文・ぼそっと池井多
先週、ABC予想という数学上の難問が、京都大学の望月新一さんという数学者によって証明されたというニュースが、コロナウィルスで閉塞した日本社会をかけめぐった。
しかし、数学者たちの間からは、「そこには致命的な欠陥がある」という指摘もされているらしい。まだ「ABC予想」が「モチヅキの定理」と名を変えるには時間がかかるようである。
フェルマー予想とぼそっと予想
似たようなことは四半世紀ほど前にも起こった。
1993年に、アンドリュー・ワイルズという数学者が、フェルマー予想という、これまた数学史上屈指の難問を証明したと発表したが、すぐさま致命的な間違いが指摘されたのであった。
その部分の修正を経て、やがてこれは以下のような「フェルマーの最終定理」として知られるようになる。
3 以上の自然数 n について
x^n + y^n = z^n となる
自然数の組 (x, y, z) は存在しない。
「存在しない」というところが味噌である。
数学を見るだけで頭が痛くなるような人は、この「存在しない」というところだけ憶えておいていただけばよい。
このフェルマー予想は、ピエール・ド・フェルマーというフランスの数学者が1630年ごろに、
「この定理に関して、私はまことに驚くべき証明を見つけたが、ここにそれを書くにはスペースが狭すぎる。」
と本の余白に書きこみをしたのが始まりである。
これは、いかにも
「ほんとはボクちゃんはそれを証明できるんだけど、書くスペースがないから書かないだけだもんね」
という、上から目線で逃げを打っているところがなんとも憎たらしい。
このフェルマー予想のように、「そんなものは存在しない」と証明することが、その予想を定理として証明する偉業となるケースが多い。
ここで私は、「ぼそっと予想」というものを提示したい。それは
ひきこもりに関して
完璧なその定義は存在しない
というものである。
今まで、いくつもの「ひきこもりの定義」案が作られてきた。日本だけではない、海外でもそうである。
しかし、どの定義案も、それを聞くや否や、たちまちそれに当てはまらないひきこもり仲間の顔が私の頭に浮かぶのである。
完璧な世界地図を求めて
「ひきこもりの定義」の話になるたびに、私が
人間は、完璧な世界地図を描こうとして、絶えず試行を繰り返してきた。地球の形が誤って信じられていた古代や中世においてさえ、人々は完璧な世界地図を描こうとしてやまなかったのである。
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これはちょうど、
「ひきこもりは日本特有の現象である」
などと誤って信じられていたころから、「ひきこもりの定義」を作ろうとする人が後を絶たなかったことに匹敵するだろう。
紀元前5世紀、古代ギリシャの歴史の父、ヘロドトスが描いたとされる世界地図は、彼にとって身近な地方であったギリシャ周辺だけは、今日の地図に迫るほど正確に描かれている。
ところが、西へ目を転ずると、イギリスやスカンジナビア半島が現われる前に世界が終わっている。アフリカ大陸も、今日でいう西アフリカが存在しない。
これは、「ひきこもりは世界にいる」という事実が社会に知られる前でも、日本国内のひきこもりに関して微に入り細を穿つ研究が行われていたけれども、マクロな視点がすっぽり抜け落ちていたことに似ているのではないか。
1522年に地球が丸いとわかってからは、人々は球体の表面を平面に押し広げるために、さまざまな図法を考案するようになった。
しかし、しょせんはどれも果たせぬ望みとなる。
面積、方位、形状など、球面上のすべての要素をそのまま平面へ移行することはできず、どれかを見捨てなければならない。
それでも、人間はよりリアルな世界地図を描こうとしてやまない。そのために、新しい図法がいまだに次々と考案されているのである。その情熱は、まさに「ひきこもりは世界にいる」とわかってからも、世界各地で「ひきこもりの定義」の作成が試みられていることに比類できる。
そういう人たちの努力をあざ笑う意図はないのだが、ここで私はあえて「完璧なひきこもりの定義は作れない」と予想するのだ。
この定理に関して、私はまことに驚くべき証明を見つけたが、ここにそれを書くにはスペースが狭すぎる。……
(了)