(文・南 しらせ)
「新型コロナウイルスの影響で、東京オリンピック・パラリンピックが1年延期」
そのニュースが飛び込んできた時の私の心境は複雑だった。残念。選手たちがかわいそう。仕方ない。しかしその中で一番強く心に渦巻いていた感情。それは安堵の気持ちだった。
4年に一度の恒例行事
4年に一度行われるスポーツの祭典、オリンピック・パラリンピック。それはひきこもりにとって、自分が家にいる間に、4年という時間が確実に経過したことを否が応でも認識しなければならない、大変耐えがたい瞬間である。
この大会のために人生を懸け、日夜常人には耐えがたい鍛錬を積み、挫折や高い壁を乗り越えながら、目標に向かって歩みを進めてきたアスリートたち。
かたや将来の具体的な目標も見つけられず、毎日家でダラダラとアニメを見ながら、何をするでもなく貴重な時間を潰し、長いひきこもり生活を続けている私。
同じ時代に生まれ、同じ時間を過ごしてきた人間であるのに(もちろん本人の特性や能力、家庭環境など違う点も多くあるが)、結果だけ見れば、かたやアスリート。かたやひきこもりである。
「オリンピックで同年代が輝く姿を見て、劣等感を感じずにすんだ」そういう現実が一年先送りされた。だから私は多分、安堵したのだ。
何もなかった私の青春時代
私は幼少の頃から、10代、そして20代後半の現在まで、何かに熱中したり、一生懸命になって取り組んだ経験がない。その大きなきっかけは中3の時にいじめに耐えられず、不登校になったことだった。そこで感じた無力感や絶望感が、その後の私の心を完全にへし折った。
高校・大学に進学しても、「学校に通うだけで精いっぱい」という状態から抜け出せなかった。勉強もできず、部活動もせず、他に熱中できることを見つける気力も余裕もなかった。友達も恋人もおらず、夢も目標もない。そんな青春時代だった。
そして20代からはひきこもり生活を続け、多くの時間を家で過ごしている。何かしないといけないことは、分かっている。しかし今さら努力することが、何かを積み重なることが、どうしようもなく怖い。自分なりに努力して、うまくいかなかった時のことを考えると、はじめから何もしない方がましだと、つい考えてしまう。
私には本来この年齢になるまでに人間として備えていなければいけなかった、人間として当たり前の感覚や人生経験が、まったく積み重ねられていない。不登校になった中3の春から心の成長がずっと止まっていて、体だけが年を取っている感じだ。
頑張るって、何なんだ。なぜ私はそんな当たり前のことができないのか、分からないのか。そんな自分がたまらなく嫌で、悔しい。
オリンピックが延期になっても、苦しさは変わらない
オリンピック延期の決定に対し、アスリートの反応は様々だった。前向きな捉え方をする選手もいれば、やるせなさや戸惑いの気持ちを口にする選手もいた。私からすればそのどれもが、彼らが懸命に競技に打ち込んできたことの何よりの証であるように思えた。そんな彼らの姿が、言葉が、私にはとても眩しく映った。
オリンピックの延期に一度は安堵した私だったが、結局のところ今年大会が開催されても、されなくても、私の苦しさそのものが変わるわけではないのだなと、ふと我に返った。大会は延期となったが、アスリートがこれまで積み重ねてきた努力は消えないし、なくならない。私の経験不足の苦しみは、彼らのせいではない。どこまでいっても、私自身の問題なのだ。
そう思うと、無性に、なにか、私も積み重ねたいなと思った。オリンピック出場とか、そんなたいそうなことはできない。ただなんでもいいので、何か、今からでもまだ間に合うのであれば、何かを積み重ねていきたいなと思った。
とはいえ具体的に何を積み重ねればいいのかは、まだ分からない。来年オリンピックが開催されるのかも、まだ分からない。分からないということは、不安だし、怖い。私が何か積み重ねたいという気持ちも、風船の空気が抜けるみたいに、すぐしぼんでしまうのかもしれない。
ただこの瞬間、自分が何かを積み重ねたいと感じたことだけは、忘れなくないなと思った。
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執筆者 南 しらせ
ひきこもり歴5年目の当事者。学生時代から人間関係に難しさを感じ、中学校ではいじめや不登校を経験。アニメ・声優オタク。好きなアニメは「宇宙よりも遠い場所」。ペンネームの由来もこの作品から。