ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

『ひきポス』は、ひきこもり当事者、経験者の声を発信する情報発信メディア。ひきこもりや、生きづらさ問題を当事者目線で取り上げます。当事者、経験者、ご家族、支援者の方々へ、生きるヒントになるような記事をお届けしていきます。

10年のひきこもり後に海外を一人旅してみた結果

写真:山添博之

文・山添博之

 

 

長期&重度のひきこもりに至るきっかけ

私のひきこもりは小学生高学年の時に始まりました。きっかけは、学校の外で子供同士の集まりが週に4日ほどあり、その中で私がイジメの標的にされた事でした。

 

イジメの標的にされた理由は良く分かりませんでした。突然、何の前触れもなく標的とされました。

 

最初は私に対する暴言から始まりましたが、子供だけの集まりゆえ、周囲に止める大人がおらず、どんどんエスカレートしていきました。しだいに物理的な暴力を振るわれるようになり、暴力の内容も苛烈になって行きました。内出血し体が痣だらけになっていた事もありました。

 

最もショックだったのは、幼い頃から友達だった者まで私をイジメる側に加わって行った事でした。彼らは私が殴られ蹴られ泣いているのを見てゲラゲラ笑ったり、ニヤニヤとしていました。

 

非常に陰湿で悪意に満ちていました。気が弱い私は抵抗が出来ませんでした。しかし、彼らは学校の中では私に対し仲の良い友達のフリをして接してきました。彼らの陰湿さに耐えられなくなり、私は不登校になりました。


こうして私のひきこもりが始まりました。

 

約十年の重度ひきこもり 親との関係破綻

私は部屋から殆ど出ない重度のひきこもり状態となり、その状態が10代前半~20代前半まで約10年間続きました。なので、私は一般的な人々が経験する学生時代や青春時代がすっぽりと抜け落ちています。

 

私がひきこもりとなると、家族はとても冷たくなりました。私が引きこもる前の母親は私に優しかったのですが、私が部屋に引きこもるようになると豹変し冷たくなりました。父親も母親も私に暴力を振るうようになりました。兄からは叱責されるようになりました。

 

特に父親からの暴力は苛烈で時にはアザだらけになるほど殴られました。このように、私は引きこもるようになると、家族の中でイジメられるようになってしまい、自殺したいと思うようになりました。

 

しかし、14歳頃、私の体が大きくなり、親の暴力に抵抗できるようになると、私は親の暴力に反撃するようになりました。ある時は、部屋に押し入ろうとしてきた父親を力いっぱい殴った事もありました。私が親に暴力を振るうようになると、親は私を無視するようになりました。

 

このような環境のもと、私は心がとても苦しくなり、早く死んで全部を終わらせたいと思うようになりました。

 

自立か自殺か?

私は自殺をしようと思い、遺書を書き、ロープを首にかけて死のうとしました。ロープに体重をかけると、首の皮が引っ張られ痛く、苦しく、辛い事に加え、死ぬ事がとても怖いと思い、断念しました。私は機会を改めて何度もチャレンジしましたが、結局、痛みと恐怖に抗えず死ぬことは出来ませんでした。

 

死ねないのならば生きるしかないと考えを改めざるを得ませんでした。

 

しかし、実家の中で、このような環境でこれからも生きていきたくないと思いました。23歳頃、私は自立に向けて行動する決断をしました。この時の気持ちは、自業自得であるものの、最悪でした。なぜなら、自分は近く自殺するから何もかもどうでもいいとして、社会で生きていくための知識も、技術も、人との繋がりも蓄えないまま約10年間過ごして来たからです。しかし、それでも死に切れませんでした。

 

当時の私は、地獄のような実家の環境から逃れる方法は、就労してお金を稼ぎ、アパートを借りて自立する以外、知りませんでした。

 

社会復帰 約10年のひきこもり後に待っていたもの

私は精神病院に通院したり、ひきこもりの居場所などに通いながら、就労に向けたリハビリをするようになりました。親は私に無関心だったので、全て自分一人でそれらの場所を見つけ、親の金を使って通いました。資格も色々と取得しました。自動車免許を取得し、介護の資格を取得し、「高卒以上」の学歴が必要な求人に応募するために高校卒業程度認定試験という資格も取得しました。

 

この頃の私は居場所で出会う他のひきこもりの人たちと自分を比較し、絶望感に打ちひしがれていました。居場所などに出てくる人の中で、私のように約10年間も重度に引きこもった人はまずいませんでした。ほとんどの人のひきこもり歴は1-3年程度であり、高い学歴があり、手厚いサポートを授ける家族がいます。

 

他の人と私の状況はあまりにもギャップがあると感じていました。例えるなら、居場所で出会うひきこもりの人たちは「ケーキがなくパンしか食べれない・・」というような事で悩んでいるように見えました。「大学まで卒業したのに、非正規の仕事しか就けない・・」だとか。

 

私は文字通りの意味で餓死しない形で自立して生きれるようになる事が目標でした。非正規だろうが、何だろうが、自力で生きて行けるようになれれば良かったのです。

 

彼らとは悩みのレベルが違いすぎるように思いました。私の状態はあまりにも重度で絶望的状況だと感じていました。とはいえ、絶望していても、誰も助けてくれないので、己の怯える心を殺し、自立に向けて無理矢理に進んでいきました。

 

そして、25歳頃にようやく就労することが出来、エアコンのない家賃2万円台のワンルームを借りて移り住み、自立しました。最初は高齢者介護の仕事に就きましたが、あまりにも仕事が厳しく、適応できなかったため、製造業や物流の仕事に転職しました。

 

体力的にも精神的にも辛い仕事でしたが、人と深く関わることが必要な仕事でなかったために自分には合っており、この業界で長く働く事になりました。給料面の待遇がよく、寮費や光熱費も無料で、お金を殆ど使わなかったので、お金がどんどん溜まっていきました。

 

仕事をする上で理不尽な事をされ、言われ、数え切れないくらい膨大な嫌な思いもしましたが、自分はお金を稼ぐために労働をする単なるロボットを演じているだけだと思い込みました。私の場合はそのように心の中で割り切ると、働き続ける事ができました。


地獄から抜け出すように海外へ

好奇心の強い私は異国に対して子供の頃から強い憧れがありました。ひきこもっていた時代においては、海外留学をしていく学生たちを見て、若くして海外を体験出来る事をとても羨ましく思っていました。

 

しかし、私は実際に海外に行けなくとも、ひきこもっていた時代からインターネットを介し、海外の人々と繋がりを作ってきました。

親に見捨てられ、会社では単なる機械の部品のように扱われ、友達すらおらず、無機質で冷たい世界に生きていた私にとって、海外との繋がりは生きる希望でした。

 

私はひたすら働き、経済的にゆとりが出来てきたので、海外旅に出かけるようになりました。最初の目的地はドイツでした。私は32歳になっていました。

当時の私は高校生レベルの英語しか出来ませんでしたが、思い切って一人きりでドイツへ渡航しました。

 

ドイツの空港に到着し、旅客機の窓から外を見ると、空港で仕事をしている作業員たちがいました。彼らを見て、別の国は本当に存在していたのだと、まるで異星人の文明を発見したような気分になりました。

当然、知識としては知っていた事ですが、実際にこの目で確認し、現場で異国の空気をありありと感じ取った事は、別次元の体験でした。

 

このように世界には異国が200近く存在し、私が32年間生きてきた日本はその内の1つにしか過ぎなかったと心から実感し、世界の広さに驚愕し、感動し、泣きそうになりました。

 

入国するとインターネットを介して以前から知り合っていたドイツ人の友人が空港で待っていてくれました。その友達が家に泊めさせてくれました。

車に乗せてもらい、お祭りに行ったり、大聖堂や城を見学したり、「ブロッケン現象」で有名なブロッケン山をハイキングしたりしていました。

 

初めて体験した異国の街。ヴェルニゲローデという深い歴史とユニークな文化のあるドイツの田舎町。あまりにも美しく、歩いていると心が洗われるような気分になりました。

 

「ブロッケン現象」が起こる山として知られるブロッケン山の山頂にて

 

案内してくれたドイツの友人には本当に助けられました。心から感謝をしています。

このような素晴らしい体験が出来るとは重度にひきこもっていた時には想像出来ませんでした。この海外旅体験によって未来の可能性が大きく開いたように感じました。

 

私はもっと様々な異国を旅したい。もっと様々な異文化の人々と交流したいと思うようになったのです。心が沸き立つような、情熱をもって取り組める目標や夢が出来ました。

 

そして、目標が出来た私は、英語学習に継続的に取り組むようになりました。約2年前にはTOEICで905点を取得し、今でも学習を続けています。

 

ひきこもり当事者発信

その後、しばらく物流の仕事は続けましたが、今から数年前に辞めました。当面は一人で生きていけるだけのお金が溜まり、これ以上お金を得るためだけに、必死に働くことに意義を見出せなくなったからです。

 

また、積み立ててきた貯蓄を運用したり、副業として行っていた複数のWebページの運営が成功し、その広告収入などを得ていく形によっても、自立した生活が維持可能であると分かった事も、企業に雇われて働く事を辞めた理由として大きいです。

 

自由な時間が増えた私はどんどんと様々な国に海外放浪をするようになりました。現在までに計14ヶ国を放浪し、沢山の外国の人々と出会い、交流してきました。

 

そして、私はSNSやYouTubeで当事者発信を行うようになりました。私はユニークな人生を歩んできたので、私の経験を発表すれば興味を持つ人が現れるのではと思ったからです。

 

また、私の現在進行形の体験を人々に共有したいという想いもありました。海外でのユニークで面白い体験などを共有し、長期で重度のひきこもり経験者でも、このような経験ができるのだと知らせたいという気持ちがありました。

 

YouTubeにおいては約3年半前に英語での当事者発信を開始しました。そうすると、「私も"Hikikomori"だ」、「似たような状況にいる」、「気持ちが分かる」というような共感のメッセージをくれる人々が世界各地から現れるようになりました。

この活動を通じ、海外に沢山のインターネット上の友達が増えました。その中には海外旅を通じ、実際に出会った人々もいます。



私はHikikomori(ひきこもり)に関する国際的なオンラインのコミュニティを立ち上げました。今では約900人の参加者がいます。

世界中から「Hikikomori」に関連する人々が集っています。このコミュニティの中で、海外のひきこもりたちの経験を一つの映像作品(*1)にしたり、海外ひきこもりたちの文学作品を募集し、翻訳し、第三回ひきこもり文学大賞(*2)へお届けしたりなど、様々なプロジェクトを行ってきました。

 

*1 Global Hikikomori: Our Stories 計11ヵ国から寄せられたひきこもり体験談を映像化。YouTubeで無料視聴可能。

www.youtube.com

 

*2 ひきこもりを自認する人々の為の文学賞。現在は第四回目のひきこもり文学大賞を含む「ひきこもり文化祭」が2023年11月に開催予定。詳しくは主催者のTwitter(X)へ。

twitter.com




映像作品 Global Hikikomori: Our Stories のワンシーン

 

当事者発信を通じ、現実でも、インターネット上でも、繋がりが世界規模でどんどんと増えて行き、やりたい事、楽しいこと、希望もどんどんと増えて行きました。

それはまるで新型コロナウイルスの感染者が指数関数的に増えていくかのように、生きる理由がどんどんと増えていくかのようでした。

 

このように「生きたい」と思える状況になったことに対し、すべてに対して感謝を捧げたいと思います。

 

幸せを得るためには・・

私は発展途上国も旅してきました。フィリピン、ベトナム、カンボジア・・スラム街、ホームレス、ストリートチルドレン、極貧の人々・・。そこで生きる人々は筆舌に尽くしがたい苦難の中で生きながらも、笑顔があり、生き生きと生きていました。幸せそうな人が多くいました。

 

学歴も社会的地位もお金も無くとも、充実した人生を得て幸せに生きられるのだと実感しました。彼らには充実した人間関係やコミュニティがあります。家族やコミュニティの絆が存在し、当たり前のように、支え合い、協力し合い、助け合う。

 

例え、学歴や社会的地位やお金がなくても、信頼し、助け合える仲間や、家族や、パートナーがいれば幸せな人生を生きられる。

 

「貧しくても幸せな生活」それは、映画や小説・・フィクションの世界でしばしば描かれるモチーフですが、発展途上国を旅し、それは現実世界に当たり前のように沢山存在している事を知りました。

日本社会は「教育ママ」的価値観が強く、学歴や偏差値や社会的地位が貴ばれ、それによって選別、差別されますが、そのような社会構造と「幸せになること」とはあまり関係がないのだと学びました。

 

私は海外の人々との繋がりはあるものの、日本においてはずっと孤立していました。この状況を変えたいと思い、3か月くらい前から首都圏のひきこもり関連の居場所に参加するようになりました。

一つの所に依存しすぎないように、なるべく沢山の居場所に参加させて頂くようにしています。そのお陰で、ありがたい事に、国内でも繋がりがどんどん増えていっています。

 

孤立状態も大分解消され、人と出会い交流することの喜びも感じられるようになりました。私のような人間でも、学歴も社会的地位もお金も無くとも、幸せな人生を得る事は十分に可能であると考えるようになりました。

 

海外旅行と異国での出会いは私の人生を変えました。イジメのトラウマ、人間不信、自死へ向かわせる諦めと絶望の境地から抜け出す為の確かな手がかりを見つけました。

 

このように人生に目標や喜びや希望を見つける事が可能だとは、重度に引きこもっていた頃には想像も出来ませんでした。絶望していたあの頃に自殺しなくて本当に、本当に、良かったと心から感じています。

 

読んで頂いてありがとうございました!



-----------------筆者プロフィール-----------------

 

山添博之(ヤマゾエヒロシ)

1984年生まれ。10代前半からイジメに起因する重度なひきこもり状態を約10年間経験する。その後、就労し自立するが、32歳頃に仕事を辞め、単身ひきこもり生活者となる。
32歳以後は海外旅の楽しさに目覚め、海外一人旅を頻繁に行うようになる。現時点で計14ヶ国を放浪。同時に「Hikikomori」をキーワードとし、インターネットで世界に向けた発信を行いながら、海外ひきこもり達と交流の輪を広げて行き、彼らの為のオンラインコミュニティを運営するように。

2023年9月20日からは米国を放浪し、米国のひきこもりと出会う予定。

筆者に関するオンライン記事や筆者のSNSへのリンクは以下を参照のこと。

週刊女性PRIME記事: https://www.jprime.jp/articles/-/19770

プレジデントオンライン記事: https://president.jp/articles/-/55007

Twitter(X): https://twitter.com/hiroshiyamazoe

Website: https://hiroshiyamazoe.com/