
文・まさと
編集・ぼそっと池井多
豊かさの中の空虚感
私が思春期のころ、オウム真理教が社会問題になりました。猛毒サリンを使ったテロを行って、教祖が逮捕されたのは私が大学一年の時でした。バブルの絶頂で金満的豊かさに満ちていた時代には、円高のため学生アルバイトの賃金で長期の海外旅行が楽しめたものです。そのような豊かさのなかに空虚感を抱いた知的エリートたちが、充実感を求めてオウム真理教にからめとられていったように見えました。
われわれ生きづらさを抱える人間たちも、そのような豊かさの中の空虚感には苦しんでいるのではないでしょうか。そこで自分を破壊するような暴挙に出ず、サバイバルするにはどうすればいいでしょうか。私の経験に照らして考えていきます。
「親に捨てられて死ぬのでは」という恐怖感
乳児から幼児に至る年代は、ケアをしてくれる大人がいないと死ぬと言われています。暴力的な毒母親は、この時期に子供に死の恐怖を味わわせます。
そのようにして幼少期に味わった死の恐怖が、のちに私を物事を突き詰めて考える人間にしていったと考えられます。そのために私は一般的な娯楽が楽しめない人間になり、やがて精神分裂病(*1)になりました。
私の精神病気質には、豊かさのなかに空虚感を感じ取る側面があります。幼少期に死の恐怖を味わったために苦痛に対して耐性があり、その耐性ゆえに私はあらゆる教育虐待を受け入れました。その結果、文武両道でアッパーミドルのお坊っちゃまというキャラで同級生たちの間では人気者になりましたが、相変わらず空虚感はとらわれ続けていましたし、それに「死ぬのではないか」という恐怖にもたえず怯えていました。
このため、空虚感と死への恐怖の解消が私の青春時代の課題でした。
*1. 診断当時の名称。現在は統合失調症と改称されている。
楽してお金が入ってくるはずなのに過労死
私が中学のころ、バブル経済と新自由主義への改革が到来しました。民営化されたNTTの株価がうなぎ登りになり、世の中は金満の雰囲気に満ち満ちていきました。
もしほんとうに楽をしてお金が手に入るのなら働く必要はないはずです。ところが、お金はどんどん入ってくるのに、過労死が社会問題になったのもこの時代だったのです。
働きすぎて自殺や病死をしてしまった方々の遺族の苦しみは想像に難くありませんが、それでもテレビで「24時間働くためにドリンク剤を飲め」というコマーシャルが垂れ流されていて、そういう意味では無神経きわまりない時代だったと思います。
この時代、私は底知れない空虚感を人気者の仮面を被ることで隠していましたが、ときには暴力性がほとばしってしまう時もありました。ユダヤ人に侵略されているパレスチナを持ち出して、「ヒトラーは正しかった」などと発言し、能天気な社会科教師を激怒させたりしていました。今ならば言語化できることも当時はできず、芥川龍之介のいう「漠とした不安」にとらわれていて、苦しくて仕方がありませんでした。
哲学的悩みが理解されない苦しみ
今では「空虚感」などと呼んでいますが、自分が持つ「漠とした不安」がいったい何であるかわかりませんでした。そこで学校推薦図書を片っ端から読んでみたりしていましたが、そんな毒にも薬にもならない本を読んでも私の不健康な疑問に解決をもたらすようなヒントはどこにも書いてありませんでした。
こうして哲学的な悩みにのたうちまわっていた高校時代に出会った教師たちも何の助けにもなりませんでした。とくに担任には恵まれませんでした。私のまわりには体育会系の人たちが多かったのですが、こういう人たちを見ているうちに、体育会系という人種は体制ベッタリの生き方になんの疑問も持たない哲学的には白痴でないか、と私は疑うようにもなりました。
成績のふるわない生徒を虐待することは、現代では犯罪でしょう。しかし、それが教育的指導としてまかり通っている時代でもありました。そのこと自体が教育を一つの暴力に仕立てていました。
とくに私が学んだ高校は、上級教員や経営者たちのポストが自衛隊幹部の天下り先になっているような学校であり、そうした暴力性の強い男子校でした。
「このような暴力的な環境から抜け出すためには大学に行くしかない」
と考えてガリ勉をしていたのですが、「哲学書が読みたい」「海外を貧乏旅行したい」という欲望も同時に高まっていきました。そういうことをやれば空虚感が埋められて、精神不安も解消されると思ったからです。
性に抱いていた妄想
こうして入学した大学では、
「豊かなのに空虚感をおぼえるのは日本社会自体が腐っているからだ」
という意識をもって学生生活を送りました。また、海外に出て視野を広げるのと同時に多くの本を読みました。
当時はお金をかけて女性とつきあうのが若い男の甲斐性とされており、「女性に選ばれない男は存在価値がない」と言わんばかりの風潮が社会にはびこっていました。そこへ加えて私の場合は、男子校でガリ勉をしていたので、女性に対する妄想が肥大し、
「セックスっていうのは、とてつもなく素晴らしいものなんじゃないか」
という期待を大きく持ってしまっていました。
こういう妄想を持ったまま、初めて女性とつきあいました。
ところが実際に体験してみると、セックスとはそんなに大したものでもなく、私は自慰行為のほうが快楽を感じられるということがわかりました。
ところが、つきあった相手の女性は私とのセックスによって性欲に目覚めてしまい、大学のなかでも教室が空いていればすかさず求めてくるようになり、ラブホテルのフリータイムを全部使って延々と求められるような日々が続き、私は性行為にウンザリしてしまいました。
こうした体験を経て、どうやら自分の性的嗜好はオナニストのようだと私は気づいていきました。
恋愛も私にとっては空虚感を増しただけでしたが、このような私の大学生活は、傍目にはさかんに青春を謳歌していたように見えていたようです。「大学でやりたいことはやり尽くして、これで私は模範的社会人になれるのではないか」と考えましたが、そうは行かなかったいきさつは以前(*2)にも書いたので、本稿では省略します。
統合失調症は空虚感以上の苦しみ
最初に入院した病院で精神分裂病という診断を受けたのですが、いま思うと私が患っていたのは精神病性うつ病だったように思われます。希死念慮と摂食障害のダブルパンチで、もう地獄の苦しみでした。投薬された薬もことごとく自分に合わなくて、副作用に苦しむばかりでした。
退院後、通院をやめて服薬もやめたら錯乱状態になり、病院で鎮静剤を打たれ、目覚めたら隔離保護室に居ました。このころは統合失調症の陰性症状に苦しみ、空虚感どころではなかったです。
私は母と生活時間帯で会わないようにするために、昼夜逆転にしました。県がニート支援にのりだし、支援機関のオフィスが私にとって母からの避難所になりました。そこでできた友人とは今でも付き合いがあります。そこの指導により障害者雇用の求人に応募することで私はいちおう社会復帰しました。しかし、精神疾患を騙しだまし働くのは大変なことで、他に何も考えられないような生活でした。
しかし統合失調症に苦しんでいたために、かえって人生に空虚感をおぼえなくなったという一面もありました。仕事をなんとか必死にこなすこと以外に、意識を向けないようにしました。すると、空虚感などおぼえている暇がないのです。でも、そんな風に働いていたら体調を崩してしまい、休職することになりました。
復職後、障害者が無料で使える施設を知り、休日はそこのプールで水泳を始めました。するとメタボが解消され、陰性症状も治まり、睡眠導入剤も要らなくなりました。こうして私は生きるのに余裕ができて、サバイバルについて考えられるようになれたのです。
私がいちばん恐れていたのは、統合失調症の再発でした。予防のためにエクササイズと規則正しい生活、そして野菜とタンパク質の健康的な食事にこだわるようになり、「弁当男子」になりました。
我ながら文化的で豊かな生活だったと思いますが、これによって「努力をしなければ」という強迫観念に取り憑かれてしまいました。その原因が何であるのか。はたして空虚感なのか。それはわからないのですが、ともかくそれで安定していた職を辞めてしまいました。
他人を犠牲にしなければ病気になる職場
「もっと努力しなければ」
という強迫観念に取り憑かれていたとき、NHKの国際放送で「すしアカデミー」を紹介する番組を見ました。担当していた西田講師に人間的魅力を感じ、私はスマホで資料を取り寄せました。そうしたら電話で入学の勧誘を受け、電話の女性にスケベ心がわいたので、勤務と両立できそうな土曜コースに入学しました。
いま私は貧乏生活のなかで、安い材料を買ってきて15分以内に満足した料理が作れます。これはこの時に通ったすしアカデミーのおかげです。
ちょうど時代は、日本が没落し始めていたころで、日本に見切りをつけ海外で出店したり就職したりことに活路を見いだしたい人材が多くそこには集まっていました。そういう人たちと交流し、私も刺激を受けました。
こうしてプライベートが充実すると、それまでの習慣から抜けられず、職場ではダラダラと社畜でいるしか能がない中高年たちに対して嫌悪感をおぼえるようになりました。そこで職場を退職して、すし屋の見習いになることにしました。
私が見習いとして入ったすし屋は長時間労働で休みがなく、仕事の多さは圧倒的でした。ここではうまく人の上に立って、下の人に仕事を押し付けないと、そのまま自分の命が脅かされるような職場でした。
厨房では暴言が飛び交い、言葉づかいが汚くて教育水準が小学一年生レベルではないかと思われるような中年女性が幅を利かせ、いばり散らしていました。
それでも当時の私はこんな職場にものすごい充実感を感じていて、たまの休みはヨガスタジオに行き、「いきなりステーキ」で肉を喰らって大衆酒場で日本酒を最低7合は呑んでいました。先輩の板前から洗脳を受けていたために、「こういう生活は素晴らしいじゃないか」と思っていたのです。
しかし、充実感というのは一種の麻薬です。充実感中毒になると、健康を損ね、最悪の結末は過労死なのです。
言葉づかいが汚い中年女性が労働法を完全に無視した指示を下してくるので、私は労働基準監督署へ相談に行きました。すると、
「円満退職に応じなかったら動きますよ」
と担当官が言ってくれました。それで私は、
「自分はそこまでひどい職場にいたんだ」
と気づき、背筋が寒くなりました。
お金は稼いでも遣う暇のない生活だったうえに、実家暮らしだったから支出もほとんどなく、さらに支給されていた障害者年金も余らせていたから、辞めたところで経済的には何の問題もありませんでした。だから辞めました。
飲食業で働いている底辺の人たちから見たら、さぞかし私は上級国民に見えたのにちがいありません。
図書館通いと世帯分離
すし屋を辞めた私は読書に対する渇望感が凄まじくなっていたので、図書館で本を読みまくりました。このときに社会保障に関する知識を吸収したことが、のちに私の貧乏生活でのサバイバルに大いに役立つことになります。
すし屋はブラック企業だったので、雇用保険を踏み倒していて、そのため私は辞めたあとも失業保険がもらえず無収入になりました。
そのため、やがて就寝前に将来に対する不安感にさいなまれるようになり、その不安感を払拭するために近所のディスカウント・ストアのアルバイトを早朝シフトで始めることにしました。こうしてバイト先から家に帰り、昼食を摂って図書館へ行く生活となりました。これはかなり時間に余裕がある生活で、おかげで末期ガンだった父もしっかり看取れて、相続もつつがなく終了しました。
しかし、これによって家の中は母と私の二人だけになり、私の母に対する忍耐は限界を超えていきました。
そこで母から世帯分離するために公営住宅に入ることにしました。ところが、公営住宅は数が不足していて、入居待ちの人がたくさんいるようでした。
でも、少し離れた市の県営住宅だったら抽選なしで入居資格が得られることがわかりました。応募してから一次審査、二次審査が結構難関なのですが、社会保障に関する知識を図書館通いで蓄積していたため、それらの難関を乗り越えるための「勘どころ」を心得ていることが幸いしました。
役所に必要書類を発行してもらったり、住宅供給公社に足を運んで審査に必要な書類が全部そろっているか確認してもらいました。その市に在住の友人が、気持ちよく公社に提出する緊急連絡先になってくれたのも助かりました。こうして私は独り暮らしを実現することができ、そこで豊かさの中の空虚感を埋められる理想の生活を追い求めることになったのです。
快楽主義と清貧生活
そのころの私の収入といえば、雇用保険と3級の障害年金で、社会保険料も払わなければなりませんでした。それでも統合失調症を再発予防するために、野菜とタンパク質のバランスの摂れた食事を心がけなくてはならなかったので、かなり支出は切り詰めて節約生活をしました。この工夫の中身については前にも書いた(*3)ので省略します。
同じく統合失調症の再発防止のために、私はヨガも始めました。これは午前3時から5時にやるのが本式だというので、実践するために早寝早起きになり、朝から図書館に通う生活となりました。
シンプルで清貧な生活をしていると、朝の鳩の鳴き声に癒され、自然が残っている住環境に感動できます。
雇用保険が切れる前に、自転車で通える職場の障害者雇用の職に就けました。ここは週25時間労働で、社会保険にすべて加入でき、清貧の生活を維持するのには理想的な働き方ができます。手続きをしたら、家賃も半額に減免されました。
こうして私は、生活コストが日本でもっとも安いのではないか、と思われるライフスタイルを確立したのです。使わないお金は預金しています。預金高が増えていくようだったら、地元の川魚料理の名店で舌鼓を打とうと思っています。
古代ギリシャのエピクロス派は、肉体的快楽を制限することで精神的快楽を追い求めました。清貧の生活は精神的快楽をもたらします。逆に肉体的快楽を満たす豊かさは、精神的快楽を損ね、空虚感をもたらすのではないでしょうか。
昔の日本にいたサムライはそのことを見抜き、質実剛健をモットーにしたのだと思います。
日本人が金の亡者になったのは、太平洋戦争のときの軍事的敗北の鬱憤を戦後の経済戦争で晴らそうとしてからであり、長い日本の歴史のなかでは畸形的な一時のことです。以前にも同じようなことを書きました(*4)が、古代からの清貧に立ち返り、豊かさの中の空虚感と無縁になることが幸福な生き方だと思います。
(了)
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