文・写真 ぼそっと池井多
「原因は社会」と言った方が…
いわゆる「専門家」によって、
「ひきこもりの原因は社会である」
と論じられることが多い。
しかし、ひきこもりの事例は多様であり、一人の当事者として思うのだが、私のひきこもりの原因は家族、もしくは親子の問題であると言わざるをえない。
私も若い頃は、自分のひきこもりを社会の問題だと思っていた。そう考えたかった。なにやら、その方が格好がよくてサマになり、自分が負う責任も軽くて済みそうだったからである。
社会の問題ということにすれば、雇用情勢、労働市場などさまざまな領域から統計データなどを持ってきて、もっともらしい理屈を組み立てることができる。そんなことをやっていると、いかにもインテリっぽく見える。それで、少しは女の子にモテるかもしれない。……そういう下心から、私も昔はさかんに精緻な空論を作り上げることで、いっぱしに社会評論をしている気分になっていたものだ。
しかし齢を重ねるとともに、物事の本質が見えてくると、どうもそれではむなしくなってきた。「社会がわるい」といったところで、私の問題の何が解決していくわけでもない。
「体裁ばかり整えても仕方がない」と思うと、見栄の角(かど)が取れていき、やはり「社会の問題などではない。親の虐待が原因であった」と認めるようになってきたのである。
ひきこもりは多様であるから、社会が原因でひきこもりになった人もいるだろう。幼くして学校制度の虚妄を見抜くほど早熟で、不登校からひきこもりになった人や、中高年になってリストラされ、ハローワークに日参しても次の職が得られずひきこもっている人など、「自分のひきこもりは社会が原因」と断言できる当事者もたくさんおられると思う。私はそういう人たちの原因論を否定するものではない。
悲しいかな、自分の場合は学校に行くのをやめてしまえるような輝かしい才能はなかったし、ハローワークといった殺伐たる場所へ行くだけの冒険心もなかったので、そういう当事者たちとはやはり原因を異にするのである。
むろん虐待する親の背景には社会がある。社会がそういう親を作ってきた側面もあるだろう。だが、親が逆に社会を利用して子どもを支配してきた部分もある。なので、親と社会は相互に再帰的・循環的に連関し合っていると言わなくてはならない。
となれば、なおさら一方を切り捨て「ひきこもりの原因は社会」などと断言している専門家は怪しい存在である。
おそらく自分の支持基盤であるひきこもりの親御さんたちの機嫌をそこねまいと、けんめいにそういう言説をひねりだしているのだろうと思われる。
家庭という戦場から帰還して大人になった
見方を変えれば、私のひきこもりとは児童虐待を受けた後遺症である。
「児童虐待」というと、殴ったり蹴ったりご飯を食べさせなかったりといった、きわめてフィジカルで凄惨な光景を思いうかべ、
「私の家には、そんなものはなかった」
などという人が多いのだが、そういう人は精神的・心理的虐待をふくめて「児童虐待」であることを忘れていたりする。
たとえば私は母親から、
「言うことを聞かないんだったら、お母さん、死んでやるからね」
という脅迫を日常的に受けて子ども時代を生きていた。その結果、長らく強迫性障害を病むことになった。
また、
「これでふつうに働く大人になったら、虐待した母親を追認することになる」
と無意識が選択してひきこもりになった。
児童虐待を受けている現場としての家庭は、子どもにとって戦場である。毎日が戦場だったのである。
じっさいに社会でいう歴史的な意味での戦争に駆り出されて、ガダルカナル島だのミンダナオ島だの苛烈な戦地で傷病を負った兵士たちは、戦後、故郷へ帰還してからは傷病手当や戦傷病恩給などをもらって、市民社会の一部となって生きていくことができた。
ところが、戦場が国内の、しかも周囲からは家の壁に阻まれ見えない家庭の中であったりすると、いくらそこでPTSD(心的外傷後ストレス障害)などの傷病を負っても、のちに傷病手当は出ない。市民社会の一部になるかわりに「ごくつぶし」「税金泥棒」「働かざる者喰うべからず」などと罵られて社会の片隅へ追い詰められることになるのだ。これほどの不条理があろうか。
被害者に回りこまない「尊厳ある被害者」
さらに、私のような者は児童虐待を受けたことすら言い出しにくい空気がある。
「大の男が、親のせいにして、被害者に回りこんで、恥ずかしくないのかね」
などと言われるのだ。
そう言われて小さくなってしまうのは、私の弱さでもあるが、社会の問題でもある。
「大の男が…」はジェンダー認識の歪みであり、「恥ずかしくないのかね」は恥の概念の乱用である。そのへんは長くなるから、いまは棚上げにしよう。ここで考えたいのは、「児童虐待を受けた」という表明は、はたして「親のせいにしている」のか、そして「被害者に回りこんでいる」ということなのか、という点である。
まず「…せいにしている」と「…原因である」はちがう。前者はそこにすべての責任を感情的に押しつけているのに対し、後者には冷静に状況を分析する理性がある。
なるほど、何か自分が失敗をやらかすたびに、「自分はいじめられたので」「自分は虐待されたので」などと過去の被害歴を言い訳として持ち出し、それをもって責任をのがれようとする者もいる。そういう態度はとかく「被害者に回りこむ」などと表現されやすい。
私は現在やらかす失敗の言い訳として「いじめられたから」「虐待されたから」というつもりはない。いじめられようが、虐待されようが、つまるところ私が現在やっていることには、現在の私に責任があると思う。
しかし、だからといって、過去の被害歴がなくなるわけではない。だから私は過去は過去として言明する権利を持つ。「自分はいじめられた」「自分は虐待された」は、そのような前提の上で発せられる言葉である。
そういう言葉を発せられる存在を、私は「尊厳ある被害者 (victim with dignity)」と呼んでいる。
ひきこもりは一つの「獲得した」生き方
そういうことを踏まえてくりかえすと、私はいじめも児童虐待も受けた。そして、それが私のひきこもりの最大の生成原因であることに、もはや疑いを入れない。
けれども、ひきこもりとして生きることは人生の失敗だと思っていないから、それを言い訳する必要も生じない。ひきこもりは私にとって、与えられた数々の不利な条件のなかで死んでしまうことなく生き延びるために、ほとんど無意識的に格闘して獲得した生き方である。
そのような私が開いている当事者会には、同じような経緯でひきこもりになっている当事者の方がたくさんいらっしゃる。そういう人々と語らっていると、つくづく「ひきこもりの原因は社会だなんて言えないよ」と思う。原因として、親と社会が複雑に連関し合っている。私たちだけが、日本のひきこもり当事者のなかで特殊な集合だとも思えない。
新しい支援の向かう先
今年3月、内閣府より高齢化したひきこもりの調査結果が発表され、4月には厚生労働大臣自らがひきこもり支援の強化を号令した。それを受けて、いまは官民一体となって新しいひきこもり支援の在り方を考えようとしている。
私が述べていることは、このような昨今においては特に重要である。なぜならば、原因が社会であるか、家族であるかによって、手のつけ方が変わってくるからである。
たとえば、もし30年、いや20年前に現在のような情勢があり、行政が、
「あなたのひきこもり状態をなんとかするために、あなたの望む支援をおこないますから、何でも言ってください」
などと言ってきていたなら、私は何と答えたであろうか。きっと、家族問題に介入し、ちゃんと母親を謝らせることを、行政による支援として試しに希望したかもしれない。
もしも行政のお墨付きで母親が過去の虐待を認め、私に謝ったとなれば、何の職業訓練など受けなくても、私は世間並みに働く人になっていた可能性が大きい。なぜならば、私が働けなかったのは職能スキルの不足というよりも、私の精神のかたちの問題、いわば力動的(*1)な問題であったからだ。
*1. 力動的な問題
「力動(りきどう)」とは、主に精神分析で用いる語。人の世界観や行動の選択、認知の方法など、すべての心の動きを、生物的・心理的・社会的な力のぶつかりあいから生まれてくる結果ととらえる精神医学の考え方のこと。力動精神医学、または精神力動学 (dynamic psychiatry) などという。
私はどんな職能スキルも持っていた、などと傲慢なことを言うつもりはない。しかし不足している職能スキルは、べつに働き始めてから身につけてもよいのである。
ところが、働き始めるにはモチベーションがいる。働き続けるにもモチベーションがいる。そのモチベーションが抱けないことがネックなのだ。モチベーションを抱けない精神のかたちを持って生きているのである。
「あれだけ親に虐待されて、いまさら親の望み通りに、世間並みの苦難に堪えて、おとなしく働いてなんかいられるかっ! ふざけんなっ。オレの人生、何だと思ってやがるんだ」
とでもいうような毒ガスが心の奥に充満していて、ともすれば爆発しそうだから働けないのである。
「爆発しそう」などというと、ひきこもりと無縁な一般市民の方は、きっと活性化した元気な状態を想像するかもしれないが、「爆発してはいけない」という自制心とセットで埋め込まれているから、じっさいには無力やうつといった状態で表にあらわれる。地雷が埋まっている砂漠の表面のようなものである。
本人が「親が問題だ」といっているのに、あくまでも「社会が問題だ」という前提で新しいひきこもり支援を組み立てようとするのであれば、まさしくこれはお門違いというものであり、いつまで経ってもうまく行くわけがない。
「新しい支援」だの「社会制度の改革」だのと言っているが、最近の動向は要するに、以前にひきこもりを賃金労働者へ仕立てあげようとかけていた圧力を、「もっとソフトに、段階的に、多様な手段でかける」という変化にすぎないような気がする。それでは根本的に今までと同じだろう。
たんに就労支援のバリエーションではない支援、すなわち居場所の役割を担う空間やイベントの拡充や、すでに存在している当事者活動の後方支援などに、これからのひきこもり支援の重点は移っていっていただきたいものである。
当事者が専門家を食べさせる
「ひきこもりの原因は社会」
と切って捨てる専門家の先生方は、私のようなひきこもり当事者の存在をどのように思っているのだろうか。それとも、私たちはいないことにしているのだろうか。
ひきこもりを論じる専門家というと、その多くがなにがしかの角度から日本の社会を論じることで生計を立てている。
そういう人たちは、何が何でもひきこもりの原因は社会にあることにしないと、論説を成り立たせられないし、原稿や講演の依頼もやってこない。つまり、「社会がわるい」のでないとメシが喰えないのである。
しかし、そのために問題の核心が逸らされてしまうと、「そういうことではない」と主張しているひきこもり当事者にとっては、自分たちのほんとうの問題を発信していく環境がいつまでも社会的に整わないため、よい迷惑なのである。
つまりはここに、専門家を養うために当事者が犠牲になっている、という構図が生まれている、といってよいのではないか。
(了)
※ 写真はイメージです。
< 筆者プロフィール >
ぼそっと池井多 :まだ「ひきこもり」という語が社会に存在しなかった1980年代からひきこもり始め、以後ひきこもりの形態を変えながら断続的に30余年ひきこもっている。当事者の生の声を当事者たちの手で社会へ発信する「VOSOT(ぼそっとプロジェクト)」主宰。
facebook: vosot.ikeida
twitter: @vosot_just
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