ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

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ひきこもりはほんとうに最近の日本で急増しているのか ― 問題の原点に立ち返る ー

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文・写真・ぼそっと池井多

 

 

日本語版のためのはしがき

ほとんどの場合、私はまず日本語で記事を書いてから外国語への翻訳を考える。しかし、この記事にかぎっては、はじめに英語で書いたものを日本語に訳することになった。そのため、日本語としてはややおかしな表現も出てくる。ご容赦いただきたい。

海外メディアの意図

とくに最近、海外メディアから質問されるとき、必ずといってよいほど訊かれるのが、この質問である。
「近年、日本でひきこもりが増加している原因を、あなたは何だと思いますか?」

これを訊きたいがために、かれら海外メディアははるばる高い航空運賃を払って、極東の国までやってくるのだろう。
しかし、たいてい私は、まずはこう切り返させていただく。
「ひきこもりは、ほんとうに日本で増加しているんですか?」

 

すると、さまざまな反応が返ってくる。

ある記者は、がっかりした顔を見せる。「お前はそんなことも知らないのか」と言いたげである。

また、ある記者は、半ば怒った顔で反駁する。「だって、今年3月のあなた方の政府の調査結果で、ああいう数字が出てきたでしょう」


私は答える。

「ああいう調査結果が出たからといって、それだけで近年、日本でひきこもりが増加しているとはまったく言えませんよね。」

すると、狐につままれたようにキョトンとする記者もいれば、ここでもまた、心底がっかりしたような表情を浮かべる記者もいる。

がっかりする理由は、おそらくこういうことだろう。
「近年、日本でひきこもりが増加している、と聞いたから、私は取材にやってきた。そういう前提がないと、いま作ろうとしている報道が成立しない」


もし、世界に200か国近くある国々のなかで、とりわけ日本でひきこもりが増えているという事実があるならば、それは日本社会という環境の中に何かひきこもりを生み出すような、独自で病的な機構があると考えることができよう。
すると、そこで

 

日本社会の悪弊

 

というテーマでりっぱな報道が一本作れるのである。
報道作品は提出しなければならない、となれば、何かひきこもりを生み出す悪弊が日本に存在しなければならない、となれば、ひきこもりはまさに日本で近年増加していなければならないのである!

しかし、彼らメディア人はそんな手の内を明かすわけがない。だいたい、シナリオが最初から決まって取材しているなどということは、ほんとうにそうであればあるほど、メディア人としては口が裂けても表に語れないものだと思う。

日本は特殊か

 「ひきこもりは、ほんとうに日本で増加しているんですか?」

と、切り返す私の意図はこうである。

まず、私はGHO(*1)を通じて毎日のように世界のひきこもりとやりとりをしている。


彼らの住む国は、サッカーとひきこもりにおいてヨーロッパの強豪として名高いフランス・イタリア・スペインだけではない。西洋・東洋を問わず、先進国・発展途上国を問わず、キリスト教圏・イスラム教圏を問わず、文字通りひきこもりは世界中からコンタクトしてくる。

これほど「ひきこもり」という現象が世界的なものなのに、何をいまさら、
「なぜ日本では近年、ひきこもりが増えているのか」
という質問を設定する必要があるのだろうか。

そこで「日本で」というのが、どうも「日本だけで」もしくは「日本ではとくに」というニュアンスに聞こえるのだ。

なにやら日本という国が特殊で、世界の中で日本だけでひきこもりが増えているかのような印象に、最終的にかれらの読者や視聴者を誘導していくためのインタビューの質問を、私に対しても向けているように感じるのである。

 

私が抱く違和感はそこに留まらない。

日本だけにせよ、日本だけでないにせよ、はたしてひきこもりはほんとうに近年「増えている」のか。


そこで私はそういうメディア人たちに逆に質問する。

「なぜ近年、日本でひきこもりが増えている、とあなたは思うのですか」

すると、もれなく彼らは、今年3月の内閣府による調査結果を挙げるのである。

「だって、あなたがたの国の政府がそういう数字を出したではないですか」と。

そこで私は言う。
「日本の全国的な公的機関が、40歳以上のひきこもりの数をはじき出したのは、今回が初めてでした。比較対象となるような、過去における40歳以上のひきこもりの数のデータがないのに、なぜあなたは『増えている』と断言できるのでしょうか」

すると、たいてい彼らは答えられない。

 

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統計結果がもたらす「印象」

私は考える。

3月に内閣府から発表された、全国で推計115万人という数字は、はじめて公的機関によってはじき出された、

 

ひきこもりであると認定された人の数

 

にすぎない。
まだ、認定されていない暗数も多く存在すると思われる。


さらに、児童虐待の件数と同じで、近年になって「増えてきた」のではなく、「認定される数が増えてきた」ということにすぎないのである。

ひきこもりは昔からいた。

たとえば私自身は1980年代からひきこもりであった。
それ以前にしても、たとえば1960年代では、多くの若者が「学園紛争」や「革命運動」と呼んでいた、こんにちでいう「そとこもり」をやっていた。革命のための潜伏と称して、山の中にこもっていた若者たちもいた。
しかし、そのころは今日つかっている「ひきこもり」という語はなかったし、彼らのひきこもりを都合よく社会化してくれる政治的イデオロギーも普及していたので、政府によるひきこもりの調査もされなかったのだ。

また今回、日本の政府からあのような数字が発表されたのは、日本だけにひきこもりが多いという事実を示しているのではなく、むしろひきこもりのように「見えない人口」に対して調査をおこなうという点において日本は先駆者であり、他の国々はまだそこまで手が及んでいない、ということを語っている。

他の国々が国内のひきこもりの数を発表しないのは、彼らの国の中にひきこもりがいないからではなく、調査する方法や機会を持っていないからだと思われるのである。

たしかに、今回の日本政府の調査方法は十分であるとはいえず、すべての対象者を数え上げられたわけではないだろうが、しかし、まだ何もやらない他国よりはましである。

あのような数字が日本で出てきたのは、国際的にみて、日本という社会がとりわけ悪いから、という事実を物語るものではないだろう。

いま私が語っている外国のメディア人たちには、まず日本の社会や行政を批判する記事や報道を作成したいという目的が根柢にあり、そのために3月に日本政府から発表されたひきこもりの数を材料として利用するという戦略がうかがわれた。そこが、私が彼らにむかついている理由である。

私はべつにウヨクでも愛国主義者でもないが、不当な根拠をもとに何かを叩く人々には強い違和感を感じるというだけである。彼らの矛先が日本でない国であっても、話は同じである。

 

インターネットがもたらしたもの

さて、そういう前提を踏まえたうえで、なおも「近年、ひきこもりが増加している」と彼ら海外メディアが主張し、そのことを立証できるのであれば、なんら問題はない。ほんとうに増加している可能性もあるからである。

たとえば、1990年代におけるインターネットの出現は、人がひきこもりとして生きていくことを容易にした。
まだインターネットが普及していなかった1980年代、若かったころの私のようなひきこもりは、部屋のなかにおける孤立の状態が、もっと絶対的であったのだ。
それが1990年代以降は、ひきこもり部屋の中に留まり誰とも会わなくても、インターネットによって多くの人間的接触と情報を得ながら、毎日を生きていけるようになったのである。


イタリアでは、
「ひきこもりは、インターネットが生み出している」
と考える親たちが、子どものパソコンなどの電源プラグを引っこ抜いてしまうことが問題となっている。
そういう親たちに、私は、
「インターネットがひきこもりを生み出したわけではない。
インターネットが出てくる前からひきこもりであった私はその生き証人だ」
と言ってやりたい。
しかし、インターネットがひきこもりの生活をより便利に、より快適に続けやすくしたことは確かだと思う。インターネットができたために、ひきこもりから抜け出さなくなっているひきこもりは、もしかしたらいるかもしれない。そういうひきこもり層が、ひきこもり全体の増加に貢献している可能性も考えられる。

そうかといって、親が勝手に子どもの電源を抜くというのは、ひきこもり当事者である私からすれば、許しがたい人権侵害であることには変わりはないのだが。

 

海外のひきこもりは文化模倣か?

「はたしてひきこもりは、もともと日本の現象なのか」という問いについても、さまざまな角度からの考察が可能である。


1980年代にひきこもりになったころ、私はどのように社会人として生きていってよいかわからず、あれこれと必死の模索を積み重ね、けっきょく今日「ひきこもり」と呼ばれる生活形態におちついていった。私は、本はたしょう読んだが、マンガは読まなかったし、アニメも観なかった。私のようなパターンでひきこもりになっていった例は、中世の隠遁者をはじめ過去にたくさんあっただろうと想像する。

一方では、こんにち私がやりとりしている海外の多くのひきこもりたちは、日本のアニメ文化の熱烈な信奉者であり、いわゆるオタク系である。

彼らはたいがい共通して「N.H.K.へようこそ」というアニメ作品をこよなく愛し、日本のサブカルチャーに大きな憧れを持っている。彼らが熱を帯びて語る日本は、私の耳には、その一部はただの幻想であるように聞こえるけれど。

耳をかたむけていると、彼らの多くは日本の生活習慣を部分的に輸入し、アニメ作品に描かれている世界を無意識に模倣してひきこもりの生活を始めたようにも聞こえるのである。もしそうであるなら、それは私がひきこもりになっていったのと、プロセスがちがうと言わなくてはならない。

もし海外の若いひきこもりたちが営んでいる生活様式が、ほんとうに日本のサブカルチャーから輸入され模倣されたものを基盤としているのなら、やはり私たちは「ひきこもりは日本起源だ」といえるだろう。
だが、その場合は、「もし日本のサブカルチャーが海外へ伝播しなかったら、彼らはみんな今日ひきこもりになっていなかったのだろうか」という疑問が残る。

海外のひきこもりが「NHKへようこそ」という作品に出会う前から、その作品に描かれているような、うつ状態と低い自己評価と外界への恐怖の生活を生きていたとしたら、それは模倣ではなく、作品に描かれたことは世界的に起こっているのであり、彼らは日本の作品に自分を見つけたのに過ぎないのであって、それは文化模倣ではないということになるだろう。 

海外のメディア人たちが、そこまでいろいろ調べて、「ひきこもりは日本起源の現象である」というのであれば、それは意味のあることだと思う。

けれども、そこまで手を伸ばすこともなく、ただ「ひきこもりは日本起源の現象。そしてひきこもりは日本で増加している」などと主張しているのであれば、私は彼らの勉強不足を指摘せざるをえず、彼らがひきこもりを素材として日本社会批判の報道をつくりあげる資格などない、と断じなければならない。

的外れなことを聞いてくる彼らに時間を割いて、インタビューに答える気はない。
ひきこもりは、忙しいのだ。

 (了)

・・・この記事の英語版

筆者プロフィール >
ぼそっと池井多 :まだ「ひきこもり」という語が社会に存在しなかった1980年代からひきこもり始め、以後ひきこもりの形態を変えながら断続的に30余年ひきこもっている。当事者の生の声を当事者たちの手で社会へ発信する「VOSOTぼそっとプロジェクト」主宰。
facebookvosot.ikeida
twitter:  @vosot_just

 

 <参考記事>

ひきこもり概念の拡大 前篇

www.hikipos.info

 

 当事者発信の不可能性:できないことをやっている私たち

www.hikipos.info

 練馬ひきこもり長男殺害事件に想う

www.hikipos.info