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台湾の映像作家 盧德昕との対話 第2回「ひきこもりが望む社会とは」

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盧德昕「In The Mood For Love」A
Instructed by Alexey M., Collaborated with Kordae H.and Nancy A.


 文・盧德昕 & VOSOT池井多

 

 

<プロフィール>

盧德昕(ル・テシン):台湾出身。現在、南カリフォルニア建築協会で修士として勉強するかたわら、ロサンゼルスで映画制作に関わる。日本のひきこもりを題材とした映画作品を製作中。その他、創作活動は出版、著述、映画、空間デザイン、イベント企画、美術展など多岐にわたる。
盧德昕ホームページhttps://lutehsing.com/

ぼそっと池井多 :日本出身。ひきこもり。当事者の生の声を自分たちの手で社会へ発信する「VOSOT ぼそっとプロジェクト」主宰。三十年余りのひきこもり人生をふりかえる「ひきこもり放浪記」連載中。

 

 …「第1回」からのつづき

 社会における「ひきこもり」の地位

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盧德昕 : 私は、人々が平等になることについて、語りたいことがあります。
たとえば、西洋社会において、黒人、女性、アジア人といった人たちは差別されていました。しかし、長い年月にわたる抗議運動と法律の改正によって、今や私たちは平等にあつかわれる社会で生活しています。
たしかに差別は完全になくなったわけではありませんが、公共が差別に対して以前よりも格段に注意を払っていることは否定できない事実でしょう。

そのような社会的マイノリティであることの誇りについて語る映画がいくつかあり、人々が平等になる道程の一里塚のような役割を果たしてきました。

 

たとえば『ブラックパンサー』という大きな予算でつくられた映画は、最初の黒人ヒーロー物語といえるでしょう。アメリカでは、この映画がおおいに話題になっています。黒人の子どもたちは、この映画によって、ついに自分が目指す偶像を手に入れました。
また『ワンダーウーマン』は、女性が監督にして主役である映画として大ヒットとなり、小さな女の子たちは目指す偶像をここに獲得しました。

私は、このような平等化のプロセスをひきこもり問題にあてはめて考えたいのです。いま「ひきこもり」とは、どちらかというと世界的に汚名です。ひきこもりは、カッコいい存在ではありません。


だから、あなたにお尋ねしたい。

ひきこもりであることで差別されないという日は、いずれ来るのでしょうか。ちょうど黒人や女性やアジア人が、かつてひどかった差別から解き放たれ、「差別されている」という感覚を持たないで気楽に過ごせるような今日になったのと同じように、ひきこもりもいつしか気楽に過ごせる日がくるのでしょうか。
あなたが思い描く、ひきこもりにとっての理想的世界はどんなものですか。それはあなたが気楽に過ごせる社会ですか。
それとも、ひきこもりであることを誇りに思える社会ですか。

 

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ぼそっと池井多: 私は「ひきこもりであることを誇りに思う」とは言わないでしょう。

でも、気楽に過ごせて、ひきこもりであっても差別されない社会に住めるようになるのは、すてきなことです。

そのとき「ひきこもりである」ということは、社会問題ですらないでしょう。そういう世界が、ひきこもりである私にとっては理想です。

 

そのような「ひきこもり」と「ひきこもりでない人」のあいだが平等になることが、今あなたが挙げたような他の社会的マイノリティの平等化と同じプロセスを通って実現されるかどうか、私にはわかりません。

しかし少なくとも、その方向を目指すことはできると思います。そのために私たち、日本のひきこもりの一部は、いわゆる当事者活動をやっているわけです。

私が「ひきこもりであることを誇りに思う」と言わない理由は、私が信念をもってひきこもりになったわけではないからです。
私はひきこもりになることを欲しなかったし、目指しもしなかった。
私がけっして意図しない経緯と理由によって、図らずも私はひきこもりとして、人生を歩むことになってしまったのです。

 

その意味では、私にとってひきこもりであることは、あなたがいう黒人、女性、アジア人たちにとって彼ら自身であることと似ています。
もし私が誇りにできるものがあるとしたら、それは「ひきこもりであること」ではなく、「ひきこもりになることによって生き延びる術を見いだした私自身」であることでしょう。
それはまったく意図していなかった発明でした。それはちょうど、道が行き止まりだったのが、そこから奥へ通ずる、地下の小さな知られざるトンネルを発見したようなものでした。

トンネルはたいへん狭いため、通っていくには全身が傷だらけになりましたが、おかげでかつて私が途方に暮れていた行き止まりの場所からは逃れることができました。


私はそれを選択したわけではありませんが、結果的に「よくやった」と自分に思います。

たとえば私は10代のころ、自分が50代で今のような人生の状態になるとは想像だにしていませんでした。もっとも、私が10代のころは「ひきこもり」という語もなく、自分が将来ひきこもりになるという想像じたいができなかったわけです。しかし今、私は現にこのようにひきこもりになっている以上、自分の状況や現実を受け容れなくてはなりません。
23歳でひきこもりになった時、私は自分に何が起こったのか、どうしてこうなったのか、まるでわかりませんでした。

だから私は絶望し、自殺を考えました。

しかし年月が経って、私もいろいろなことを学び、私は自分が経験したことは、どちらにせよ避けられないことだったのだとわかりました。私がひきこもりになったのは、ある種自然だったのです。

つまり、私にはひきこもりになる前から、ひきこもりになる潜在的理由がいくつもありました。ひきこもりになる方向へ私を駆り立てた理由はたくさんあったのです。

 

そのようなことを考えるので、いまや私は自分がひきこもりであることを受け容れています。

もし自分が「ひきこもりである」という現実にそっぽを向いていたら、私は自分を否定しなければなりません。そうなることを私は好みません。

私が私を支えてあげなければ、いったい他の誰が支えてくれるでしょうか。私には、私を支える母なる存在がありませんでした。だから、生きていくために、少なくとも私だけは、私自身を認め、支え、私の味方になってあげなくてはいけないのです。


そのため、たとえ始まりにおいて私はひきこもりはなりたいわけではなかったとしても、いまは自分がひきこもりであることを私は積極的に認めています。だから、ひきこもり当事者としても発言しているのです。

私は自分を必要以上に正当化したいわけではありません。私はただ、自分を支え、守り、説明したいのです。私は自分が今ひきこもりとしてこんな風に生きているのはなぜかということを、私自身のために代弁してあげる必要があります。

なぜならば、それはけっして名誉な生き方ではないからです。
そのフェーズにおいては、私は「自分はひきこもりです」と言い、自分の現況について何でも説明するでしょう。

 

ひきこもりのユートピア

盧德昕 : ひきこもりが住みたいと思える理想的な社会とは、どのようなものでしょうか。つまり、ひきこもりにとってのユートピアといってもよいのですが。

ぼそっと池井多 良いご質問だと思いますが、「ユートピア」とはちょっと大げさな言葉ですね。
でもおっしゃりたいことはわかります。私は、
ひきこもりであることがもはや問題ではない社会
というのが、その答えだと思います。

もし誰かがひきこもっていても、
「彼はひきこもりなんだって」
「へえ。だから、なに?」
という社会。
誰もひきこもり状態に否定的ではない社会。
もしそういう状態が社会に実現したら、
ひきこもりはもっと幸せになるでしょう。

それどころか、もしそういう社会になれば、ひきこもりの中には、社会から圧力を感じなくなったために、すんなりひきこもりを辞めて社会に出てくる人も現われるかもしれません。

今日では逆に、社会的圧力がひきこもりをさらにひきこもらせている側面があるように思います。

 

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盧德昕「In The Mood For Love」B
Instructed by Alexey M., Collaborated with Kordae H.and Nancy A.

ひきこもりの一日

盧德昕 : いまさらですが、いくつか基本的な質問をさせてください。
あなたの一日はどんな感じですか。
たとえば出かける時には、どれくらい前から準備しなければなりませんか。

ぼそっと池井多 : 私はだいたい一日14時間寝ています。
たいていは朝11時ぐらいにようやく起き上がって、朝食兼昼食をとります。やがてパソコンをつけて、インターネットをのぞきます。メールなどのやりとりの返事を書きます。
それから昼寝をします。記事を書きます。夕方、買い物に出ます。以前はもっと遅く、夜に買い物へ出ていました。
午後7時ぐらいに夕食をとります。作るのが面倒くさいので、メニューは昼間と同じです。

その後、運動に出ます。その時間帯が、公立の体育館が閉館まぎわです。そういうところは9時半までに退館しなければなりせん。最後の時間帯は空いています。
もし幸運なら、私一人です。だからその時間帯を狙って行きます。

さもないと、更衣室などで地域の他の人々に会わなくてはなりません。それがとても苦痛です。
私は世間話というものができません。人々が世間話として話すような話題、とくに男たちが集まると、政治、経済、スポーツ、性風俗についてさかんに話したがるわけですが、私には何も話す材料がありません。だから、他の人がいない時間帯に運動しに行くのです。

帰ってくると夜10時ごろ。ふたたびインターネットをのぞきこみます。寝るのは、このごろは夜半過ぎでしょうか。

盧德昕 : もし繁華街に出ていくとか大きな外出をするとなったら、あなたは何か特別に用意することがありますか。

ぼそっと池井多 : 出かけるとなったら、まず「心積もり」を用意しなければなりませんね。

もし誰かから電話がかかってきて、
「すぐ新宿に来い」
などと言われたら、私はあたふたしてしまって、何を持っていくか、何を着ていくか、財布や携帯や腕時計はどこか、探し回ることでしょう。

ひごろ「出かけないこと」が前提である生活をしているので、いざ出かけるとなると、慣れないこととして、何をどうしてよいかわからなくなってしまうのです。

こうして、出かけるまでに長い時間がかかります。私はもともと新しい状況に適合するのには、幼いころから人一倍の時間がかかるほうでした。「のろま」と言われてきました。

私は慢性うつ病ですが、このことが、すべてに時間がかかるという私の特徴と関係していると思われます。

一つ、英語のキーワードを提示したいと思います。

 

neurodiversity(神経多様性 / ニューロダイバーシティ

 

この綴りを見ただけで、あなたは意味がわかるでしょう。脳生理学が進んできたおかげで、こういう新しい概念が単語になっているわけです。何事にも時間がかかってしまうというのが、私の神経多様性の生み出す動作です。

自分でいうのも何ですが、私はそんなに馬鹿ではないと思う。でも、状況に適応するのには、ものすごく時間がかかるのです。すべてにおいて昔から私はのろい。しかしこれが私のやれる全力です。
これが私の神経多様性であり、私の脳の中で神経細胞が活動している結果なのです。

だから、二日前だったか、あなたがメールくださったとき、私は
「今日の7時に新宿で会おう」
とあなたがおっしゃっているものだと誤解して、
「冗談じゃない! あまりにも急だ!」
などと怒ってお返事してしまいました。(笑)

あれも、私はすぐに行動を起こせない人だからなのです。

 

盧德昕:あのときは、あわてさせて申し訳ありませんでした(笑)。


ぼそっと池井多いや、なんの、なんの。

 

盧德昕 "Last Choice / Set Construction"

 

ひきこもりの多様性

盧德昕 : ひと口に「ひきこもり」といっても、じつにいろいろで、大きな多様性があると思います。
たとえば私の友人は、臨床的にはうつ病ですが、気分が上がったり下がったりしています。調子のよいときには繁華街に出かけて人ごみの中を歩くのも問題ありませんが、調子のわるいときはまったくダメで、部屋にがっつりとひきこもっています。

そのような状況だと、どちらがそういう人の基本的な調子なのか、こちらとしてはわかりません。

もっといえば、たとえばあなたが働いていなくて、何事にもすぐ対応してくれる人でないと、あなたはすぐ置いていかれるという基準が、この社会にはあると思います。

ぼそっと池井多 : いわゆる「へんな人」と見なされる、ということですか?

盧德昕 : そうです。

たとえば、あなたは仕事というフィールドにうまくフィットできないかもしれない。でも、私から見れば、あなたのような人は、私の周りにたくさんいます。

私自身は自分の天性の能力をうまく活用して社会に適応しているといえるでしょう。でも、あなたのように「遅い」人が社会で差別され、置いていかれるべきだとは思いません。

私はそれがアジア社会へ狂気を持ちこんでいる何がしかの根っこか理由かもしれないと考えています。

ぼそっと池井多 : 「アジア社会」、とあなたはそこでいうか。

この世界全体ではなくて?

盧德昕: まあ、少し結論を急ぎ過ぎたかもしれません。
私がいま「アジア社会」といったのは、そこが私の出自だからであり、私がよく理解できるところだからです。

私はあなたが「ひきポス」で世界各地のひきこもりと対談しているのを読みました。じつは、これが私にとって、世界の他の国々にひきこもりがいると知った最初でした。
正確にいえば、ひきこもりが世界中にいることは何となく知っていましたが、「ほんとうに居るんだ」ということを知ったのは、あなたの記事によってです。

ぼそっと池井多: ありがとうございます。どの記事を読んでくださいましたか。ギードの?

盧德昕 : そうですね、ギード(*1)だったと思います。

*1. http://www.hikipos.info/entry/Guido_Round_1

 

 

西洋世界に住んでいて、私はいつも「ひきこもり」とは何かを周りの人々に説明することに苦労しています。彼らはひきこもりを理解していません。ただのゲーム依存者だと思っています。

彼らが考えているひきこもりとは、「両親の家に住み、ずっとゲームをやっている者」といったイメージです。これはステレオタイプですが、面白いことに、実際そのようになっているひきこもりは今日たくさんいます。

たとえば、私のひきこもりである友達は、ずっとゲームをやっています。なぜならば、他にできることがないからです。彼は眠っていないとき、ゲームをやるしかやることがありません。

ぼそっと池井多: 日本でも、たくさんの人がひきこもりとは本当は何かをわかっていませんよ。

一方では、西洋社会においても、ギードのような西洋のひきこもりたちは、ひきこもりが何であるか正確に理解しています。

だから、これは東洋と西洋という対立ではなく、ひきこもりかひきこもりでない「ふつうの人」かという対立軸で考えるべきことかと思うのですが、いかがでしょうか。

 

 

 ...「盧德昕との対話 第3回」へつづく

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