文・ぼそっと池井多
・・・<前篇>からのつづき
「ひきこもり」概念の拡大
両親が苦労した建てた家の二階の一番奥の
自分の部屋から出てこないで
部屋の入り口まで母親の食事を運ばせ
ゲームばかりやっている未婚の若い日本の男の子
主観的ひきこもり
行動・生活などから、客観的にはひきこもりと見られなくても、本人はひきこもりであると思っている。
心性ひきこもり
外からはそう見えても、内にはひきこもりの心を持っている(と主張している)。
勤労ひきこもり
すでに賃金をもらって働いているが、仕事場と自部屋の往復に終始し、他の人間関係がない。「ポスト就労ひきこもり(ポスひき)」とも。
ひきこもり親和群
ひきこもった経験はないけれど、いつひきこもるかわからないから、自分はひきこもりの心境がわかる(と主張する)。
ひきこもり系
ひきこもりではないけれど、なんとなくひきこもりっぽい人。
ひきこもり未満
ひきこもりまでは行かないけれど、社会から隔絶されて行き場を失った人。(池上正樹氏による)
あえて「ひきこもり」の肩書きを選ぶ
私なども、そうした疑問を向けられる当事者の一人だ。
ひきこもりとしてメディアの取材など受け、
さらにテレビに出たりすると、たちまち
「そうやって外に出られるのだから、
なにも今さら『ひきこもり当事者』を名乗らなくたっていいじゃないか」
などと言われることがある。
なるほど、外に出ている時の私だけを見ていれば、
当然そういう疑問が生じてくるだろう。
私にとって、外へ出かけていくのは非日常だ。
日本古来の「ハレ」と「ケ」でいえば、外出は「ハレ」の時間なのである。
彼らは、部屋の中で寝たきりになり、動けなくなっている
日常の私、「ケ」の私を見ていない。
日常の私は、私だけが見ている。
だから、その気になれば、隠すことができる。
にもかかわらず、わざわざ社会に蔑視されている
「ひきこもり」という立場を選んで語るのはなぜか。
「社会的弱者の味方でいたいから」
などという答え方もあるだろうが、
それは私はとうてい恥ずかしくて言えない。
ほんとうに社会的弱者の味方でいたいのなら、
社会制度全体から疎外されているような底辺の当事者、
私のいう「サバルタン的当事者」を社会資源につなげるなど
いくらでもやるべきことがある。
そういうことができない無能無力を自分で知っている。
それに、
「社会的弱者の味方でいたいから」
などというモティベーションを唱えることは、
結局は自分より社会的に弱い人たちをダシにして、
自分が社会からの関心をかすめとる企てであることが、往々にしてある。
ひきこもり当事者といえども
結局は自我(エゴ)によって動いている。
とくに俗慾のかたまりであるような私の場合は、
「もし自分がひきこもりと認められなくなったならば、
自分の発言権がなくなる」
という恐れが背後にある。
発言権を保持するために、
「ひきこもり」というアイデンティティを選んでいる、
というと明らかに言いすぎであるが、
「ひきこもりでない者」
として発言していくことは、
いかにせん自分の現状と言葉のあいだに無理がかさんでいくように思う。
また、そういった発言ができなくなることは、
社会からケアが受けられる余地を
自ら放棄するような恐れにつながっている。
じっさいに、たとえ現在、そんなに社会からケアを受けていなくても、
貯金のように、将来に受けられる余地は残しておきたい、
などという吝嗇(りんしょく)な心があったりする。
これらは、外観的に「ひきこもりでない」にもかかわらず、
「ひきこもり」というアイデンティティを選んでいる
多くの当事者・経験者に言えることではないだろうか。
このように、
「ひきこもり」「ひきこもりでない」
と、どちらも選択できる立場にいる者が、
「ひきこもり」
というアイデンティティを選択する深層心理を分析していくと、
たぶんに姑息な理由にたどりつくかもしれない。
しかし、このような選択をする者たちの発言によって、
これまでひきこもりの社会的地位が
ずいぶんと改善されてきたのである。
なので、あながち
「それは姑息である」
と見下したものでもない。
「ひきこもり」のインフレ
どんどん「ひきこもり」の範疇を拡げていくと、「自分はひきこもりだ」といえば支援の対象になると思って、そのうち人間がみんな「ひきこもり」をブームだと思って便乗し、がめつい人がみんな「ひきこもり」を詐称し、いわば「ひきこもりのなりすまし」が増えていくのではないか。「ひきこもり」になっていくのではないか。それでは、いったい何のために「ひきこもり」という語彙を作ったのか。そうなると、ほんとうの支援を必要とする「ひきこもり」に支援が行き届かなくなるのではないか。
このような声の裏では、こうした悲観論も出てくる。
だから、そもそもはじめから「ひきこもり」などという語を作らなければよかったのだ。区別はやがて差別を生む。「ひきこもり」などと名づけられなければ、こんにちの「ひきこもり」も差別されないで済んだのだ。
「ひきこもり」という語は不要だったのか
やがて消えゆく語であっても
(完)
<筆者プロフィール>
ぼそっと池井多 :まだ「ひきこもり」という語が社会に存在しなかった1980年代からひきこもり始め、以後ひきこもりの形態を変えながら断続的に30余年ひきこもっている。当事者の生の声を当事者たちの手で社会へ発信する「VOSOT(ぼそっとプロジェクト)」主宰。三十年余りのひきこもり人生をふりかえる「ひきこもり放浪記」連載中。