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ひきこもりと中学受験③ ~「車輪の下」となった「二月の勝者」~

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(文・マナキ) 

www.hikipos.info

 

 

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「最上階の柵を越えて 自由を探すにはまだ君ははやい 逃げちまえばいい ぶち壊しゃあいい ちっぽけな奴はここにもいる」WANDS Foolish OK

 

 

いきなりこのような始め方で大変申し訳ないのだが、正直私は連載3号である本記事をなかなか書く気になれなかった。

春は精神に問題を抱えている人にとっては一番しんどい時期のように思える。統計的に自殺者が一気に増えるのも3月からである。さらに昨今のCOVID-19の世界的大流行、またそれに付随する経済危機といった歴史的な緊急事態に目を奪われてしまったというのもある。

が、それ以上にあの中学に入ったこと、中学生活にコンプレックスをいまだに引きずっているのではないのではないかと思う。ここでコンプレックスというのは、一般的な意味として用いられる劣等コンプレックスではなく、大きな意味での心的複合体のことを指す。もちろんその中には劣等コンプレックスも含む。

 

これまでの記事でおそらく私の中学生活は悲惨なものだったと考える読者の方もいるとは思うのだが、楽しいときもあった。極端ないじめや、嫌がらせを周りから受けたわけではない。もっとも多少の嫌がらせやハブられることはあったが…

 

中学入学時に、まず圧倒されたのは人数の多さであった。小学校では、以前の記事にも触れたとおり、1学年40人程度であった。それが一気に1学年数百人程度へと膨れ上がったのである。もちろん同じ塾から進学してきたクラスメイトもいたが、入学時に別々のクラスに振り分けられた。

 

学校の性質上、予想されたことではあるが、授業内容についても驚かされた。例えば中学1年の1学期の歴史の授業は世界の古代文明から始まった。授業ではアケメネス朝、ヘレニズム文化、ハムラビ法典、ゾロアスター教といった横文字が黒板に並んでいた。

あたかも別の言語を暗記しているようであった。他にも数学の授業ではユークリッド幾何学の公準、公理、そこから導かれる定理といった基礎論から教えられた。公立中学では幾何学に於いてこれらについてはあまり触れられるものではない。まず仮定と結論を教わり、そこから発展して合同や相似といった図形の証明をしていくというのが関の山であろう。

 

5月後半になると部活が始まる。そこで私は大きな過ちを犯してしまった。ここで学校そのものの選択をミスったと突っ込まれれば何も言えないのだが...

 

当時Jリーグの熱狂ぶりから、私はなぜかサッカー部に入ってしまった。当時買っていたCDはオリコン10位内のものが殆どであったので、ミーハーな性格だったのかもしれない。今思うと自分の能力、資質、特性といったものを大きく見誤っていたかのように思えた。

 

私はADHDの傾向があるのか、どうやら動作がかなり変わっているようであった。今でもそれはあまり変わらないように思える。よく周りから挙動不審、怪しいとか言われていた。

この特性が発揮されるときもあれば、逆にマイナスに働くことにもなる。実際に発達障害と言われている著名人の中にはスポーツ選手もいる。だが残念なことにこの特性が私の部活動においてプラスに働くことはまずなかった。

 

サッカー部ではボールを奪うどころか、ドリブルさえまともに出来ずに、サッカーを楽しんでいるメンバーに対して、ベンチから羨望の眼差しを向けていた。夏の合宿にも行ったのだが、灼熱のグラウンドで行われた練習の辛い思い出しかない。

また運動部特有の上下関係で、上の学年から罵詈雑言を浴びせされるのにも違和感があった。もともと上下関係が合わなかったのだろう。臆病だった私は、夏休みが終わると同時に、退部届を顧問に提出すらせず、逃げるように去っていった。

 

教室では何かに取り憑かれたように、クラスメイト全員と仲良くしようと努めた。

全員が全員と仲良くできるとは思わないと普通に考えれば子供でも分かる。この奇妙な行動についての理由としては、小学校時代での教師などのいじめの代償として、クラスメイトからの注目や承認が欲しかったからではないか、と今となって思う。もちろんこの私の姿勢を疎ましく思うクラスメイトもいて、彼らから「うざい」と言われていた。当時の辞書にはこのスラングは載っておらず、さらにインターネットもない時代だったので、「うざい」と言われたとき、正直言葉の意味がよく分からなかった。僕はしかし私の心は既に悲鳴を上げていたようで、事実カバンの中にナイフを隠して登校していた。秋にはもう人間不信に陥っていた。学生生活を通じてナイフの出番はなかった。本当によかった。

 

いじめられていたクラスメイトがいた。恥を承知で書くと私も他の生徒同様いじめる側に回っていた。もし現在彼に謝罪を要求されたら、ただただ謝るしかない… 彼は6年間いじめに耐えて無事その学校を卒業、地方の大学に入ったそうだ。その精神力には感服する。

他にも私はクラスメイトに暴力を振るうなどをしていた。このように私は、学校生活を通していじめられる側といじめる側、両方の立場を経験した。

 

中学2年に上がると、付き合う友達もある程度選別され、夏休みには仲の良い友達と青春18きっぷで関西へ旅行にも行った。思えば中学2年のこのときが一番楽しかったと思う。それでも私の心は不安定だった。友人の言動に過敏になり、些細なことで批判や意見されると、もうその友人が信じられなくなるという白黒思考に陥っていた。

 

秋にはとうとう学校を休み始めるようになる。夜の時間が長くなっていくという物憂げな季節が追い風になったのかもしれない。その頃国語の授業では自分でテーマを決めてスピーチをすることになった。私の心の不安定さはさらに輪をかけて、次には対人恐怖になった。この状態において人前でスピーチするなんて考えられなかった。テーマも決まらずにパニックに陥っていた。学校に登校しないことでなんとかやり過ごそうとしたが、国語教師から電話が掛かってきて、激しい口調で説教をされた。私は電話を切ったのち、家で激しく暴れた。

 

実は不登校と同時に、母に対しての家庭内暴力も始まっていたのである。

幼い頃の話であるが、母は私に殴る蹴る等の暴行を加えた。家族での買い物の際、百貨店でいきなり置き去りにされ不安になったこともあった。また母と普通に会話しているときに、あることを境目として、突然母は口調が強くなり感情的にヒートアップするということがあった。

家庭内暴力に至った直接の原因というものを探るのは至難の業であるが、様々な母に対する攻撃性が内攻病気が表面に出ず、体の内部のほうに広がることしていったのは事実であると思う。受験期の過度の抑圧も一つの要因かもしれない。とにかく、母子家庭だったので、父はいなくて私の暴力は歯止めが効かなかった。

しかし、今思うとこれは不幸中の幸いで、仮に父がいたとすると、おそらく殺し合いに発展していたのでは、と思う。だが、こうして家族を傷つけたことはもはや取り返しがつかない。おそらく私はこれから先、家族を持たずに一人で生きていくことになるであろう。

 

このように心の状態が不安定だったので、学校に常駐していたスクールカウンセラーにもかかった。非常にアカデミックな女性で歯に衣着せずに物事を言うのが特徴であったが、ときどき表現が辛辣になるときになり、私の心にグサッとナイフのように突き刺さるときがあった。今でも彼女の言葉が幾つか記憶の中に残っていて、それについて考えているときがある。クライアント-セラピストの関係性という観点から考えれば、全体として彼女との相性はいいとは言えなかった。

 

その年の冬休みには友人とも遊ばずに一人むなしく電車や自転車で遠くに出かけた。

心が荒んでいたということもあり、NHKの精神分析の特集や母から買ってもらった心理学の本をきっかけに、不登校が始まるとともにフロイトの本を読み始めた。とにかく心とは何かを知りたかった。

 

学年がもう一つ上がる。クラス替えもあったので、環境が変わり、心は不安定であったものの、不登校は収まった。新しい人間関係も悪くはなかった。放課後学校に残って、入ることを禁じられていた屋上で、ボール遊びや、悪戯っぽいこともしていた。世間的に褒められたものではないが、この頃の悪ふざけは何物にも代えがたい楽しさがあった。

 

しかし夏休みに入ると自分が病気ではないかという不安に襲われた。

病気不安症、以前の言葉であれば心気症とみられる症状である。本屋に行っては家庭医学の本を読み漁り、何らかしらの病気なのではないかという確認が夏休みの間、続いた。

しまいには夏休みが終わろうとするその年の9月2日のあることがきっかけで、なぜだかHIVウィルス恐怖症となる。

 

HIVの主な感染経路は、性的感染、血液感染、母子感染の3つである。さらに空気や水にさらされると不活性化されて感染力を失ってしまう。これは当時の科学で既に明らかにされていたことでもあったのだが、 なぜか頭では理解できずにHIVに過剰に反応してしまった。保健所や病院でも「無意味」な検査も複数回行った。結果はもちろん全て陰性である。

 

余談だが、COVID-19の大流行で世界が大変なことになっている。例外なく現在の私の状況も大変である。怖くて公共交通機関には乗れない。買い物で外出をしたら服を洗濯機に放り込む。外で歩くとき、2m人との間の距離を置く。(これでオートバイと危うく接触事故を起こしそうになった。)

このように良いのか悪いのかかつてのウィルスに対する恐怖の残像が残っている。それでもあのときよりかは幾分まともな状況である。

 

中3の秋から冬にかけて、身体にウィルスが付着していないかと思い、手洗いやシャワーの回数が増えた。また、道端に落ちている爪楊枝に血がついているのではないかという現実離れした観念に襲われ、駅の赤いインクが血液にも見えたりもした。靴の裏にも血液がついているのではないかという疑念も生じた。ウィルスが靴について引きずっていると考え始めると、道端にもウィルスがあふれていることとなり、カバンを地面に直置きすることが出来なくなった。お風呂の時間も長くなり、4時間入る日もあった。

 

フロイトを読んでいたのが唯一の救いだったのかどうかはわからないのだが、自分で強迫性障害であるということは自覚していた。そしてその年の冬に精神科にかかった。

最初の診断名はやはり強迫性障害であった。

 

これはごく最近になって気づいたのだが、人間は自分がいてもいなくてもいという、自己アイデンティティが極端に希薄な状態になると、精神的な意味において自他との境界が分からなくなる。こうなるとアイデンティティの文脈では、私は○○ではないという否定神学的な姿勢を自分自身に適用していくことになる。それを突き詰めていくと最後に残るのは何であろうか。それは自分の身体である。私のこの身体だけは揺らぎようがない。そこで、この身体が最後の砦となり防波堤となる。そこでなんとかこの身体を守ろうとするために何度もその存在を確認するという強迫的な行動、あるいは異物への過剰な防衛と繋がる。

 

これがある閾値を超えると、しまいには身体すらも邪魔なものとなり、自殺未遂を起こすこともある。実際精神科にかかった直後、私は薬の大量服用による自殺未遂を図った。

 

私は精神科医や臨床心理士でもなければ、大学で哲学を専攻したわけでもない。そもそも最終学歴は厳密には中学卒業である。(私は大検を取得済であるが、高認もしくは大検は高卒の資格ではない。あくまで高卒と同等の学力を有することの証明である。だが、見方によっては高卒と同等の学歴という解釈もできる。)

 

従って上記の説明は私の経験や読んだ本に基づく主観的な仮説としてとどめておきたい。

 

では話を続ける。

 

自殺未遂を図ったものの、私は一命をとりとめた。そして中学の成績はなぜか不安的な心の状態にも関わらず、極端に成績が悪くはなかったので、無事「リストラ」されずに高校に進学することができた。

しかしながら日を追うごとに強迫性障害の症状は酷くなっていき、もはや学業どころではなくなった。そして高校に上がるいなや一年休学して療養した。

 

復学したあとが地獄であった。

 

留年をすると、当然一つ下の学年と一緒になる。これが定時制や通信制の高校であれば、それほど目立たないと思う。しかし、こういった中高一貫校では、中学校3年間のあいだ、若しくはそれ以前の塾時代から既に人間関係が出来上がっているのである。従って一年留年して再び同じ学年を続けるというのは、比喩的な言い回しをすれば、コミュニケーション能力が偏差値80以上でない限り、どうしても孤軍奮闘せざるを得ない。私は高校1年をやり直したが、出来上がった人間関係の中で、周りから白い目で見られた。空気が読めなかったので、尚更であった。透明人間のように存在しないように扱われたこともあった。彼らにとって私はまさに異常な存在であった。クラスの生贄としては格好の存在だったのかもしれない。そのような過酷な状況の中、3人ほどであろうか、それほど深入りはしないものの、付き合ってくれたクラスメイトもいた。彼らには恩を感じている。

 

学業も高校になってよりハードになる。義務教育から外れるので、一定の成績を修めて単位を取らなくてはならない。しかも私の学校では高1では英語、数学、国語が複数に分かれて、理科も3教科、社会も4教科といったカリキュラムであった。高校1年の夏の期末試験では試験の科目数は15を超えた。

 

さらに心の病も追い打ちをかけた。自己肯定感もすっかりと消失し、精神の病に苦しむ私は勉強にまったく身が入らなかった。授業で取り扱っていたジャコバン派、ボリシェビキといった世界史の暗号はもはや全く頭に入らなかった。中学生のとき微積分や複素数平面といった高校の内容を先取りして自ら学習していたはずの数学の定期試験でも全く点数が取れなかった。

 

と、高校での人間関係における孤立、ハードな学業、精神的な病の3つのコンボが私を追い詰めて、またもや私を自殺へと駆り立てた。そして総武線のとある駅で飛び降りを試みる。幸いその様子を見たサラリーマンが助けてくれたので、またしても一命をとりとめた。

 

このような状況下で学校に通うことすらままならなかったので、最終的には年度末の3月に私は自主退学となった。辞めるときの決断には、筆舌に尽くしがたい程のエネルギーを要した。それまでの必死の努力が全て泡になって消えてしまうのだから。

 

中学の頃、夏休みの宿題で、課題図書の一覧に偶然にもヘッセの「車輪の下」があり、それを選んで読書感想文を書いた。主人公のハンス・キーベンラートが猛勉強の末にエリート神学校に入学、そして没落していく様を描いた自伝的小説である。

奇しくも彼と同じように私は「車輪の下」に押しつぶされてしまった。

 

「車輪」からは「レール」を連想してしまう。私にとってのこの「レール」とは何だったのだろうか。それは有名大学に入ることだったのだろうか。研究者にでもなりたかったのだろうか。思えば小学校の頃からこれといった目標や夢がなかった。だとすると、この学校に入った意味は何だったのだろうか。もしかしたら単に意味づけようとしているだけであって、特に深い意味はないのかもしれない。名門進学校に入って、中退したという事実だけが残る。この事実それ自体はポジティブでもネガティブでもない。もしそれがポジティブだの成功体験だのと思う読者がいるのであれば、それはあるフィルターを通して捉えているからだ、と私は思う。

 

以上、重い内容が続いてしまい、読んでくださった方々には申し訳ないのであるが、次回はこうして暴露した一連の私の体験から、思ったことを書く予定である。

 

                          (続く…)