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ひきこもりは、ひきこもったことを後悔しているか?

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Photo by Lucian Andrei

文・ぼそっと池井多

 

「あなたは不幸ですか」

海外のメディアは、よく途轍もなく大きな質問を投げてくる。

 

以前、ロシアから来たテレビクルーの女性レポーターは、その碧い瞳でじっと私を見つめ、

「あなたはいま不幸ですか」

と訊いてきた。

 

言わんとすることはわかっている。

「ひきこもりなんかになってしまって、ひきこもりのまま齢をとって現在に至っている。そんなあなたは今、不幸ですか」

という意味である。

 

ここで、

「はい、私は不幸です」

などと答えるほど、私は他人のお涙を頂戴したいナルシストではない。

しかし、

「いいえ、いま私は幸福です」

などと答えるのも、強がりを張っているようで嘘くさい。

だから、答えに窮した。

 

しばらく考え、

「不幸であるとも云えるし、不幸でないとも云えます。

不幸とは、どの視点から眺めるかによって変わってくるものでしょう」

と答えた。

 

彼女は首をかしげた。

「理解された」という感触はなかった。

 

 

しばらく経って、また似た体験をした。

今度はフランスのメディアがオンラインでつなげてきたのだが、

「あなたは人生を後悔していますか」

などと訊くのである。

 

インタビューの流れからするとこんな質問である。

「ひきこもりなんかになってしまって、さぞかしあなたは残念でしょう。

本来だったら、自分はもっと能力を開花させた、もっと社会的に成功した人生を送れたはずだ、と考えているのではないですか。

あなたは人生を後悔していませんか」

 

こうした質問の根底には、ひきこもりは挫折であり、人生の失敗であり、社会の敗者である、という前提がまざまざと透けて見える。

 

そういう前提には賛成できないので、

「いいえ、後悔なんかしていません」

と答えてやりたいところだが、それもまた反発の勢いで言葉が自分の真情から離れてしまう気がした。

かといって、

「はい、後悔しています」

というのもちがう。

 

そこで、私はふと「後悔とは何だろう」と考えた。

 

 

もう一つありえた人生に思いを馳せる

記憶が、これまでの人生のいろいろな段階を瞬時にさかのぼった。

私の場合、

「もしあの精神科医に出会わなければ、働き盛りと呼ばれる40代を、もっと豊かに生きたかもしれない」

という思いがある。

そのように考えれば、そこに後悔がある。

というか、そのように考えることによって、そこに後悔が生まれるのである。

 

もっとさかのぼれば、もし私があのような母親を持たなければ、そもそも中年期に入って精神医療にかかる必要もなかったのではないか。

もしあのような母親を持たなければ、

「どんな分野であろうも、仕事を得てりっぱな社会人になってしまえば、それは虐待した母親を追認することになる」

というパラドックスが私の人生に埋め込まれることはなかった。

すると、私はひきこもりになることもなく、そのまま順調に働く人になっていたのではないか。

なぜならば、葛藤や苦悩がないのなら、ひきこもりなんかでいるよりも、まともに働く人になってしまった方が、周囲と違わないぶんだけ社会的にも居心地がよく、生きやすいはずだからだ。

 

そのように考えると、

「私にとって、後悔とはあの母親を持ったことである」

という結論になりそうだ。

ところが、そもそも私はあの母親から生まれてきたのであって、「あの母親から生まれなかった私」という存在は想定できないのである。

 

もし父親がほかの女性と結婚して、私が生まれた年月日に男の子が生まれたとしても、その子の体細胞を構成するDNAが異なる以上、その子は私ではない。

それは私の「もう一つありえた人生」とは呼べないのである。

 

もしそうであるならば、私が私としてこの世に誕生するということは、すなわち私が母親に人生のパラドックスを体内に埋め込まれ、そのためにひきこもりになるということに他ならない。

となると、私が現在のような中高年のひきこもりになることは、生まれたときから、……いや、母の体内に私が受胎したときから決まっていたと言えるのではないか。

 

後悔とは、もう一つ選べたかもしれない別の選択肢が、

「あのとき、ああしていれば」

と考えられるときにのみ、存在するものである。

「ああして」という部分がなければ、後悔も成り立たない。

 

もし、生まれたときから現在のひきこもり人生になることが決まっていたとすると、「ああして」おけばよかったという別の選択肢が成り立たない。

だから、後悔も存在しないはずである。

ゆえに、私は後悔していないはずなのだ。

 

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写真・ぼそっと池井多

 

「後悔などあろうはずがありません」

野球選手だったイチローは引退会見のときに、

「現役時代をふりかえって、何かもっとこうしておけば良かったという後悔はありますか」

と記者に訊かれて、

「後悔など、あろうはずがありません」

と語気強く即答していた。

 

「あろうはずがない」

という言葉は外から断定する響きがあり、

「後悔はありません」

と答えるのと意味するところが若干ちがう。

 

つまりイチローは、

「自分はあとで後悔するのがいやだったから、現役時代のどの日どの瞬間においても、つねに『これ以上はできない』という全力を尽くしてきた。

未来の自分に後悔することを禁じながら、一試合一試合をプレイしてきた。

後悔は主観の産物だから、いまの自分は後悔を感じないようにしている」

と言っているのに等しいのではないか。

引退時のイチローは、「いまの自分」よりも、未来の自分に後悔するのを禁止した「過去の自分」に忠実であろうとしたのだ。

 

これはイチローのように、特殊な才能に恵まれた人だけにあてはまることなのだろうか。

私は必ずしもそう思わない。

 

ひきこもりというのは、たくさんの葛藤をかかえ、いろいろと逡巡し、一見すると将来に後悔しか残らないような、日々を浪費した人生を送っている、といわゆる「ふつうの人」たちに考えられているふしがある。

そう思えば、ひきこもり当事者も、自分の人生はそう見えてしまう。

 

しかし、どんなひきこもり当事者であっても、その日その時で、その人なりに無意識に必死な選択をおこなって、毎日を過ごしているのではないだろうか。

かりに、その選択が毎日、

「やっぱり今日もひきこもっていよう」

という同じ結論であったとしても、それはその日その時、「これ以上はできない」という必死の選択をしている結果だと考えることはできないだろうか。

それが、外から見れば一向に変化しない「ひきこもり」と呼ばれる状態であっても、である。

 

私も、そのように生きてきて、現在に至っているのだ。

 

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写真・ぼそっと池井多

ひきこもりになりたかったわけではない

オンラインで質問してきたフランスの記者には、イチローの言葉を借りて、

「後悔など、あろうはずがありません」

と答えてやろうか、と一瞬思った。

しかし、するとまるで私が初めからひきこもりになりたくて、ひきこもりになろうと努力したすえに、現在の私になったように聞こえてしまう恐れがある。

私はなにも、ひきこもりになりたかったわけではない。

ひきこもりになろうと努力したことなどないのだ。

 

もし、

「さては、初めからひきこもりになりたかったのでは」

などと誤解されてしまうと、今も私の中にひきこもりであることから来る葛藤や苦しみが渦巻いている事実が認めてもらえない。

それは「楽をしている」と思われるようで、著しく不本意である。

だから、

「いいえ、私は後悔していません」

と答えるのもまずい。

 

結局、過去にロシアの女性レポーターに答えたときと同じような答え方となってしまった。

「後悔しているとも云えるし、後悔していないとも云える。

後悔とは、人生のどの層まで下りて過去を振り返るかによって、有無が変わってくるものでしょう」

 

モニター画面の向こう側で、フランスの記者は怪訝な顔で黙ってしまった。

またしても「理解された」という感触がないのである。

 

 

 

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