かなしき郷土よ。人人は私に情(つれ)なくして、いつも白い眼でにらんでゐた。単に私が無職であり、もしくは変人であるといふ理由をもつて、あはれな詩人を嘲辱し、わたしの背後(うしろ)から唾(つばき)をかけた。『あすこに白痴(ばか)が歩いて行く。』さう言つて人人が舌を出した。
人気なき公園の椅子にもたれて
われの思ふことはけふもまた烈(はげ)しきなり。
(…)
われを嘲(あざけ)りわらふ声は野山にみち
苦しみの叫びは心臓を破裂せり。
…………
(「公園の椅子」)
今回は、詩人の萩原朔太郎(はぎわら さくたろう)を取り上げる。
大正から昭和期に活躍し、日本の文学史に名を残している文豪だ。
しかし、かなり現代的な悩みの多い人だった。
萩原朔太郎のヤバさ① 40代で無職を責められる「ひきこもり」的苦しみ
萩原朔太郎は、1886(明治19)年に群馬県・前橋に生まれ育った。
父親は高名な医師で、家は町の「上流階級」と言えるほどの存在だった。
朔太郎は長男ということもあり、強いプレッシャーがかけられていたが、親の期待に応えられない。
子どものころから勉強よりも音楽と文学を好み、周囲の人々からは「なまけ者」とののしられていたという。
中学・高校(今でいう高校・大学に相当)の試験ではたびたび落第し、あちこちの学校に入っているものの、結局望ましい学歴は得ていない。
生涯定職には就かず、町の人たちからは軽蔑されつづけていた。(少なくとも、当人はそう思い込んでいた。)
やるせない気持ちをつづった詩も残っている。
のらくら息子のわたしの部屋には
春さきののどかな光もささず
陰鬱な寝床のなかにごろごろとねころんでゐる。
わたしをののしりわらふ世間のこゑごゑ
だれひとりきてなぐさめてくれるものもなく
やさしい婦人のうたごゑもきこえはしない。
(「大砲を撃つ」)
友人が床屋に入った時、偶然、店員が朔太郎の噂話をしていた。
「萩原のバカ息子にも困つたものだ、いい年をして何の仕事もせずのらくれして酒ばかりのんでいる」。
親の存在が大きかった分、生きづらい日々を過ごしていたようだ。
1917(大正6)年、朔太郎が32歳の時に『月に吠える』を出版し、文壇から高い評価を得る。
芥川龍之介や室生犀星(むろう さいせい)といった、当時の一流の作家たちとも交流。
これで順風満帆な人生を送れる……と思いきや、父親は「無職」の朔太郎のことを認めない。
30代、40代と年齢を重ね、家族ができても、朔太郎が定職に就くことはなかった。
「労働の賛美は、近代に於ける最も悪しき趣味の一つである」(「孤独者の手記」)
と、世間的な労働の美徳を恨んでいる。
ある時父親からは、
「四十四にもなって、自活できないで、何が文学者だ!職業を変えてしまえ!」と怒鳴られたという。
40代の文豪で、父親からこんなに叱られている人も珍しい。
さらに晩年は、父が医院を廃業したことで、定収入が途絶えた。
自身が「ごくつぶし」であることを悩みながら作家生活をつづけ、一族の財産を食いつぶすことになった。
46歳で書いた「新年」という詩では、「見よ!人生は過失なり」と嘆いている。
晩年に至るまで、生活上の苦悩はやわらがなかった。
朔太郎には、現代の「ひきこもり」的な苦しさをとらえた作品がある。
なかでも、「死なない蛸(たこ)」が絶品だ。
頭木弘樹編『ひきこもり図書館』というアンソロジーの、巻頭に収録されている。
(なお本書には12編が収録されているのだが、「蛸」を含め、2編が朔太郎の作品。)
水槽の中にいるタコが、自分の体を自分で食いつぶしていき、やがて水槽がからっぽになる……、しかし水槽のなかには、依然として、いつまでもタコはいるのだ、というイメージをつづったもので、鮮烈な印象を残す。
萩原朔太郎のヤバさ② 現代への反響と愛されぐあい
朔太郎が主役(?)の漫画に、『月に吠えらんねえ』(清家雪子)がある。
説明しがたい内容なのだが、「近代詩そのものの漫画化」とでもいうような、アクロバットな想像力にあふれた作品だ。
近代の常軌を逸した感じや、朔太郎の情念や情欲が(たまにBL風味で)渦巻いている。
群馬県には「萩原朔太郎記念・前橋文学館」があるのだが、「月に吠えらんねえ」展が開催されたこともある。
現在でも、展示物の一部でコラボを楽しめる。

なおゲーム・アニメの『文豪とアルケミスト』という作品にも、著名な作家たちとともに登場している。
作品を知らない人には何のことかわからないと思うが、転生して特殊能力でバトルしている。
また、J-POPに影響を与えた詩がある。
スタジオジブリの映画『ゲド戦記』の主題歌『テルーの唄』だ。
この曲の歌詞は、「こころ」という作品が元になっている。
こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。
(「こころ」)
心を何にたとえよう
花のようなこの心
心を何にたとえよう
雨に打たれる切なさを
(「テルーの唄」)
手嶌葵の澄み渡った声で、比較的平易な表現がなされているため、多くの人にとどく一曲となっていた。
萩原朔太郎のヤバさ③ 詩集『月に吠える』で日本語をアップデート
1917年、『月に吠える』。1923(大正12)年、『青猫』。
この2冊の詩集が、日本の詩の歴史を変えた。
朔太郎は、人が実際に話す言葉に近い「口語自由詩」と言われる文体を、詩の表現に持ち込んだ。
(ほかには、北村透谷や中原中也が先駆的だった。)
俳句のような五・七・五の韻律でもなく、漢詩のような文語体でもない。
明治・大正の同時代の作品と比べると、朔太郎の新しさがよくわかる。
強引なたとえだが、歌謡曲が流れていた時代に、J-POP的なメロディーが入ってくるようなものだ。
藤圭子の「怨歌」的な曲が売れていた時代に、吉田拓郎やはっぴいえんどの曲が出てくるくらい違う。
「近代詩」のゲームチェンジャーであり、次世代の詩人たちが影響を受けるのも当然だった。
現代では、朔太郎の功績を記念し、萩原朔太郎賞が設立されている。
「朔太郎賞の受賞者」と言えば、詩の界隈では一目置かれる書き手だ。
前橋の記念館では、毎年の受賞作品を盛り立てており、広瀬川沿いにはいくつもの詩碑が建てられている。

萩原朔太郎のヤバさ③ 「自分」に向かう針の鋭さ
詩人には、小さな針のような感受性を持つ人がいる。
それは時として「他人」に向かい、微細な関係性を編み込む。
それは時として「社会」に向かい、風刺的に対象を刺し狙う。
しかし朔太郎の針は、たびたび「自分」に向かう。
それが寂しさ、悲しさに直結することもあれば、ある種のナルシシズムに向かうこともある。
若草の上をあるいてゐるとき、
わたしの靴は白い足あとをのこしてゆく、
〔…〕
若くさの上をあるいてゐるとき、
わたしは五月の貴公子である。
(「五月の貴公子」)
わたくしはくちびるにべに(紅)をぬつて、
あたらしい白樺の幹に接吻(せっぷん)した、
よしんば私が美男であらうとも、
〔…〕
わたしはしなびきつた薄明男だ、
ああ、なんといふいぢらしい男だ、
(「恋を恋する人」)
朔太郎の詩に出てくる「わたし」は、とても現代的だと思う。
何らかの物事を味わっている時でも、視点が周囲よりも「自分」に向く。もし朔太郎が現代に生まれていれば、間違いなくSNSをやっていただろう。
「自分」の重要性が肥大しており、時として自意識過剰。
町の人々から蔑まされていた、という逸話も、伝記作家によると、ほぼ被害妄想であったろう、とのことだ。
しかし、人々から責められている、と感じるだけのナイーブさ、「自分」に対する鋭さが、新しい日本語表現を生みだす洗練につながったのだろう。
定職に就かなかった、とはいえ、文学者としては幅広い仕事を残した。
後年は、詩作以上に数多くの評論・エッセイがあり、晩年となる55歳の年(1940年)には、エッセイ集『帰郷者』、『阿帯』、そしてアフォリズム集『港にて』の3冊を刊行するなど、精力的な活動を見せている。
特に『港にて』は、初版3千部が5日で売り切れた、というので、商業的な面でも成功している。
肺炎のため亡くなったのは、1942(昭和17)年のこと。57歳だった。
朔太郎が亡くなったとき、父親の遺産は半分も減っていなかった、と言われる。
しかも、自身の自由な金も手を付けずに残してあった。
親友の室生犀星は、「肝心なぎりぎりではしめくくりのあつた人間」と評している。
参照文献
萩原朔太郎著『新選名著復刻全集 青猫』日本近代文学館1970年
萩原朔太郎著『萩原朔太郎詩集』 思潮社 1979年
嶋岡晨 『伝記萩原朔太郎 上<欲情>の時代』 春秋社 1980年
嶋岡晨 『伝記萩原朔太郎 下<虚妄>の時代』 春秋社 1980年
川口晴美編『詩の向こうで、僕らはそっと手をつなぐ。』 ふらんす堂 2014年
連載 100年前の〈家族〉の暮らし 第11回
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文・写真 喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。

