこもりの私。
現在の私は、あの頃と違い『生き方』を考える様になったかもしれない。
文:宇場崎 一郎(仮名)
元ひきこもり当事者。本人はニートにも近いため『ひきニート』だと思っている。Uber Eatsを始めて、14年ぶりに社会復帰を果たした事が記事で紹介された。過去には、ひきこもり当事者の自助グループに参加しながら『ひきこもり大学 メンタルヘルス学部』を主催した事もある。