文・井口(仮)
編集・ぼそっと池井多
・・・・第4回からのつづき
サポートステーションMでの最後の相談日の出来事について、
相談員の堀田さんに、
「この状況を伝えたい」
と言ったことについて、
どうすればこれを世の中に伝えていけるのか、
探し始めました。
僕はこのシリーズの第1回目にも書いたように、
支援機関で受けた対応に疑問を持ち、
「ひきこもり」の問題が語られる際、
支援機関での状況が語られていないことに不満を持ちました。
公的な就労支援機関は、
「ひきこもり 」など、
社会参加に困難を感じている人が、
社会に参加するためのきっかけとなる場所であり、
社会参加に困難を感じている人々に対する支援として、
公的資金が投入されている場所の1つであるはずだからです。
ひきこもりの問題に関心を持ったのは、
「ひきこもり」の問題が語られる際、
支援機関での状況が語られていないことに疑問を持ったからですが、
その理由について
「公的な就労支援機関は、
「ひきこもり 」など、
社会参加に困難を感じている人が、
社会に参加するためのきっかけとなる場所であり、
社会参加に困難を感じている人々に対する支援として、
財源が投入されている場所の1つだから」
と、以前に書きました。
しかし、
より本質的な理由は、
ひきこもりの問題において問題となっているのは、
人と人とが接している状況にあるはずなのに、
支援機関での相談やセミナーなど、
人と人とが接している状況で、
お互いの振る舞いや社会性が問われていない、
というところにあると思います。
「ひきこもり」の問題について語られる時、
人と人とが接している状況が語られることはなく、
主にひきこもっている個人のことが語られます。
当事者会や家族会でも、
主に、ひきこもっている本人の状況が問題とされ、その状況が語られます。
しかし、
そもそもひきこもる...僕はこの表現が自分の状況を表す言葉としては正確ではないと思うので、
「社会参加に困難を感じる」という言葉を使いますが、
社会参加に困難を感じるようになった原因は、
病気や障害など身体の不具合でなければ、
人と人とが接している状況にある、
と考えるのが自然だと思います。
例えば、
仮に、
イジメを受けたのが原因で引きこもった、
というケースの場合、
問題となっているのは、
イジメを受けた、
まさにその状況での人と人との関係性自体が問題となっていると思います。
しかし実際には、
家にこもってどんな生活をしているのか?
外に出て行くときはどこに何をしに出掛けるのか?
どんな心境でいるのか?
どうやって暮らしていくのか?
どうやったら仕事ができるのか?
どうやったら働いてくれるのか?、
など、
社会参加に困難を感じるがゆえにひきこもっている個人のことが中心に語られるということに違和感を感じていました。
そこで僕は、
人と人とが接している具体的な状況を素材として提出し、
その、
そうした状況でのそれぞれの振る舞いや社会性について、
検討し合うことが必要だと考えます。
当事者にとっては、
その、
人と人とが接している状況でのそれぞれの振る舞いや社会性について検討し合うことに参加することは、主体性の発揮や社会参加に繋がると思います。
人と人とが接している状況でのそれぞれの振る舞いや社会性について検討し合うことは、
どんな事業になり得るだろうか...。
当事者やご家族、支援者など、
ひきこもりの問題に関わる人たちと対話をする機会を持てればと思います。
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