文・ぼそっと池井多
2月の気配は、私に中学受験を思い起こさせる。むかし2月は寒かった。
小学校3年生の頃から、夜中の2時まで母に受験勉強をさせられていた私は、5年生になると毎週日曜日、住んでいた名古屋から新幹線で東京の進学教室へ通っていた。
そんな私にとって、2月は「結果」が出る、いわば裁きを受ける月であった。その戦慄が、寒気が肌にもたらす小針で刺すような感覚とあいまって、少年の私を縮み上がらせた。
最近は、メディアなどでも「教育圧力」や「教育虐待」という語が使われ、そのことに大きな関心が向けられるようになった。
すなわち、より良い教育を受けさせようと、親が子どもに、やれ塾だ、やれ習い事だ、やれ進学だ、と圧力をかける育て方である。
私の母親などはその典型であった。
そして、そのことを、私という子どもが精神的・人格的につぶれていった唯一の原因のように、ややもすると私も語ってしまいがちである。
なぜならば、そのように語ると、かんたんに説明が通るからである。
受験を楽しむ生徒たち
私は短期間、働いたことがある。
仕事の一つが家庭教師であった。とくに、中学受験をする小学生を教える家庭教師は、申し込みが多かった。
いくら時給が良いとはいえ、自分が受けた教育虐待を次の世代に連鎖させるような仕事を、私はあまりやりたくなかった。だから、私は自分の仕事に罪悪感をかかえ、教えている生徒にはほとんど謝まりながら教えていた。
するとある日、私が教え、いわゆる御三家といわれる難関校に合格したユウくんが、私にこんな手紙を送ってきたのである。
「先生は、『苦しいだろう』『つらいだろう』と何度も言ってくれました。でも、はっきり言って、僕は受験がとても楽しかったのです。それをずっと言いたかったんです。でも、先生を否定することになると思い、今まで言いませんでした」
私は少なからずショックを受けた。
ユウくんが、いい子ぶって嘘を書いているとは思えなかった。たしかにユウくんは、まるでゲームを楽しむように受験勉強を進め、スコアを稼ぐように模試の点数を競い、フェイズを上げるように受験カリキュラムをこなしていたことを思い出した。
ここに至って私は自問することになった。私がつらかったのは、中学受験そのもののせいではない。こんなに楽しく受験する奴もいる。私がつらかった本当の理由は何だったのだろう、と。
理由の多層性
人は、自分の行動の理由を説明するとき、とかく一つの理由で説明しようとしてしまうものだ。ところが、よく考えてみると、自分がその行動を取ったのは、いくつもの理由が綜合された結果であり、しかもそれら複数の理由は、それぞれ違う「層」に存在していることがわかる。
すなわち、意識の表層から深層に至るまでの多くの層である。
表層には、「社会的に説明しやすい理由」がある。
「教育圧力」「教育虐待」などということがメディアで語られるようになった今日では、
「中学受験がつらかった。教育圧力・教育虐待を受けた。それが自分の人格がつぶれた理由だ」
という説明は社会的にも受け容れられやすい。だから、それを理由にまず言いたくなる。上の図でいえば「理由1」にあたるものである。
しかし、その下にいくつもの他の理由が潜んでいる。
深層には「社会的に説明しにくい理由」がある。あまりにも個人的・独自的な環境による理由であったりして、たやすく他の人と共有できないために、そういう理由たちはふだん省みられることもなく、記憶の引き出し奥深くに追いやられている。上の図でいえば「理由4」にあたるようなものである。
すると、世の中の人の行動がすべて「理由1」のような表層的な理由だけで解釈され、説明され、納得されていく。
こうして「触れられない真実」の領域ができてしまうのだ。
「ありがたいと思いなさい!」
触れていない深層の理由を掘り起こすと、幼い私を精神的・人格的につぶしたのは、たんに中学受験という社会的行事そのものではないことに思い至る。
鉄道少年であった私は、毎週日曜日の新幹線通学そのものは、正直をいって好きだった。では、そこで何がつらかったかというと、事あるごとに母が、
「名古屋から東京まで、お前には新幹線代がいくらかかってると思ってるの!」
と、ネチネチ責めてくることであった。
新幹線に乗るのは好きであっても、東京の進学教室へ行くのは好きではない。では、なぜ行くのかというと、母が「行け」というから、しかたなく行っているのである。
いや、もっと正確にいえば、もしそこで私が東京の進学教室へ「行かない」などと言ったならば、すぐさま母は、
「それじゃあ、お母さん、死んでやるからね」
と私を脅しにかかることが予想できたのだ。
そのような脅迫を受けるたびに、すでに私が病んでいた強迫性障害の症状が燃え盛った。母にそのような脅迫を受けることは、とてつもなく苦しかった。
こうして私は、母に死をちらつかされないために、しかたなく毎週日曜日に東京の進学教室へ通っていたわけだが、となるとまさか各駅停車で行くわけにもいかず、名古屋から東京の新幹線代は必然的にかかってくるのである。
そのことについて、私に文句を言われても困る。
一事が万事である。
まさに同じような要領で、たとえば私がモノを食べると、母は、
「そんなにたんまり食べさせてもらって、
ありがたいと思いなさい!」
と詰(なじ)る。
小学校へ、行きたくもないけど行くと、母は、
「学校へ行かせてもらって、
ありがたいと思いなさい!」
と責める。
結局のところ、私は家庭の中で生きているだけで、母に
「養ってもらって、ありがたいと思いなさい!」
となぐられ、蹴られ、虐待されていたのである。
こうなると、こちらとしては、
「いいえ、けっこうです。養ってくれなくても」
と言いたいところだが、実際問題として、実の親に養われなかったら、子どもの私はどうやって生きていったらよいのか。
当時は里親制度などというものは知らなかったし、児童相談所などという役所の存在も知らなかった。いや、たとえ少年だった私が児童相談所の存在を知っていて、そこにたどりついたとしても、そこで私が救われたとはとうてい思えない。
母による虐待は言葉によるものだから、痣(あざ)や生傷のような痕跡を残さないし、児童相談所の役人のような第三者が家庭に入ってくれば、母はたちまちその場だけ知的でやさしい良妻賢母を演じおおせるに決まっていたからだ。
方策がなかった私は、
「この家庭に生きていてごめんなさい」
と謝るかのごとく、ダンゴムシのように心身を縮こまらせて生きていたのであった。
しかし、そんなことは、もともと謝らなくてよいことである。
肚(はら)の底では、
「お前らに『養ってくれ』などとは、
ひと言も頼んでないわっ!」
と母親に対して啖呵(たんか)を切り、母親も、それをガードするため割って入ってくるであろう父親も、みんな頬張り倒して、暗黒家庭に革命の蜂起を敢行し、新しき王として君臨したい気持ちが、マグマのように胎動していたことだろう。
実際に蜂起していたなら、それは「家庭内暴力」と名づけられて、家庭の背後に広がる「社会」によって、私は制裁を受けていたかもしれない。
だが私は、蜂起にまでも至らなかった。あまりにも意識深くに追いやられ、私は自分の怒りの胎動に気づかなかったのである。
望まないことをされ、恩を売られる
「養う」「食べさせる」「いい学校へ行かせる」など、子どもの私が本音でまったく望んでもいないことを、あたかも私が望んでやってもらっているような構図にすりかえられ、さかんに恩を売られるということが、私はもう、死にたいくらいに苦痛だった。
母の、この「恩を着せる」という行為によって、私は人格的につぶれたのだと思う。
これを、私は「恩着せ重圧」と名づけている。
私の生育歴をふりかえるとき、この「恩着せ重圧」は、ひきこもりになった原因や理由として、「教育圧力」や「教育虐待」よりももっと深い層に、もっと大きく存在していることは明らかである。
なぜならば、もしこの「恩着せ重圧」がなければ、親から「教育圧力」がかけられても、子どもの私にも、もっと他に抵抗のしようがあっただろうと思われるからである。
たとえば、
「いやだ! ぼくはもうこんな勉強したくない」
と言えたかもしれない。
恩を着せられてくるから、そういう抵抗もできなかったのだ。
ここに私の精神の行き詰まりがあった。
行き詰まりは、私の内部に「やりたいんだけど、やりたくない」といった矛盾と葛藤を増殖させていき、やがて
「社会へ出たいのだけど、出たくない」
というひきこもりへと私を導いていったのではないだろうか。
また、それも理由のすべてではないのだが。(了)
<筆者プロフィール>
ぼそっと池井多 東京在住の中高年ひきこもり当事者。23歳よりひきこもり始め、「そとこもり」「うちこもり」など多様な形で断続的にひきこもり続け現在に到る。VOSOT(チームぼそっと)主宰。
facebook: vosot.ikeida
twitter: @vosot_just