「ふつうの人」って何だ問題
私はずっと、「ふつうの人」になりたかった。私は小学校からの「不登校」で、十代は「ひきこもり」。親とまともな会話ができない「アダルトチルドレン」でもあれば、おまけにセクシャリティが「ゲイ」でもある。家のことでも学校のことでも、人とは違うところがあった。自分の異常さに悩みながら、もっとふつうの人になりたいと思ってきた。
ただ、少し立ち止まって考えてみたことがある。……いったい「ふつう」って何か?辞書を引いてみると、「ありふれたもの」とか「一般的」といった定義が出ている。辞書の代表格である「広辞苑」にも、『①ひろく一般に通じること。②どこにでも見受けるようなものであること。』とある。
ふつうの人=ありふれた人 ?
「ひきこもり」は一般社会でありふれたものとはいえない。なのでふつうではないということになる。けれど、「ひきこもり」当事者向けの居場所や、支援をしているところにいけば、「ひきこもり」はありふれている。その場であれば、「ひきこもり」もふつうのことだといえるだろう。
私が「ふつうの人」でいたければ、「ひきこもり」(で、さらに「アダルトチルドレン」で「ゲイ」)の人が集まっているところにいけば、望みは叶うことになる。
それならそれでおしまいかというと、違う。私がなりたいと思ってきた「ふつうの人」は、学校とか会社とかにいる、まっとうな社会人というイメージだ。
「ふつうの人」になりたいという場合、いったいどうしたらいいのだろう?住んでいるところによって「ふつう」も変わるし、貧乏人と大金持ちの「ふつう」も違うだろう。何を目指したらいいのだろうか。
ふつうの人=平均的な人 ?
変わったところがなければふつうになる。ということは、すべてにおいて平均的な人間でいられたら、「ふつうの人」になれるだろうか?
たとえば、収入の多さは社会人としての指標になるだろう。私は30代の男性なので、年収のデータであてはまるものを見てみる。すると……
平均年収……324万円※1
これくらいの年収でなければふつうでないことになる。私はまったく足りていない。たとえアルバイトを始めたとしても、こんな金額稼げそうにない。
もっとも、大勢の人が年収200万円であっても、年収1億円という人が一人いるだけで、平均はいっぺんに変わってしまう。平均の数字が、中間をあらわしているとはいえない。
将来の家庭生活も大事なところだが、結婚についてはどうだろう?
男性の平均初婚年齢……31.1歳※2
一人の女性が生む子供の数……1.43人※3
つまり完璧に平均的な人でいるためには、31.1歳の時に結婚し、生涯で1.43人の子どもをつくる必要がある。どうすればいいというのか?
ふつうの人=あるべき姿でいる人
平均の数字を見ても、頼りにならないらしい。
ここで、C・ダグラス・ラミス著『普通の国になりましょう』(大月書店 2007年)を参考にする。この本では、「ふつう」とは「あるべき姿」のことではないかと書かれている。
なるほどと思う。「ふつう」とは、周囲から望まれるような良い状態のことなのかもしれない。私が考えたことのある「あるべき姿」を挙げるなら……
・健康な体ですこやかに育つこと。
・学校へ行って友達をつくること。
・就職して毎日ちゃんと働くこと。
・異性と恋愛し、結婚をして家庭を築くこと。
これだけそろえば、私のなりたかった「ふつうの人」という気がする。「不登校」も「ひきこもり」も「ゲイ」もあてはまらない。「ふつう」というと簡単なことのように思えるけれど、実はあてはまるのが相当に難しそうだ。「ふつうの人」というのは、社会的にはほとんど「理想の人」なのかもしれない。
ふつうの人=わかりやすい状態でいる人
もう一つ、個人的に思う「ふつう」の定義がある。それは「わかりやすいこと」だ。
泉谷閑示著『「普通がいい」という病』(講談社 2006年)には、ある母親が登場する。母親は息子の言動に悩んでおり、以下の発言をする。
『私は、何でもいいから普通に、みんなと足並みを揃えて欲しいって思って育ててきた。普通じゃないと他人に説明できないから、ただ分かりやすい人になって欲しいという気持ちだった』
本の中でははっきり書かれていないけれど、私はこれこそ「ふつう」の定義だと思う。世間的にわかりやすく、説明不要な状態でいることこそ、「ふつう」の本質ではないだろうか。
「ふつうにおいしい」とか「ふつうに凄い」といった今風の表現も、「凄さがわかりやすい」、「多くを語る必要がない」という意味が入っていそうだ。
「ひきこもり」経験者の場合、一般的な会社などでは「変わった人」になる。けれど当事者向けの集まりなら、その場ではふつうの存在になるといっていい。それも、周囲の人たちが「ひきこもり」をわかるものとしてとらえているためではないだろうか。
物事に「理解がある」こととは、相手をふつうにさせる力のことなのかもしれない。
「ゲイ」のことにしても、病人や犯罪者としてあつかわれてきた歴史がある。けれど、現代では「LGBT」の一つとして、ふつうの存在に近づいてきた。それも世の中の理解がゆっくりと進んできたおかげだ。「ふつう」は変わっていく。外国人や障碍者といったマイノリティも、わかりづらいと思われれば、ふつうとはみなされない。けれど周囲の人があたりまえの相手だと思えば、「ふつう化」していくのだろう。
「ふつう」は自分のあり方で決まるのではなく、周囲の人びとの理解の仕方によって決まるもののようだ。
(それは、私自身が他の誰かの「ふつう」を作っているということでもある。)
ふつうの人=多くを語る必要がない人
……ということは、私一人ががんばったところで、「ふつうの人」になれるとも限らない。たとえ私がこれから会社員になっても、過去に「ひきこもり」だったことを言われたり、周囲の人からおかしいと思われたりしたら、「ふつうの人」ではいられなくなる。仮に仕事だけをバリバリやって、まわりとコミュニケーションをとらないでいても、やはり「ふつうの人」にはなれないだろう。「コミュ障」とか「アスペ」とかという言葉で、相手は理解することをストップするかもしれない。(これらの言葉は、世の中のふつうが減っていることを表しているように思う。)
私が「ふつうの人」になりたいと思ったのには、理由がある。「ふつう」でいられたら、自分の状態を説明しなくてもよくなるためだ。
私は「不登校」として、原因を聞かれて、あれこれ説明せねばならないことが多かった。もし学校へ行っていたなら、わざわざ「通学者」でいる原因を探る必要はない。
「ゲイ」のことにしても、もし異性が好きだったなら、わざわざ「自分はヘテロセクシャル(異性愛者)だ」なんて考えなくていい。「いつから異性が好きになったのか」なんて悩み方はしなかっただろう。
「ふつうの人」でいられたら、自分のことを語らなくてすむ。親や教師からきつく問いただされて、無理やり言葉を求められることもない。私にはそれがうらやましかった。
自分とは違う人たちのことを知っていくのには、面倒くさいことも多い。私は、「在日コリアン」や「被差別部落」についての情報を、複雑に感じることがある。けれど別のある人にとっては、「ひきこもり」や「LGBT」のことがわかりづらく、ふつうではないと思えるだろう。
それでも少しずつ理解を進めて、「ふつう」が広まっていくなら、知っていくことには意義がある。世の中には一つだけの大きな「ふつう」があるのではなく、人それぞれのたくさんの「ふつう」がある、という見方に変わっていくかもしれない。自分の言葉を発信し、相手の声を聴いていくことも、世の中の「ふつう」のあり方を小さく動かしていくことではないかと思う。
※1 厚生労働省 賃金構造基本統計調査 平成29年
※2 厚生労働省 人口動態統計の年間推計 平成30年
※3 厚生労働省 人口動態調査 平成29年
執筆者 喜久井ヤシン(きくい やしん)
1987年東京生まれ。8歳頃から学校へ行かなくなり、中学の三年間は同世代との交流をせずに過ごした。20代半ばまで、断続的な「ひきこもり」状態を経験。『ひきポス』では当事者手記の他に、カルチャー関連の記事も執筆。個人ブログ http://kikui-y.hatenablog.com/
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