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ひきこもりと中学受験② ~裏合格体験記~

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撮影・マナキ

 

 

www.hikipos.info

 

(文・マナキ)

 

 “この薄い紙でさえ、僕の指を切った”      CHAGE&ASKA 「HEART」より

199X年のとある日、東京の一軒家にて...

当時小学校3年生だった私は、暇つぶしに自宅のリビングで図鑑を眺めていた。するとそこへ母がやってきて、新聞に折り込んであった一枚のチラシを私に見せた。そのチラシには「XX塾、公開模試」と書いてあった。

母はこのチラシを見ながら、「マナキは学校の成績がいいのだから、折角だし受けてみなよ。」と私に勧めてきた。しかし私はテストそのものが好きではなかったので、あまりに乗り気になれなかった。結局母の強い勧めに負けてしまい、その公開模試を受けることになった。その頃の私は、中学受験という「課金ゲーム」がこの世に存在していること自体、知らなかった。だから学校の延長線上としてのテストだと思って受けた。このテストがどのような意味を持つのか、カードやプラモに夢中になっていたこの風変わりな少年は全く気付いていなかった。勿論進学塾の公開模試とは知らずに、である。不思議にも、1円の価値すらもないこの紙が、私の指を切るどころかその後の波乱万丈の人生へといざなうのであった。

受けたテストの成績は350番台ぐらいであった。どのくらいの規模の人数が受けたのかは分らない。少なく見積もって5000人、多く見積もって1万人超であろうか。とにかく全体の人数は覚えていない。

 

模試の結果を見た親は、私にこう提案してきた。「この成績、悪くない。パズルみたいなことをする場所だから、通ってみるといいんじゃない。」

 

実際私はパズルや折り紙が好きだった。小学校1、2年のころ、当時学童保育に通っていた。私はそこでよく折り紙で遊んでいた。折り紙でくす玉(24面体)を作ったこともあった。このような経緯もあり、「パズル」と聞いたので、それなら楽しそうだということで、半ば騙された形で入塾した。中学受験の幕開けである。

 

最初の1年は週2日通うことになった。塾の時間は午後6時スタートで、当時テレビで放送していたドラゴンボールZと塾の授業の時間が重なった。したがって毎週楽しみにしていた国民的アニメの視聴を泣く泣く諦めたのを覚えている。

 

一体なぜ、私は中学受験をすることになったのか、数十年経った今でも私は母にその理由を聞き出せていない。おそらく同じ学区の公立中学が荒れていたからだと思うのだが、はっきりとした理由は今でも不明である。依然として私と母の間に、心の「開かずの踏切」が横たわっている。

 

幼い頃から私は勉強が好きだった。数十年経った今でもそれは変わらない。

 

最初通い始めたころは、帰宅後に必ず復習用のワークブックに取り組んでいた。理科と社会については一回ワークを仕上げるだけでほぼ内容が頭に入った。授業も新鮮で私の好奇心を満足するものだった。とにかく知ることに悦びを感じていた。また、算数についてはまさに「パズル」そのものであった。問題を解くのが本当に楽しかった。だが、唯一国語については事情が違っていた。特に物語文がどうしても苦手で、これが最後まで足を引っ張っていた。国語の授業の時間が来るたびに冬のような重く陰鬱な気分がやってきた。4教科の中では算数と社会が得意科目だった。

 

塾では毎週日曜日に一週間の授業内容を確認するテストがあった。そのテストの成績によってクラス分けがなされ、さらに席も成績によって決まる。教室には通路を挟んで細長いテーブルが6列並んでいて、1列ごとに左右に通路を挟んでテーブルが分かれていた。成績順に最前列通路側左、通路側右、通路側左隣、通路側右隣….二列目….というように振り分けられる。したがって一番成績のよい生徒は最前列左、一番成績の悪い生徒は6列目の壁側と席が決まる。1月に1回のペースでクラス替えが行われていた。

 

えげつないようにも思えるシステムであるが、一つのクラスでは大体似たような成績の子供が集まっているので、講師はクラスのレベルに応じて授業を進めることが出来る。また、最前列の生徒は後列に下がりたくないこと、或いは一つ上のクラスに上がることを動機付けとして勉強に励む。後列の生徒の場合では最前列を目指して下剋上を図るために切磋琢磨する。もちろんこのシステムと合わない子供もいるであろうが、合わなかったら他の塾に移ればよいだけである。視点を変えてこのように考えると合理的ではある。

 

というわけで週明けに発表される席順を見るのはスリリングであった。私の席はいつも一番上のクラスの1列目、あるいは2列目だった。1列目の通路側の席だったこともあった。しかし約3年間にわたる塾の生活で一度だけこんなことがあった。

確か小学5年の頃だったと思う。確認テストで国語の点数が150点中、66点という成績で、5列目になってしまったことである。当時、その塾には1学年につき4クラス程あった。傍から見れば最上位のクラスの5列目の席というのは全く悪くない。最上位のクラスに入るだけでも嬉しいと思う生徒の方が多いであろう。中学受験に限った話ではないが、誰もがスランプに陥る。だがその頃の私は負けず嫌いでプライドも高かった。エヴァンゲリオンのアスカをイメージしてもらうと分かりやすいかと思う。よって席が5列目になったことは、私にとって屈辱以外の何物でもなかった。席に座るや否や、視野の狭い私はこの世の終わりだと錯覚してしまい、大粒の涙を流して泣いてしまった。その只ならぬ様子を見た塾の講師たちはすっかり驚いてしまった。彼らは私をあたかもギャーギャー泣き叫ぶ赤子を手なずけるようになだめて、母にも心配しないようにと電話で連絡を入れた。塾までバスで通っていたので、帰りには毎回最寄りのバス停まで母が迎えに来てくれた。

 

小学4年のときは、週2で塾に通い、他の習い事をしていなかったので、比較的のんびりしていた。塾の無い日にはよく友達の家で遊んでいた。勉強自体が好きで、量もさほどではなかったので、塾でのストレスもさほど感じなかった。一つ難点を挙げるとするなら、スーファミを買ってもらえなかったことだった。最新のゲーム機を持っている同級生が羨ましかった。

 

だが、残念なことに、この緩々とした生活も小学4年で終わりを告げた。

小学5年に上がったときに、それまで妹を2年間いじめていた教師が私のクラスの担任になった。小学6年になっても担任は同じ教師であった。あの忘れることもできない、悪夢のような2年が始まったのである。

その教師は、ジメジメとした暗くてどす黒い印象を与える年配の女性だった。この記事ではその教師を”G”と呼ぶことにする。”G”は彼女のあだ名のイニシャルでもあった。

 新学年が始まるとすぐに、Gはまるで獲物を狙っていたかのように、妹と同様に私をいじめてきた。また、下手に勉強が出来たことが却っていじめを加速させた。どうやらGは学歴コンプレックスを抱えていたようであった。 Gのいじめは暴力こそ伴わなかったものの、精神的なダメージを私にじわじわと与えてきた。以下Gの執拗な私へのいじめの様子を書く。

 

まず、午前中の授業でなにかクラスメイト同士でふざけるとする。Gが怒り、罰として数人程席から立たせる。これがたびたび教室内で起こる。ここまでなら多くの学校で見られそうな光景である。だが問題はその先である。

 

席から立った生徒は私を含めてふざけたことに対して「○○してごめんなさい」と謝る。Gにとって「態度がよい」謝り方をした生徒から席に戻る。次から次へとそのふざけていた生徒は謝って座っていく。だが、幾ら幾ら謝っても最後に残るのはいつも私であった。誰の助けも求められずに教壇の前で一人寂しく立っていた。もはや「公開処刑」という類のものであった。このおぞましい罰は給食の時間をまたぐこともあった。酷いときは放課後を過ぎても帰宅させないこともあった。夕方以降に塾を控えていたので、翌日の登校のリスクを背負ってもGのことをシカトして強行突破して帰宅するほかになかった。そして塾に「避難」した。

 

こうした不条理さと、Gへの憤りの感情が、次第にお風呂の水垢のように溜まっていた。

 

さらに、ADHDの傾向があるので、子供のころの私は本当に人間関係の空気が読めなかった。かなりのKYであった。ある日Gへ用事があったため、会議中の職員室にノコノコと入ったことがあった。そのときは「今、会議中だよ」と他の教師から小声でやさしく注意してもらった。しかしネバネバした納豆のような性格のGは、後日、「この子、空気読めないんだ、アハハ」とクラスにて私を「公開処刑」した。他にも、きっかけが何だったのだかよく覚えてはいないのだが、面と向かって「不協和音」とも言われたこともある。

 

私は完全にクラスのスケープゴートとなっていた。そのうちなぜか笑う顔が徐々にひきつっていった。今度は心に溜まった水垢が石化し始めていった。

 

このように学校生活が酷いものだったので、皮肉にも小学5年から塾が自分の「居場所」となっていった。小学5年のとき、私は確認テストで全塾内の成績が最高で1万人中11位、模擬試験では1万人中最高15位という成績を叩き出した。この頃が私の塾生活での黄金時代であった。「パズル」を楽しむはずだった私はいつの間にか最難関校を目指していた。このように私の塾生活と学校生活は光と影の強いコントラストをなしていた。

 

そして小学校の最終学年に入る。時計は2月へと無機質な音を立てながらその針を着実に進めていった。塾も週5で通うようになった。また「二月の勝者」となるために、もう一つ週1で別の塾に入った。つまり「課金」の額が増えた。

 

相変わらずGからの私へのいじめは絶賛行われていた。そして一部のクラスメイトからも冷たい視線を浴びせられた。Gに便乗していじめてくる「チビG」も現れた。

 

小学6年になり塾の成績も下降していった。模試では1万人中大体200番台であり、100番以内に入ることが難しくなってきた。他の塾の模試の成績も受けたが、2000番台という惨憺たる結果も出したことがある。塾での人間関係も少しずつ上手くいかなくなってきた。この時点で、既に私は自己肯定感を徐々に失っていっていたのではないかと思っている。すこし話が逸れるが、その理由は以下の通りである。

 

私は5年間住んでいる市内の学習支援に携わっていた。私はそこで様々な事情を抱えている中学生を見ていた。彼らと接していて分かったのだが、自己肯定感が低い生徒はまず勉強をしても成績アップは見込めない。そのような生徒には彼らと趣味についての雑談などをして、自己肯定感を高めることが優先だ。市内のある大学の学習支援の勉強会に出席したとき、教育学の教授も同じことを指摘していた。

よって少なくとも勉強に於いてはまず自己肯定感がないと厳しいのである。参考までに自己肯定感を完全に失っていた19のとき、私は大学に行こうとして模試を受けたが、英語の偏差値38、数学の偏差値も55であった。結局大学受験は諦めた。では話を戻すとする。

 

受験最後の年なので、当然勉強量も増えた。私は特に得意科目の算数に重点を置いた。中学受験の肝とも言われている教科である。

最難関校の算数の問題は極めて難しく、大人でも解ける人はかなり少ないと私は思う。理科、社会といった科目もそれまで習ったことを復習しながら、新しい内容を習得していく。結果として塾の授業も延長するようになり、終バスに間に合わず、電車で回り道をして帰ることもあった。

また、国語については、大の苦手だった物語文を克服しようとして、文庫本の小説をいろいろと読んだが、成績上昇に全く貢献しなかった。当時の最難関校への合格を果たすためには、模試で200番台という順位では厳しかった。

 

第一志望の学校の倍率はそこまで高くはなかったのだが、いくつかのライバル塾の出来る生徒とも争うことも考えると、非常にハイレベルな戦いが繰り広げられる。その熾烈な争いに勝つために、学校へ行って週6で塾に通い、家でも勉強するという生活が1年間続いた。夏以降はますます勉強もハードになっていった。そんなときの心の支えは勉強しているときの母の差し入れであった。それでも夜中の3時頃に算数の問題が解けなくて、イライラして自分の頭の髪の毛を掻きむしったこともあった。おかげでその頭の部分が十円禿げのようになり、学校でクラスメイトからかわれた。今考えるとどうしてあのような過酷な生活が出来たのか、自分でも謎である。忙しさという点ではブラック企業の社員とさほど変わらない。もちろん冬休みも返上して塾で缶詰のようになり勉強をしていた。

 

おびただしい勉強量によるフラストレーションから、受験直前にファミコンのFF3をこっそりと買ってしまった。結局すぐにバレてしまい、母から大目玉を食らってゲーム機ごと没収された。その代わりに志望校に合格したら、スーファミをプレゼントすると約束してくれた。

 

そして2月のある日、第一志望校の試験日を迎えることとなった。受験番号は26番。母が早めに願書を出してくれたのだろう。当日の緊張感は半端なかった。面接もあり、受けた学校の生徒が面接のお手伝いをしていた。私のあまりの緊張感が彼に伝わったのか「リラックスして」と、面接待ちの私にホットミルクのような優しい声をかけてもらった。また、筆記試験については、難しかったが全く手が付かずということもなく、手ごたえとしてはそこそこであった。

何とかすべての試験を終え、会場を出ると塾の先生が解答速報を配っていた。自己採点で算数が6割強だった。その他の教科については覚えていない。その年の第一志望校の試験は社会が難しく、算数と社会が得意だった私には追い風だったようだ。翌日、ドキドキと心臓の鼓動がけたたましく鳴る中で合格掲示板を見ると、26という数字が輝くように載っていた。私はとうとう長い受験生活から解放されたのだ。このときの喜びは何物にも代えがたかった。そして強烈な成功体験となり私の心に深く刻み込まれた。さらに私は滑り止めの他の4つの学校にもすべて合格した。こうして私は「二月の勝者」となった。勿論、あれだけ欲しがっていた約束のスーファミも買ってもらった。合格後、抑え込んでいた心のリミッターが外れたのか、家ではゲーム三昧の日々を送っていた。

 

しかし受験は終わっても学校は3月まで続く。勿論Gのいじめも続いていた。ある日私は授業で例のごとく立たされた。そのときのやりとりで、「志望校に電話して合格を取り下げるぞ」と脅された。脅迫罪にも抵触しかねない発言である。ただ、もうその頃にはGは生徒の信頼を失っていた。卒業式が近づくにつれ、クラスメイトにもGへの不満がマグマのように溜まっていった。卒業式ではそれが爆発して大いに荒れ狂った。私も燃え盛る炎のような激しい暴言をGへと浴びさせた。こうして私は通い慣れた小学校を去った。

ここで一つの疑問が浮かぶ。なぜ私は我慢して学校に通っていたのであろうか。ここまで散々な目に会いながらも、学校に通っていたのはそれなりの理由があったはずである。数十年経た今となってはそれは記憶の彼方へと飛んでしまった。また、中学受験は高校受験のように、学校生活の状況は反映されない。 義務教育とはいえ、教師によるいじめは法的にも不当行為に当たり、不登校への正当な理由となるはずである。よって登校を拒否して塾だけ通ったとしても、親子共に問題は無かったと思う。Gは女親が教師に対して強硬な態度を出せないことに付け込み、4年間兄妹を虐げたのだった。実に卑劣としか言いようのない教師だった。

自宅の本棚から引っ張り出して小学校の卒業アルバムを開く。そこには最近のヒット映画「JOKER」の主人公を彷彿させる、ぎこちない笑みを浮かべた私の顔写真が載っていた。きっとこのときにはもはや泣き方も笑い方も忘れていたのだろう。舞台は合格したあの中学校へと移る。道端に蹴飛ばされて転がった小石のような硬い心で...  

 

                      (続く)