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AIによって人間の仕事がなくなるか ~AIと「生きづらさ」を考える~前編②

AIと人間の未来を考える時、インド・バラナシを思い出す

文・石崎森人

 

前編①はこちら

www.hikipos.info

 

前回、AI(テクノロジー)が仕事を奪うという話は歴史的に繰り返されてきた幻想であり、実際には技術の効率化が新たな需要を生み、むしろ仕事を増やしてきたという話をした。

人間が「違い」に価値を感じる限り、差別化をめぐる競争は終わらない。火起こしが自動化されても、その火を「使って何をするか」が新たな仕事になったように、AIに知的労働が代替されても、その成果物をどう活用するかが人間の仕事になるだろう、と。

しかし、ここで見落としてはならない問題がある。

仕事が「なくなる」のではなく「変化する」としても、その変化についていける人はどれだけいるのだろうか。そして、ついていけない人はどうなるのだろうか。

仕事が高度化し、働ける人が少なくなる

現代でも、電子メールの登場によりコミュニケーション効率は格段に上がったが、その結果メールやチャットの処理に費やす時間が労働時間の2割を占めるようになった。新しい技術が仕事を向上させると、新たな基準が設定され、さらに早い対応が求められる。効率化はむしろ新しい競争を生み出し、労働密度を高める結果になっている。

その結果、かつては「ちょっと苦手なことがある」「作業が少し遅い」程度で済んでいた人たちも、社会が求める高い基準に達しないとされてしまう。

実際、OECDの2023年の報告では、働いている人の約30%が「持っているスキルと仕事で求められるスキルが合っていない」とされている。このように基準が高まると、企業はトレーニングや教育で対応するよりも、能力が足りない人を排除し、AIに置き換えるという現象が起きるだろう。

どこも人手不足なのに、求人に応募できない現象はこうして起きる。スキルの基準が上がりすぎて、条件に合わない人が排除されてしまうため、労働力は足りないのに採用されないという事態が生まれる。

近年、発達障害や境界知能が問題とされているのも、障害自体が急激に増えたというよりは、社会が求める能力の基準が高まった結果、そこから外れる人の数が増えている可能性がある。

たとえば、かつては"レジ打ち"や"品出し"が中心だったコンビニのアルバイトも、今ではセルフレジの監視や電子マネー・QRコード決済の操作、在庫管理システムの入力、顧客への丁寧な対応が求められる。

コミュニケーションにおいても、チャットやメールでは一言一句に注意を払いながら迅速に返信し、複数の会話チャンネルを同時に管理するストレス耐性と調整力が必須だ。

だから仕事がしんどいと感じるのは、個人の問題ではない。当然だ。求められる能力やスピードが、いつのまにか膨れ上がっている。それが現代の労働の前提になってしまっている。

こうした実務基準の上昇は、人々の適応困難を「障害」としてラベル化しやすくする。極端に言えば、未来には全体の4割にあたる人が何らかの障害を持っているとみなされる社会が訪れるかもしれない。

バラナシで見た「仕事」

AIによってさらに仕事が高度化される、という話をするとき、私はかつて訪れたインドのバラナシの光景を思い出す。バラナシは、混沌とした街である。雑多で、秩序がないのが秩序であった。そこでは日本とはまったく異なる、現代的なシステム化や効率化とは無縁の、人の手による労働が日常に根付いていた。

特に印象的だったのは、プロパンガスのタンクを人の手で長距離を運んでいた数人の男たちだった。日本であれば、トラックで目的地まで運び、設置場所までカートに乗せて運ぶような仕事だ。その中には、ブツブツと独り言を話し、視点がさだまっていない、なんらかの精神疾患を抱えていると思われる人物も混ざっていた。彼はひとりごとを呟きながらも、黙々とタンクを背負い、ひたすら長い距離を歩き、働いていた。日本であれば、おそらく「働けない人」として障害者手帳を交付され、治療のために入院したり、作業所に通っていただろう人物である。

実際、私自身も障害者手帳を持っていた時期に、作業所に通ったことがある。そこで与えられる仕事は、チラシの印刷ミスに対してテープで修正するといった、正直言えば経済的合理性のない作業だった。通常の時給であれば印刷し直すほうがはるかに安上がりであるような、いわば「仕事のための仕事」だった。つまり、仕事の名を借りて「何かをさせておく」ことで、制度や支援が回るようになっていたのである。

バラナシで見た労働は、それとは違っていた。そこには意味があり、実用性があり、社会的な必要性があった。重い荷物を人力だけで運ぶという行為そのものが、生活にとって欠かせない労働として成立していた。それは日本のように車両や機械で効率化されていないという側面もある。しかし、だからこそ、精神疾患を抱えてても「担える役割」が存在するとも言える。

同様の光景は、カンボジアの国境地帯でも見られた。トラックで運ぶような大量のペットボトルのリサイクル品を、巨大なリアカーに積み、一人で直接引いて移動していた。日本ではすでに消滅したような、人力による輸送業がそこには存在していた。

私の見た社会では、資本主義がまだ完全には浸透しておらず、自動化も進んでいない分、人間が直接担う仕事の種類が多かった。

もちろん、このような社会は不便で不効率で、肉体への負担が大きいし、障害者が保護されてないとも言える。良い社会かどうかの判断は別の話だ。しかし、仕事が高度化すればするほど、そうした単純労働は排除され、効率化の名のもとに機械化やシステムに置き換えられていく。結果として、システムにうまく適応できない人々は、職を得ることが難しくなる現実もある。

AIの普及が進めば、その傾向はさらに顕著になるだろう。「多くの人ができる仕事」はさらに減少し、知的にも精神的にも体力的にも強い人にしかできないような高度な仕事が増えていく。

それでもAIの未来に可能性はある

結局のところ、AIがどれほど進歩しようとも、残念ながら人間が働かなくてよい未来は訪れないだろう。これは単に悲観論ではなく、歴史が繰り返し示してきた。人間の欲望は際限なく拡大し、満たされた瞬間に新たな欲望を生み出す。どんな技術革新も、最初は驚異的な効率化をもたらすが、やがて「当たり前」となり、その上にさらなる生産性や成果が求められるようになる。

サイゼリヤの壁に飾られているルネサンス時代の名画を考えてみよう。かつては王侯貴族しか鑑賞できなかった芸術作品が今や大衆食堂の装飾となり、多くの人はその芸術的価値になにも感じない。当たり前すぎて、ルネサンス時代なら最高級の芸術作品が飾られていること自体に気づいてない人もいるだろう。

AIもまた同じ道をたどるだろう。今は驚嘆するAIの能力も、数年後には「それが当たり前」となり、私たちはさらに高度な成果や、より細分化された差異を求めて競争を続けることになる。テクノロジーは欲望を満たすのではなく、欲望の形を変え、その領域を広げるだけなのだ。

 

しかし、それでも私はAIの進化に興味と驚きと可能性を感じている。ここまで散々なことを書いてきたが、実はAIは生きづらさを感じている人ほど強力な味方へとなると考えている。次回は、そんな"希望の側面"に目を向けてみたい。