文・喜久井伸哉
連載 100年前の〈家族〉の暮らし⑦

100年前は、中学校に進学するだけでも大変だった。
1924年の文部省の調査によると、小学校を優秀な成績で卒業した者は、全国で1万8,421人。
しかし、そのうちの約半数(9,778人)は、金銭的な事情で中学へ進めなかった。
中学校でも難しいのに、その上の高校となれば、さらに狭き門だ。
高校といっても、学齢が異なっているため、現在の大学に相当する。
当時は大学生だというだけで、特権的な、エリート街道を行くことが約束されていたようなものだった。
それなら、100年前に大学へ進める者が皆幸せだったかというと、そうとは言えないようだ。
一例として、久米正雄の小説「受験生の手記」を取り上げる。
本作は、岩波文庫の『久米正雄作品集』に収録されている、100ページほどの中編で、1918(大正7)年に発表された。
久米正雄(1891-1952)は、東京帝国大学英文科を修了し、明治・大正・昭和の時代をまたいで健筆をふるった作家だ。
夏目漱石の門人で、芥川龍之介や菊池寛との交流でも知られている。(近代文学が好きな人なら、「微苦笑」という言葉の生みの親、と言うとピンときたりする。)
「受験生の手記」は、第一高等学校(現代の東京大学と千葉大学の前身)を受験するために、地方から上京した健次の6カ月を中心に描いている。
一年前にも受験をしたものの、英語の試験でミスがあり、落第していた。
健次は、今年こそは絶対に受からねばならない、と意気込んでいる。
しかし、はじめのうちは勤勉に机に向かっていたものの、まだ6カ月もある、と思うと気が抜け、ついつい友人たちと話し込んでしまう。
このようなやりとりがある。
「じゃ愈々(いよいよ)明日からやろうかな。」
「うん、お互いにしっかりやろう。」
けれどもその次に二人が会ってみると、お互いにそう勉強もしていなかった。そしてお互いに対手(あいて)の不勉強を知って、私(ひそか)に安心したりした。
今なら誘惑も多いだろうが、当時は娯楽も少ない。
飲みにでかけたり、町を歩き回ったりして、月日はあっという間に過ぎていく。
試験が近づいたことで俄然(がぜん)やる気を取り戻すが、これでは駄目だ、今年もいけない、とネガティブな心持ちに襲われてしまう。
そもそも、受験は健次自身の自然な欲求ではない。
医者になろうという徳行(とっこう)や、学問的な野心があるわけではなかった。
家が医師の家系だったため、自分も当然大学へ行くもの、と思い込み、合格しなければ先がない、と自分で自分を追いつめている状態だ。
そして試験当日。試験は4日に渡りおこなわれるもので、以下のようにつづられている。
四日の間私は興奮し続けていた。夜もほとんど寐(ね)なかった。試験場から帰る毎に、鏡を照らして眼を見た。眼は日毎に血走って行った。頭脳(あたま)もそこから疼き出した。このままで行ったら破裂するかと思われた。――その極度まで達しない中(うち)に、幸いにも四日間は通り過ぎた。
受験中も受験後も、現代で言う「うつ」のようになっていた
健次は、姉に不安定な心境を漏らす。
「姉さん、私はこの頃ほんとの神経衰弱にかかったようですよ。此処にいる中(うち)はそんなでもないんですが、宿へ帰ると陰鬱になってたまらないんです。何だかこう世の中が、すっかり暗くなってしまうような気がするんです。一体どうしたんでしょう。」
やがて、合格発表の日の朝が来た。
学校へ行けば、合格者の受験番号が掲示板に張り出されている。
健次は決死の思いで発表を見に行く。
発表の会場に着き、掲示板を見るが、受験番号は発見できない。
二度、三度と掲示板を見なおし、自分の受験先でない掲示板まで探したが、望みの数字は存在しない。落第したのだ。
健次は部屋へ戻って泣きはらし、絶望的な思いにかられる。
しばらくの期間、呆然としながら過ごしていたが、いつまでもそうしているわけにはいかない。
失意のなか、健次は汽車に乗って帰郷する。
しかし、ふとゆかりのない途中の駅で降り、偶然たどり着いた湖を眺めた。
本作「受験生の手記」は、翌日になって、湖から青年の死体が発見された、と結ばれる。
受験の不安と落第の挫折が、一人の青年を死に追いやった、という物語だ。
健次は裕福な家で生まれ育ち、悩みを聞いてくれる友人や、さらには恋仲になれそうな女性もいた。
付け加えると、両親や周囲からのプレッシャーはほとんど描かれておらず、むしろ多くの人から慰められてさえいる。
自分を否定し、自らを痛めつけているのは、健次自身の内面によってだ。
神経衰弱の機微は、のちの時代(1960~80年代)の「受験戦争」を思わせるが、その時代を飛び越えて、むしろ現代(2000年代以降)的かもしれない。
スマホなどのテクノロジーが登場しないことを除けば、そのまま現代に置き換えられそうな心境がとらえられている。
(つづく)
参照
石渡透編 『久米正雄作品集』 岩波書店 2019年
下川耿史監修 『近代子ども史年表 1868-1926 明治・大正編』 河出書房新社 2002年
Photo by Pixabay
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文 喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。 ブログ https://kikui-y.hatenablog.com/
