ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

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ひきこもりがアニメを見続ける生活を5年過ごしてみて、感じたこと

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(文・南 しらせ)

前日の夜に録画しておいたアニメを、朝起きてから見る。そんな生活を断続的に5年ほど続けている。世間一般のひきこもりのイメージ像をそのまま反映した、典型的なひきこもりみたいだなとも思われるかもしれない。それでも構わないと、私個人は思っている。

私のアニメ自転車生活

私にとってアニメを見ることは、自転車に乗り続けるようなものだ。自転車はペダルをこぎ続けなければ、地面に倒れてしまう。私はひきこもり始めてから、アニメという自転車から一度振り落とされると、自分がこの世界から消えてしまうのではないかとずっと不安に思っていた。

アニメを見る時、私の右目は目の前のTVに流れる映像をぼんやりと追いかけている。内容はほとんど頭に入らず、結局リモコンで何度も巻き戻して同じ映像を繰り返すことになる。そして私の左目は、住み慣れた自室で平日の朝から、もうずっとひとり部屋で、アニメばかりを見ている男の姿を、じっと見つめている。

くたくたの部屋着で髪はぼさぼさ。無精ひげを生やし、猫背になってTVを見つめている男。それはほかでもない私自身だった。「こんな状態でアニメを見ても全然楽しくない。むしろ気持ちは苦しくなるのに、私は何をやっているのだろう」と何百回も思った。

けれどそれでも私はアニメを見るしか生きる方法が分からなくて、ずっとアニメにしがみついていた。

生きるために見るアニメ

ひきこもった当初の私にとってアニメを見ることは、自宅でひとり膨大な時間を過ごすための、ただの時間つぶしだった。しかしひきこもり生活が何年も続くにしたがって、それは自分の精神の安定を保つための儀式のような行為になった。

私はもともとインドア派の人間で、学生時代も休日はほとんど家で過ごしていた。しかしひきこもりになって何年間もほぼ毎日家の中で過ごすというのは、学生時代とは全く違う次元の生活であり、ときに精神が発狂するくらい過酷なものであると私は感じている。

たとえ昨日と明日が入れ替わっていたとしても、どっちがどっちなのか気付かないくらい、ほとんど変わり映えのしない毎日。そんな生活では、何かはっきりと時間の流れを確認できる碑石のようなものが私には必要だった。「私は生きているのだ」という確認がしたかったのだ。

このアニメが放送されるのは毎週火曜日。つまり今日は火曜日だ。先週から1週間が経った火曜日だ。そして火曜日という「今日」を、私は生きている。そんな当たり前の事実を毎日確認するためだけに、私はアニメを見続けた。

私は以前、ひきポスのプロフィール欄に「アニメが好き」と書いた。私のペンネームも、とあるアニメからとったものだ。だから私はアニメが嫌いではない。けれど本当は好きでもない。好き嫌いとかそういう話ではなく、ただ生きていくために私はアニメを見ていた。

潮時

ひきこもってから約5年。その間3か月に1度のペースで番組が変わり、その度に大量の新作アニメが放送された。そのサイクルに必死にくらいつき、毎クール何本もの作品を録画して、それらをただ見続けるアニメ自転車生活に、私はとうに飽きていた。

この秋の新番組から、私はアニメを1本も見ないことにした。その結果、日付や曜日はカレンダーを見れば、普通に確認できることが分かった。そしてアニメを見ない分の時間が空き、必然的にそれ以外のことに時間が使えることも分かった。何より必死に自転車をこぐのをやめても、私はどこかに消えたりしなかった。

私はこのアニメ自転車生活にようやく飽きることができた自分に、そしてそれを実行できた自分に安堵した。私の左目が映していた現実にやっと追いついて、少しだけ追い越せた気がした。

この原稿を書くまで、5年かかった。原稿を書き終えた後、この5年間をあらためて振り返り、それでも私にはこの時間が必要だったのだろうと思った。この時間がなければ、いけなかったのだ。それでもやっぱり長かったなと、思った。

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執筆者 南 しらせ

自閉スペクトラム症などが原因で、子ども時代から人間関係に難しさを感じ、中学校ではいじめや不登校を経験。現在ひきこもり歴5年目の当事者。