シリーズ・私のひきこもり体験 ~隠された子供~
文・はな
編集・石崎森人

色のない記憶
私の地元を思い出そうとすると、いつも色味がない。常に曇りのような感じのイメージが、私の中にはある。東北の北国の、その田舎町である。
育った町は県庁所在地の次くらいに大きい街のはずなのに、本当に閉塞的である。大事なことも、悪いことも、何でもひた隠しにする。なぜそんなことまで隠すのかというくらい、自分のことを言ったら負けというような傾向が多かった。人との繋がりも、私の周りではそれほど密ではなかった。
大人になって改めて思ったのは、大人たちがやたらと人を冷やかす町だったということである。田舎特有なのかもしれないが、少しはみ出していたり、少し有名な人がいたりすると、すぐにけ落とそうとする。そういうのが、成長したら人はみんなそうになるような感じを植え付けられているような気がした。
そして私という存在も、実は隠されていた。
隠された子供
私が生まれた家庭環境は、複雑だった。私が生まれた時、父親と母親は結婚していなかった。私が生まれたら結婚するという約束を二人はしていたが、私の父親は別の女性と結婚してしまった。
その女性は非常に策略家だったらしい。父親は当時、地元では結構お金持ちの部類に入る人間だった。その女性はお金の計算ばかりで、金銭第一主義のような人だった。トントン拍子で子供ができると、「子供ができたということは結婚するよね」という既成事実を作って、結婚式まで着々と進めていった。
結婚式の前日、父親はうちに来た。私はまだ一歳くらいだったから、その時のことは覚えていない。でも母親の話では、父親は自分自身がすごくかわいそうな存在だと思っていたのか、なんでこうなってしまったんだという感じで、号泣しながら私を抱きしめていたという。今考えると、「全部あんたが悪いだろ」と思うが。
結局、母親は置き去りのようになってしまった。母親も、その一件でだいぶ病んでいたのだと思う。私は自分の母親を毒親として見ているが、母親を一人の人間として見たら、だいぶかわいそうな人間である。
母親は実家と喧嘩して帰っていなかったから、その当時頼る人間もいなかった。唯一何でも話せる自分の姉にだけは私のことを言って、私を育てる時に助けてもらっていた。母親も自分でそうした部分もあるが、とにかく孤独だった。
そのため、私という存在は母親の身内には小学校五年生になるまで明かされていなかった。子供が生まれるということは、普通はポジティブなことだと思う。なのに、私という存在が隠されているということ自体が、私の生きづらさのきっかけの一つでもある。
二つの家庭
後から知ったことだが、私の父親は別に家庭があって、私以外に子供が三人いた。どちらもうまくやろうという感じで、二つの家で、お父さんをしていた。
父親は毎日うちに来ていた。自営業だったから時間の融通が利く人で、自分で仕事の区切りをつけられる立場だった。だから不定期に、仕事の合間を縫って寄るのである。
家にいると、父親が来るのが分かった。階段を登ってくる音、そしてチャイムをピポピポピポンと何度も押す音。その独特の階段の音とチャイムの音で、父が来たと分かる。思春期の頃には、それが本当に嫌だった。
ガチャッと開けて入ってくると、「なんか食うのあるか」と言って勝手に家に入り込む。もぐもぐ食べながら、「今日こういうことがあってさ、こうだったんだよ」と話す。お腹がいっぱいになると、ちょっと横になって寝て、「じゃあもう仕事行ってくるわ」と言って帰っていく。
本当はもう一つの家庭に帰っていたのだと思う。
私は、父親というのは家にいないものなのか、父親というのは忙しいものだから、夕方の五時になったらいなくなるのかと、勝手に考えていた。父親は私が最初の子供だからか、私にはすごく愛情をかけて、すごくかわいがってくれた。でも、時間になったら「そろそろ帰るね」という感じで帰っていく。
毎週日曜日だけは夜までいて、夕ご飯を三人で一緒に食べる。そして九時とかになったら、「もう時間だから帰るね」と言って、帰る。帰るというけど、どこに帰るのだろうといつも思いながらも、子供ながらに、「バイバイ」とか「また明日ね」とか言って別れて、また母親と二人きりの日常に戻っていく。
母親がいつもヒステリーになっていたのは、そういう扱いをされたことが原因なのだと思う。「この世はうまくいかない」と感じていたのだろう。母は孤独に一人で子供を育てる重圧を受けていた。たまに来る父親は、いいところだけかわいがってすぐ帰るから、多分それで二人は日頃からすごい喧嘩をしていたのだと、今になって考える。
私はそんな二人の間で、何も知らないまま育っていった。(第二回に続く)
