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「ひきこもり」にならない選択肢はあったのか ~ 一次障害と二次障害を考える《 ひきこもりの考古学 第9回 》

うちの前のゴミ集積場 写真・ぼそっと池井多

文・ぼそっと池井多

 

・・・「ひきこもりの考古学 第8回」からのつづき

 

ひきこもりに見られないように

外に出れば人目に触れる。
燃えるゴミを捨てに行っただけで近所の人々の目にさらされるのは、まっぴら御免である。

ゴミの「夜出し」は、私の町内でも御法度だ。
だから、ゴミ捨ては近所の人々が起き出す前に敢行しなければならない。

しかし近所には、早起きのお年寄りもたくさん住んでいる。私は早起きは苦手だから、ゴミを正しく出そうと思ったら、前の夜から寝ないで、ゴミを出しても許される時刻まで起きていることになる。

時計の針が午前3時を回ったのを確かめると、私はまるで泥棒のように足音を忍ばせ、築50年の古アパートの玄関から出ていく。音を立てないように錆びた鉄の階段を降り、アパートの前の電柱にある集積場にそっとゴミ袋を置き、カラス除けの網をかける。周囲の家々を見回す。よし、誰にも見られていない。

こうしてひきこもりの私は、正しい市民生活を送ろうとすればするほど昼夜逆転になり、よけいにひきこもりになる。

 

ゴミ一つ出すにもこんな始末だから、どこかへ出かける時は大変だ。
透明人間にでもならない限り人目に触れないのは無理なので、せめてできるだけひきこもりに見えないように心がける。

ひきこもり経験者のなかには、世間が抱いている俗悪なひきこもりのイメージへ自らを押し込むことで「ひきこもりとして売っている」人もいるようだが、私はそういう戦略で社会に入っていきたくはない。
外へ出るからには、できるだけ「ふつうの人」の格好をして、「ふつうの人」の言動をするようにしている。


この努力が功を奏して、「ひきこもりには見えない」と言われることが多い。
すると、まるで若く見られたように喜んでいる。

ところが、「ひきこもりには見えない」が高じて、
「あんなのはひきこもりではない」
「ひきこもりを演技的に標榜しているだけだ」
などという人もいる。

こうなると穏やかではないが、考えてみればこれも私が「ひきこもりには見えない」ように世間の目をあざむいている成果なので、こういう批判を向けられるたびに私は、
「しめしめ。ひっかかったな」
とやはり心の底で喜んでいるのである。

 

ひきこもりの定義

「ひきこもりに見える / 見えない」という印象のちがいは、それぞれの人が持つひきこもりの定義に基づいているはずである。ところが印象とは、もともと主観的で捉えどころがないうえに、ひきこもりの定義そのものが定まっていないために、何がひきこもりに見える見えないかという区別を確かな言葉にすることができない。

「ひきこもりの定義」という話題は、昔から周期的にひきこもり界隈で語られる。この話題に関して、私は完璧なひきこもりの定義を作ることは不可能というのが持論である(*1)

 

*1. 次の記事に詳しい。
https://www.hikipos.info/entry/2020/04/09/070000

 

しかし、完璧なひきこもりの定義が作れないからといって、さまざまなひきこもり定義案をのっけから検討しないというわけではない。

ある専門家による社会的ひきこもりの定義に、
「精神障害を一次障害としないもの」
という条件があった。
ひきこもりになった結果、何かの精神障害が二次障害として始まった場合は、その人は社会的ひきこもりと認められるが、もともと精神障害があったためにひきこもった場合は社会的ひきこもりとは認めない、という意味である。

私がひきこもりとなったのは2005年、43歳のときだった。
当時の精神科の主治医に、
「あんたはひきこもりにすぎない」
と ”診断” されたのである。

しかし、私はその20年も前から、ずっとそうやって生きてきていた。
すなわち、23歳の時、就職活動中にうつ病を発症することで私のひきこもり人生は始まっている。また、その背後には5歳の頃から病んでいた強迫性障害もあった。

うつ病は気分障害の一種として精神障害に含められているようである。強迫性障害はいうまでもない。
となると、私は精神障害を一次障害としてひきこもりが始まったことになり、先の定義によれば「社会的ひきこもりではない」ということになる。

 

では、私のうつ病と強迫性障害はどのように始まったのか。
すると、それらはそれまでの人生から来ている、といわざるを得ないのである。

詳しくは他の記事(*2)に書かせていただいたが、要するに私は母に、
「こいつ、生まれてきやがったな。生まれてきたからには自分を生きるな」
と言われながら育ったのに等しい。
母が私を「産んだ」というのは「生きろ」という意味である。しかし、それでいて「生きるな」と育てる。
この育て方を、私は虐待と呼んでいるわけである。

 

*2. 母の虐待を語る記事の例

www.hikipos.info

 

「生きるな」と育てられれば、生きられなくなるのは当然である。いや、当然よりも前に必然なのである。
「生きろ」「生きるな」という矛盾が私の人生の表面に噴き出してくるのは、あのような母から生まれてきた以上、どこかで必ず起こることであり時間の問題であった。

私には学校へ行かない自由すらなかったから、学校時代は不登校になることはなかった。いざ大学卒業という節目によって学校時代が終わり、大人になるという段になって、まるで「待ってました」といわんばかりに矛盾が人生の表面に噴き出した。

私はせっかくもらっていた企業からの正社員の内定を断ってひきこもり始めた。
もちろん、好んでやったことではない。できれば、いちど内定を受けてそれを断るというような、失礼で面倒なことはしたくなかった。けれど、ひきこもりが発動して始まってしまったのだから仕方がない。私にとってひきこもりは、学校を卒業してから始まった「遅すぎた不登校」であった。

しかし、もしあのまま内定先に就職し、社会的にふつうに働く人になっていたならば、私は一生、
「お母さん、虐待してくれてありがとう。おかげでこんなに立派な『ふつうの人』になれました」
と母に感謝しつづける人生になっていたことだろう。

それだけは嫌だった。
「死んでも嫌だ」という表現があるが、まさにそれがそのままあてはまる。
では、どうしたらよいか。

写真・ぼそっと池井多

3つの選択肢

まだ、すこぶる視野がせまかった23歳の私に考えられたのは、次の3つの選択肢だった。

選択肢①は、死んでしまうことである。
私は真剣に自殺の方法を考えた。もし自殺に失敗して後遺症でも残ったら、母に何と言って責められるかわかったものではない。だから、手がけるからには絶対に失敗は許されなかった。

ところが、どんなことでも完璧を目指すと前へ進めなくなるように、絶対に失敗しない方法を求めれば求めるほど自殺はできなくなっていった。

 

選択肢②は、母親が世間に顔向けができない人間になることである。

もし私が一流企業にでも勤める「ふつうの人」などになれば、母は、
「私がこの子を育てました」
と鼻を高くして、親類縁者や近所や昔の友人たちに自慢してまわるだろう。私は自分が褒められることなく、母が周囲から褒められるのに使われる道具となるだろう。
それは、あまりにも損ではないか。

「それだけは嫌だ」というのであれば、私が進むべき道は、ぜったい母が周囲に私のことを自慢できないような人間になることだった。そして、それには通り魔などの無差別殺傷事件でも起こしてやるのがいちばん良いと思われたのである(*3)
まさか母は、
「あの無差別殺傷事件は、私が育てた息子が起こしたのです」
などと自慢してまわることはないだろう。


しかし、この選択肢を採用すると、私は母の鼻っぱしを折るために、私の家族とは何の関係もない、罪のない一般市民の方々を犠牲にすることになる。それはちょっとまずいのではないか、ということで私のなかでこの案は却下された。

 

*3.. 今から思えば、無関係な人を傷つけることなく、立派な職業の一つではあるが私の母が世間に顔向けできなくなるような生き方というのは、考えれば他にもいろいろあった。たとえば風俗産業に従事すればよかったように思われる。筑波大附駒場という名門校を出てAV男優をやっている森林原人さんの人生など見ると、まさにそんなことを考えさせられる。しかし当時の私はあまりにも世界が狭く、頭も堅く、そういう領域を自分の人生として考えることができなかった。

 

選択肢③は、何もしない人である。
働かない、社会に貢献しない、何の役にも立たない、ただ生きているだけの、デクノボウのような人。死なないから生きているだけの無為徒食。これならば、母親は世間に顔向けができないとまでは行かなくても、せいぜい誰にも自慢できないだろう。
なぜなら、もし母が、私が社会的に何もしなくても私という息子の存在を自慢できるほど殊勝な人であったなら、そもそも私はこんな息子になっていないからである。

けっきょく私は、選択肢③をベースにし、そのうえに選択肢①を軽くトッピングして、その後の人生を生きていくことにしたらしい。
「したらしい」などと他人事のように語るのは、私はそれを意識の上で決定した覚えがないからである。すべては無意識が決めた流れに乗せられて、私は運ばれていっただけであった。

イスラエルのキブツに棲んでいた26歳の私。ルームメイトにとつぜんカメラを向けられ、まるで逃走中のテロリストのような格好に写った。背景はイスラエル国内のなかでも最もヨーロッパ的な一角であるエルサレム市ベニフダ通り。

そとこもりからガチこもりへ

さて、何もしない人になったはいいが、格好が悪いので外に出られない。自分の社会でひきこもっていると人目があるということで、海外へ逃げていくことにした。「そとこもり」である。

しかし、数ある外国のなかでも中近東やアフリカの地を目指したのは、選択肢①の「死んでしまう」という案を捨てきれないでいるからだった。
現在もイスラエルなどはそうだが、当時も中近東やアフリカは戦争が多く起こっていた。また、当時のアフリカでは人々が飢え、ガリガリに痩せた子どもたちがテレビのニュース画面に映し出されていた。

私は臆病で、どうも自分では死にきれないようなので、そういう所へ行って流れ弾にでも当たるか、飢餓に襲われて死んでしまうか、といった他律的な死に期待したのである。この世界に自分の足でしっかりと立って生きていく勇気がなかった私は、死さえも他力本願にしたのだった。

 

けれども、結果論としてそとこもりの最中に死ぬことはなく、何年か経って私は生きて日本に帰ってきた。私は30代になっていた。
いくつか仕事にも就いてみたが、しょせん23歳で私の人生の表面に噴出した問題が解決していたわけではないので、どれもこれもうまく行かず、やがて再び社会がいやになって、ガッツリとひきこもることになった。もう日本の外へ出ていくパワーはなくなっていたので、国内で「うちこもり」である。
ときどき深夜スーパーへ買い出しに行くだけで、あとはまったく家から出ない「ガチこもり」の日々であった(*4)

 

*4. 4年間に及ぶ「ガチこもり」状態から脱した時のことは、以下の記事に詳しく書かせていただいた。

www.hikipos.info

 

でも、これだけははっきり言える

このように私が「ひきこもり」になった経緯は複雑であり、とても一言では表せない。きっと、ひきこもりになった方は誰しもそうなのではないか。
しかし、そんな中でも一つだけ明快に一言で語れることもある。
それは、「ひきこもり」になろうと思って「ひきこもり」になったわけではない、ということだ。

私は意識的に社会から撤退した生き方を選びとったわけではなく、すべては無意識と環境に人生を決められていっただけであり、その姿がたまたま1990年代以降、日本をはじめ世界でさかんに「ひきこもり(hikikomori)」と呼ばれるようになった状態だった、というだけの話である。

また、いま私の述べたような思考が、ひきこもりになったばかりの23歳の私の口から語られることは不可能だった。これらはすべて当時の私の頭の中に断片のまま渦巻いていた、言葉にならなかった未分化な思念を、今の私が取り出して言葉に整理したものに過ぎないのである。


こう考えてくると、私は私であろうとするあまりうつ病になり、強迫になり、精神障害になり、「ひきこもり」になったのだ。
すると私の場合、たしかに精神障害は「ひきこもり」になるのに一次障害だったかもしれないが、それが一次障害であるという理由で私が社会的ひきこもりとは認められなくなるとしたら、いわゆる働く人たちで構成されている「社会」に出ていかなかった私の人生は、はたして何と呼ばれるのだろうか。


・・・ひきこもりの考古学 第10回へつづく

 

 

<筆者プロフィール>

ぼそっと池井多 中高年ひきこもり当事者。23歳よりひきこもり始め、「そとこもり」「うちこもり」など多様な形で断続的にひきこもり続け現在に到る。VOSOT(チームぼそっと)主宰。
ひきこもり当事者としてメディアなどに出た結果、一部の他の当事者たちから嫉みを買い、特定の人物の申立てにより2021年11月からVOSOT公式ブログの全記事が閲覧できなくされている。
著書に
世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現』(2020, 寿郎社)。

詳細情報 : https://lit.link/vosot
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