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なぜ小学校を5回も転校したのか〜後編〜

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なぜ小学校を5回も転校したのか〜中編〜からの続き

「一切言葉を互いに交わしては行けない」一時保護施設

(文・葉)

 

その後、俺は、八王子・青梅のほうにあった「一時保護施設」と呼ばれていたところに預けられる。

養護施設に行く前段階の待機してる状態の子供が来ることになっている施設。

メンバーは短期間で移り変わるが、なかなか開かないのでそこも長期化していた。

職員も明らかに足りていない。

勉強はしなくていいのだが、毎日やたらと筋トレをさせていて、腕立てと腹筋をそれぞれ200回とかやらなければ説教部屋にぶち込まれる、異性と挨拶しただけで反省室というところ(パーテーションの囲いの中の何か)にぶち込まれるなど、地獄が現世に実在している的な場所だった。

これはとんでもないところに来てしまった。

いつ出られるのだろう。

そんな気持ちでいっぱいだった。

 

実はその施設では虐待も日常的に行われていた。

日本の中にはこう言う施設も沢山あるのだろうが、誰もそれを暴けないから明らかになっていないのだ。

 

職員は、自制しようという気持ちはあっても、こどもに手をあげてしまう。愛のムチと称して拳骨で殴る、などがあたりまえの世界で。とにかく殺伐としていた。

自由に会話できる時間も制限されていて、そこでありもしないゲームの新作が出るらしいとか、そんな話で紛らわす他なかった。

 

施設内には女子もいる。

「一切言葉を互いに交わしては行けない」

という鉄の掟があった。

それを守ってないと、反省室とは名ばかりのパーテーションでかこわれて出られない部屋で7日間すごさなきゃいけないみたいで、みんなそれを恐怖していた。

施設内で既に外に出る自由もないのに、さらに拘禁される訳だ。

 

我慢の限界で叫び出した中学生がいた。そいつはボコられたあげくに『反省室』で足を縛られていたらしい。

そういうことをされる人達を目の当たりにしてさらに、本能的にヤバいとは思うが、逃げようにもどうにもなりません。

きっと母が助けに来てくれるんだ、と信じるしか出来なかった。

ある日寝ている時上級生(6年生)の「センパイ」が(それまでの学校では上級生のお兄さんお姉さんという言い方)就寝後に私に話しかけてきた…小声で。

「ねえしこったことある?」

「しこるってなに?」

15分ほどヒソヒソ話していたのだが、ルールは就寝後一切話とかしてはいけないルール。

見回りに来た職員に発見され、上級生は反省室送りにならないように立ち回っていた(寝たフリ)が、私は職員に素直に話してしまった。詰問され、しかしオナニーについての話をしていたとも言えず、金属バットを両足のすねに挟み込んで30分間正座させられていた。その間もオラオラと説教をカマしてくる男性職員。痛かった。泣くしかなかった。執拗ににもうそんなことはしないと宣言させられた。もうよく覚えていないが、お説教もされ、説教されてこちら感激している風な雰囲気を醸し出された。職員はそれをすることに疑問も罪悪感も一切持ってはいないみたいだった。

 

数日後に母が様子を見に来た時に、アザがまだ残っていた。これは特殊な例なのか? そうは思えない。

 

それで母にここからだして欲しいとお願いすることにしたのだが。母はもう少しここで辛抱しろ…というので、俺はとっさにそのアザを見せて、「僕はうそついてない、ほんとなんだ」と訴えると、母の顔色が変わった。

 

母はキツい性格だったから、迫力はものすごいものがあるし、それで一旦はそこから出られることになった。

 

おまん、親いないん 

その後俺は、それでも山梨県にある養護施設に行くことになる。こちらも親元を離れていく施設で、カトリック系の私立学校の関係の施設らしく、一番小さい子は赤ちゃんで、今思えば孤児院的な色彩が強い施設だった。

 

三年生の時の施設は小三である私が一番の年少だったのだが、一転してその施設では小四の俺が最年長。

責任を感じることが多かった。

非常に家庭的な雰囲気で、女性の職員がほとんどで、いわゆるシスター服(修道服)を着ていたり、食事の前に祈ったりする。『神様今日の糧をお与えくださったことに感謝します〜父と子と精霊の御名(みな)によってアーメン』と、ちょっと馴染めない部分はあっても嫌いな場所ではなかった。

その時に年下の女の子に初恋もすることになる。

 

施設は問題なかった。が、登校はその村にある学校に子供の足で1時間近くかけて歩いて登校する。行きは集団登校で帰りはひとりで帰ってくる、一人で帰る方が問題だった。

方言こそあれ、普通の学校の普通のクラスで、給食がやたらに美味しかったのを覚えてる。

 

やはりやたらと嫌がらせのような絡みをしてくる奴はどこにでもいて、八ヶ月くらいしてから、ある時、誰かに言われた言葉が胸に突き刺さって抜けなくなった。

それはこういう言葉だった。



『親に聞いたんじゃけど、おまん(お前)○○(施設の名前)ってとこにいるんだろ。おまん、親いないん』



それで俺は今いる場所が、「星の美しい家」と言われる場所が、本来、親がない子ためにあった施設なんだということに気がついてしまう。

最も、薄々わかってはいた。親の話はみんな事情があって色々あるからしちゃだめよ、とか言われたり。

その事に気が付かないようにみんな配慮されていたんだ。自分より年下の子にさえも、気にされ配慮されていたのかもしれないのだ。

 

その事実が自分を苦しめた。

もしかして親は私を捨てたいのか? などとも思った。時折会いに来てくれたりもしていたが、その男子生徒に親無しと言われたのもショックはショックたったのだが、それよりも隠されていたことはさらにショックだった。れんびんを抱かないようにという心遣いだろうけど、言ってくれたらよかったのだ。

他の子はみんな親がいないから、君は特別だ、他の子には優しくしてやるのだと言ってくれればよかった。

子供を学校に通わせる義務があるからどうしてもそこに行って欲しいと。

『子供なんだからそんなことはわからないだろう』と大人が思っているのだろうというのがショックだった。

好きな女子への恋心などよりその突き刺さったものから涙ではない何か別のエネルギーが抜けていくのを感じた。

 

自分だけは日曜礼拝に出なくていいなど特別扱いされていた。

みんなは親がいることの苦しみも知らなければもしくは親がいないことに苦しんでいるか、その事を気にせずに生きている。

どうやったらそんなふうにしていられるのだ?

他のことも隠されているだろう、なにかは分からないけど、そういう疑心暗鬼に囚われた。

所詮自分は子供なんだと思った。どうやっても抜け出せない牢獄にいる気分だった。

 

その結果、朝布団を被ったまま意地でも学校に行かない、という行動を取ってしまう。

 

集団で寝るので、大部屋に布団を何十枚もひいて寝るのだが、朝はみんな支度するからグズグズしていたら取り残される、周りはみんな食事をして登校もしていても、それでも起きることができなかった。

 

俺だって当時なりに、多少、靴を隠されるとか、イジメのようなことがあっても、頑張っていたんだよ。自分が一番の年長者だということも責任感に繋がってもいたんだ。

 

それでもそこで何かが切れた。

俺は以前にもまして自分の世界の中に閉じこもるようになってしまうようになった。

 

親が統合失調症を発症する 5年生、6年生

最後の施設にいってからも、ずっとひきこもり生活がつづいていた。母は思い切って東京を離れようと言いだした。考えがある、母が子供時代を過ごしたの地方だから、そこに行けば、どうだろうと言う。

そんなもんはどこに行っても変わらないだろうと俺は思ったが、かと言ってどうしていいかもわからなかったから、そうする、それでいい、という事になった。

そのあとの母と行動力は凄かった。

 

中部地方のある県の教育委員会に交渉に行き、住民票は東京のままで通えるようにしてもらった。しかもなぜそう考えたのか不明だが戸籍上のではなく父の苗字を名乗ることになって、4歳頃から数えて3度目の苗字で過ごす羽目になる。(一度目は父の前に結婚して死別した方の姓、母方の姓、そして父方の姓)

 

当時新設に近かった小学校の近くに、土蔵のような場所を住めるようにした物件を借りることが出来て、そこから歩いて三十秒とかからずその学校の校庭があった。

 

担任のKという先生は女性で、ベテランの教諭だった。ほかの学校ではしなかったような不思議なクラス運営をしていた。

 

たとえば時間割はほぼ無視して、クラスに問題があれば、全員で学級会議になるのだが、その時に大学でディベートをするような形で話し合えるようなルールとなったりする。

そこで話のテーマになるのはクラスの中にあらゆる問題「あれはいじめではないか」とか「A子ちゃんが無口なこと」とかあるわけだが、全員で自由に忌憚なく話し合うことが求められ、結論がつくまで時間割は無視されたりした。

結果として、問題は最小化され、一体感がクラスの中にあるように上手い運営をしていたのだと思う。

しかし初めて学校生活がうまくいっていても、友達が何人かできて、ああ、よかった、となれば俺の人生にはまだ救いがあったのだが、そのようにはならなかった。

 

母親そのものと折り合いがわるくなっていくのだ。

「担任の先生がお前を洗脳した」と言い出したことは特によく覚えている。

恐らくは統合失調症の症状だと思われるが、当時の俺にその知識は当然ないし、1990年代にはGoogleもないから理由を探すことも出来なかった。思春期になってきていたことも関係あるかもしれないが、母親とは衝突するようになっていく。

父とは別居後も時々は会うような関係で、父の方の家に泊まりに行ったりしていたこともある。逆に父がこちらに来ることもあるという風に交流はあった。

その頃の父は躁鬱病が再発症して、団地の近所に住んでいた女性と深く関係を持ってしまうということがあって、相手も結婚するためにわりと強引に籍を入れてしまった、などという問題もおこりました。

 

母はその事で完全にキレてしまい、せっかくの小学校の卒業式にも出席してくれないという状態だった。

 

それらは35歳になったいまでもそれなりに尾を引いているのだが、本稿では語らないことにする。

 

 そして今…

「学校に行くのが正常なことだという前提」は常に俺の中にあり、強迫観念になっていたが、当時の私は、むしろ、学校に行ってるやつの方がおかしいのだと思っていたし、今もそう思うこともある。

 

親との関係性や性的なものを含む嗜癖への逃避、逃げて逃げて逃げ続けることの問題点などは現在進行形であることだ。

 

もちろん学校に行かず自分流の勉強をしたことは、知識として身につく部分と難しい部分があり、常識的なことが身についていない自分に気が付かないふりをしてきたのだが、知識と知恵の違い…たんなる意味と自分でなにかものごとの善し悪しを見分ける力…それらを説明できる知識と知恵がない、という状況、といったら言い過ぎか。

 

色々なことが歯抜けだらけで身についてしまっている。

学校に行くというのは、洗脳にほかならない。

そして学校にいくというのはあの醜悪な小社会の中で上手く立ち振る舞いできる社会性が求められているのだということだ。

結果として日本人は空気を読むようになるし、人格が形成されていく。

 

今学校に行けなくて悩んでいる人達は、それだけが人生の意味ではないと、このような経験をしてきた俺だからこそ、言ってあげられる。

幸せになることはできる。

たとえみんなと違っていても。違った方法でも、違った価値観でも、

 

神よ、私にさずけたまえ

変えられるものを変えてゆく勇気を

変えられないものは受け入れる平穏を

そして二つのものを見分ける賢さを

(了)