ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

『ひきポス』は、ひきこもり当事者、経験者の声を発信する情報発信メディア。ひきこもりや、生きづらさ問題を当事者目線で取り上げます。当事者、経験者、ご家族、支援者の方々へ、生きるヒントになるような記事をお届けしていきます。

「ひきこもり」概念の拡大 ー 誰でもかれでもひきこもりになる時代を振り返る<後篇> 

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文・ぼそっと池井多

・・・<前篇>からのつづき

「ひきこもり」概念の拡大 

両親が苦労した建てた家の二階の一番奥の
自分の部屋から出てこないで
部屋の入り口まで母親の食事を運ばせ
ゲームばかりやっている未婚の若い日本の男の子
 
 前篇>に詳しく述べてきたように、
2000年前後にこのような「原型的ひきこもり像」が造られ、
以後こんにちに到るまで根強く国内外に浸透してきた。
 
しかし、ここ二、三年は、
以下のようにひきこもりのイメージを特定していた制限がどんどん外されている。
 
「若くなくてもひきこもり」
「男の子でなくてもひきこもり」
「結婚していてもひきこもり」
「子どもがいてもひきこもり」
「部屋から出られてもひきこもり」
「いろいろ活動していてもひきこもり」
「就労して働いていてもひきこもり」
「日本以外の国でもひきこもり」
 
なぜならば、これまでのひきこもり成立要件が否定されるようなひきこもりの事例が、一つ一つ「発見」「指摘」もしくは「カミングアウト」されるようになったからである。
 
これによって、人々は「ひきこもり」の概念を拡大せざるをえなくなった。
 
これにともなって、
公的なひきこもり支援の対象も枠を拡げていくことになった。
 
かつて「ひきこもり」から「社会的ひきこもり」になることで、
対象となる範疇が拡げられたが、今はもっと広がって
2018年12月現在、たとえば次のような語が生まれている。 
 
主観的ひきこもり
行動・生活などから、客観的にはひきこもりと見られなくても、本人はひきこもりであると思っている。
 
心性ひきこもり
外からはそう見えても、内にはひきこもりの心を持っている(と主張している)。
 
勤労ひきこもり
すでに賃金をもらって働いているが、仕事場と自部屋の往復に終始し、他の人間関係がない。「ポスト就労ひきこもり(ポスひき)」とも。
 
ひきこもり親和群
ひきこもった経験はないけれど、いつひきこもるかわからないから、自分はひきこもりの心境がわかる(と主張する)。
 
ひきこもり系
ひきこもりではないけれど、なんとなくひきこもりっぽい人。
 
ひきこもり未満
ひきこもりまでは行かないけれど、社会から隔絶されて行き場を失った人。(池上正樹氏による)
 
表現の角度や細かい点こそ異なるものの、
どれも似たようなことを言いたい術語ではないだろうか。
  

あえて「ひきこもり」の肩書きを選ぶ

 こうした現象を見て、
「なぜ、これほど人々はひきこもりになりたがるか」
という形で問いを持つ人もいる。
 
「ひきこもりか、ひきこもりでないか、その微妙な境界線に位置するのならば、わざわざ社会的に蔑視されているひきこもりに自分を入れることはないであろうに」
という思考である。
 

私なども、そうした疑問を向けられる当事者の一人だ。
 
ひきこもりとしてメディアの取材など受け、
さらにテレビに出たりすると、たちまち
「そうやって外に出られるのだから、
なにも今さら『ひきこもり当事者』を名乗らなくたっていいじゃないか」
などと言われることがある。

 

なるほど、外に出ている時の私だけを見ていれば、
当然そういう疑問が生じてくるだろう。

 

私にとって、外へ出かけていくのは非日常だ。
日本古来の「ハレ」と「ケ」でいえば、外出は「ハレ」の時間なのである。
彼らは、部屋の中で寝たきりになり、動けなくなっている
日常の私、「ケ」の私を見ていない。

 

日常の私は、私だけが見ている。
だから、その気になれば、隠すことができる。


にもかかわらず、わざわざ社会に蔑視されている
「ひきこもり」という立場を選んで語るのはなぜか。

 

「社会的弱者の味方でいたいから」


などという答え方もあるだろうが、
それは私はとうてい恥ずかしくて言えない。

 

ほんとうに社会的弱者の味方でいたいのなら、
社会制度全体から疎外されているような底辺の当事者、
私のいう「サバルタン的当事者」を社会資源につなげるなど
いくらでもやるべきことがある。

そういうことができない無能無力を自分で知っている。


それに、


「社会的弱者の味方でいたいから」


などというモティベーションを唱えることは、
結局は自分より社会的に弱い人たちをダシにして、
自分が社会からの関心をかすめとる企てであることが、往々にしてある。

 

ひきこもり当事者といえども
結局は自我(エゴ)によって動いている。
とくに俗慾のかたまりであるような私の場合は、

 

「もし自分がひきこもりと認められなくなったならば、
自分の発言権がなくなる」

 

という恐れが背後にある。

 

発言権を保持するために、
「ひきこもり」というアイデンティティを選んでいる、
というと明らかに言いすぎであるが、
「ひきこもりでない者」
として発言していくことは、
いかにせん自分の現状と言葉のあいだに無理がかさんでいくように思う。

 

また、そういった発言ができなくなることは、
社会からケアが受けられる余地を
自ら放棄するような恐れにつながっている。

 

じっさいに、たとえ現在、そんなに社会からケアを受けていなくても、
貯金のように、将来に受けられる余地は残しておきたい、
などという吝嗇(りんしょく)な心があったりする。

 

これらは、外観的に「ひきこもりでない」にもかかわらず、
「ひきこもり」というアイデンティティを選んでいる
多くの当事者・経験者に言えることではないだろうか。

 

このように、
「ひきこもり」「ひきこもりでない」
と、どちらも選択できる立場にいる者が、
「ひきこもり」
というアイデンティティを選択する深層心理を分析していくと、
たぶんに姑息な理由にたどりつくかもしれない。

 

しかし、このような選択をする者たちの発言によって、
これまでひきこもりの社会的地位が
ずいぶんと改善されてきたのである。

 

なので、あながち
「それは姑息である」
と見下したものでもない。

 
 

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「ひきこもり」のインフレ

そのように「ひきこもり」概念が拡大してきたわけだが、
すると今度は、その拡大が問題とされるようにもなってきた
 
「ひきこもり」概念が広がることによって、
わざわざ「ひきこもり」という概念を設定した意味が希薄になっていく、
という懸念を招いているのである。
 
そういう人たちの主張は、主にこのようである。
 
どんどん「ひきこもり」の範疇を拡げていくと、
「自分はひきこもりだ」といえば支援の対象になると思って、
「ひきこもり」をブームだと思って便乗し、
がめつい人がみんな「ひきこもり」を詐称し、
いわば「ひきこもりのなりすまし」が増えていくのではないか。
 
そのうち人間がみんな
「ひきこもり」になっていくのではないか。
 
 それでは、いったい何のために
「ひきこもり」
という語彙を作ったのか。
 
そうなると、
ほんとうの支援を必要とする「ひきこもり」に
支援が行き届かなくなるのではないか。
  

このような声の裏では、こうした悲観論も出てくる。

だから、そもそも
はじめから「ひきこもり」などという語を
作らなければよかったのだ。
 
区別はやがて差別を生む。
「ひきこもり」などと名づけられなければ、
こんにちの「ひきこもり」も差別されないで済んだのだ。 
 
なるほど、ひきこもりをめぐる現象の一面だけをとらえれば、
たしかにこれらは、傾聴に値する意見といってよいだろう。
 
そして、ひきこもりという現象はじつに多面的であるから、
とらえられるとすると、
視点はしょせん一面的になりやすい、という一面もある。
 


もう少し広い視野から眺めると、このようなことが言えると思う。
 
これは「ひきこもり」に限らず、
社会的に蔑視されている
すべてのレッテルに言えることだと思うが、
「ひきこもり」でない人が、
わざわざ「ひきこもり」を名乗るときには、
必ず心の深い部分に理由がある。
 
そういう人は、自分が背負っている傷が、
他者から見えるところへ出ていないから、
人前でその痛みに苦しむことができない。
 
そこで、すでに社会に通用している否定的なレッテルを
自らに貼りつけることによって、
他者から見えない傷の痛みに苦しむ権利を自分に与えているのである。 
 
こうして考えれば、
結局は「ひきこもり」を詐称する人々と
ほんとうに「ひきこもり」である人々は、
同じ問題を共有できる地点へ走り出られることになる。
 
どちらも、心に傷を負っている同士となれるのである。
 

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「ひきこもり」という語は不要だったのか

こうして<前篇><後篇>2回シリーズで振り返ると、
平安時代の昔から日本語にあったと思われる
「ひきこもり」という何気ない語が
1980年代に新しい意味を与えられて社会に送り出されたことから、
今日の多くの「ひきこもり」という語彙をめぐる問題が
起こっていることがわかる。
 
しかし、それでは、
そもそも新しい意味での「ひきこもり」という語を
作り出さなければよかったのだろうか。
 
先も述べたように、そう考える人は多い。
そして、その意見も、私はおおいにわかるのである。
 
だが、私自身は、
新しい意味、すなわち、こんにち使っている意味での「ひきこもり」
という語が世に送り出されて、
総合的には良かったと思っている。
 
メリットとデメリットを精算して、
私にとってはメリットが黒字で出る。
 
というのは、個人的にこういう体験をしているからだ。
 
1980年代に、私の身に
こんにちでいう「ひきこもり」が始まったときに、
「ひきこもり」という便利な語がなかったために、
えらく苦労した。
 
「えらく苦労した」
などと書いてしまうと、
たちまち軽くなってしまうが、
もう人生が行き詰って死のうかと思うほど
苦境に陥ったのである。
 
就職もしない、部屋からも出ていけない、
という自分の状態を、
どのように周囲に伝えていいかわからなかったのだ。
 
「わからない」というより、伝える方法がなかった。
他の人に何といえばいいか、すべがなかった。
 
語がなかった。
言葉がなかった。
説明ができなかった。
 
そこへいくと、
たとえその語の定義が曖昧であっても、
「ひきこもり」という語が一つあるだけで、
状況はまったくちがう。
 
もちろん、語があっても、
自分がそれであると認めるまでに
一つのハードルを超えなくてはならないが、
1980年代当時の私に、
こんにちの「ひきこもり」という語彙があったならば、
私をどこかに連れ出そうとやってきた人たちに対して、
私はこう言いさえすればよかったのである。
 
「ぼく、なんだか知らないけど、
 ひきこもりになってしまったんだ。」
 
それによって
友人たちには馬鹿にされるかもしれないが、
それでとりあえず友人たちは、
私がどういう状態にあるかを、ほぼ把握するだろう。
 
たとえ「理解」はしなくても、「把握」はするだろう。
 
とりあえずは、それでよかった。
彼らが私を置いて、去っていってくれる。
これが、動けない者にとっては、第一段階の解決である。
 
「さびしさや孤立をどうする」
というのは、もっと高度な段階の解決だと思う。
 
ガチで動けないときには、
置いていかれて「さびしい」よりも、
むりやり連れ出される方が何倍もつらい。
 
私は周囲の人間に自分の状態を説明する語彙がなかったから、
追い詰められて、極端に反対側へ振れて、
 
「アフリカへ行って死のう」(*5)
 
などと突飛なことを考えるにいたったのである。
 
 
 

やがて消えゆく語であっても

だから、私は個人的に
やっぱり「ひきこもり」という語が生まれてよかったと思う。
 
そこから生じる差別には、戦っていけばよい。
 
戦いから来る苦しみは、
その語がなく、表現できなかったころの苦しみに比べれば、
私の場合、まだ小さいのである。
 
これからもひきこもりの概念がどんどん広がっていって、
それにともなって、ひきこもりの意味も茫漠となっていくかもしれない。
 
もしかしたら、ひきこもりという語が
存在し続ける意味がないほど
ひきこもりという語義が拡大されていくかもしれないが、
たとえそうであっても、
一時的に「ひきこもり」という語は、
「あってよかった」
と私は思う。
 
一時的にあってよかったものは、
やがて消えても、「よかった」ということである。
 
となると、これは
ちょうど数学の図形の問題の「補助線」のような概念であったといえよう。

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問題を解くために、
そこに線が描かれる必要があった。
しかし、問題が解けてくれば、
その補助線はもう必要ない。
 
また、「ひきこもり」という概念が広がりすぎれば、
「あなたもひきこもり、わたしもひきこもり」
という状態になり、
じつは「ふつうの人」のなかにも
 
「ひきこもり的部分がある」
 
ということが理解されていって、
それが結局
 
「ひきこもりを責めるものじゃない」
「ひきこもりは問題じゃない」
「ひきこもりをむりやり働かせてもしょうがない」
 
ということに、多くの人が気づいていってくれるのではないか。
 
「ひきこもり」という語を今さかんに私が使っているのも、
 
「ひきこもりというのは人間社会に遍在する人口層で、
今みたいな形で問題にする必要はない」
 
ということを、やがて社会が認識するようになってもらいたいからである。
 
いいかえれば、
社会がひきこもりを問題としなくなるように、
いま私は「ひきこもり」という語を使っている。
 

(完)

 

<筆者プロフィール>
ぼそっと池井多 :まだ「ひきこもり」という語が社会に存在しなかった1980年代からひきこもり始め、以後ひきこもりの形態を変えながら断続的に30余年ひきこもっている。当事者の生の声を当事者たちの手で社会へ発信する「VOSOT(ぼそっとプロジェクト」主宰。三十年余りのひきこもり人生をふりかえる「ひきこもり放浪記」連載中。