ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

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東日本大震災とひきこもり ― 鎮魂の沿岸から

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震災廃棄物の上に積もった雪 2013年1月 写真・ぼそっと池井多

文・ぼそっと池井多

 

 

ここ数日、ひきこもりについての対話交流会のため岩手県にお邪魔しており、3.11の今日は被災地となった沿岸部を南下している。

東京で生活していると、3.11はすでにまるで敗戦記念日のように歴史化している。しかし、実際に津波に被災した自治体では、それぞれに追悼式典がおごそかに行われ、ある意味で3.11はいまだ「現在」であることが強く感じられる。

東日本大震災は、ひきこもりたちにとっても、大きな選択をせまった未曽有の災害であった。
震災を機に、ひきこもり状態から脱して、がぜん活動的になり、自分が住んでいる村や町の復興に活躍するようになった方がいる。
一方では、避難せず、ひきこもったまま津波に呑まれてしまわれた方もいる。

前者を(A)、後者を(B)とさせていただく。

地震が起こってから津波がせまってくる数十分のあいだ、(B)のひきこもりの方々の頭の中に去来していたものは、はたして何であったのだろうか。
そのことが、2011年の発災直後から時折、私の頭に浮かんで離れなくなる。

 

津波が押し寄せるなか、頭の中に去来したもの

私と対談した(*1)、台湾の映像作家、盧德昕(ル・テシン)は、作品のなかで彼なりの解釈を表現している。 

盧德昕 監督「Last Choiceもがき」予告編

Last Choice (2018) Trailer Cut B from 盧德昕 on Vimeo.

この映像作品では、私が彼のインタビューに答えた声がそのままナレーションに使われているのだが、私自身は非オタク系のひきこもりなので、私が想像する主人公の内的世界は、必ずしも盧德昕の解釈と同じではない。

 

この映像作品のモデルとなったひきこもりの方は実在する。
彼は(B)のタイプであったといえよう。

津波が押し寄せてくるまでの間、彼は、

「ああ、いま外へ出ていけば、近所の人たちと顔を合わせなくちゃいけない。そんなのはいやだから、このままこの部屋にいよう」

と思ったのにちがいない。

しかしその時、はたして彼に津波があの高さに達することは予知できただろうか。
できなかっただろう、と私は思うのである。なぜならば、ひきこもりでない「ふつうの人々」も、津波があの高さまで及ぶことを予想していなかったからである。

彼は、まさかこのまま死ぬとは思わなかった。彼にとって、ひきこもり部屋から出て避難しなかったことは、「死を選択すること」や「ひきこもりとして人生を全うすること」とイコールではなかった。……そのような仮説を、私は持っている。

 

これを、あたかも彼が、

「このまま避難しなければ、自分は死ぬ。でも、人に会うくらいなら、死んだ方がましだ。自分はひきこもりに命を賭けているのだ」

と考えていたかのように語ってしまうことは、ひきこもりとしての彼の人生を尊重するように見えながらも、かえって彼の気持ちを汲み取らない結果になる恐れがあると思う。

「このまま避難しないでひきこもっていても、なんとかなる。少なくとも生き延びられる」
と思っていたのに亡くなってしまった、というところに、こうした災害における、そういうひきこもりの本当の無念と悲劇があるのではないか。

 

「避難はしたくない。でも、ここで死にたいわけではない。もっと生きたい」
と願うことは、私たちがこんにち後付けで当時の状況に照らし合わせてみれば、もちろん一つの矛盾である。その願い自体、一つの葛藤である。
「生きたいならば、さっさと部屋から出て、避難所へ行きなさい」
というのが正論ということになる。

しかし、状況は同時的に把握できなかった。

また、もとよりひきこもりという行動が矛盾と葛藤の産物なのだ。

そして、ひきこもりをめぐる場においては、おおかたの正論は機能しない。

いずれにせよ、モデルとなったひきこもりの方は亡くなってしまったために、「当事者」に訊くことができない。私たちは津波が押し寄せてくるまでのあいだ彼の脳裡に去来したであろう想念について、真相を知ることはできない。

「サバルタンは語ることができない」とスピヴァクはいう。
ああ、死者とは、なんという究極のサバルタンであることか!

 

 二人のひきこもりを分かち断ったもの

このように書いてくると、

(A) 震災を機に活躍し始めた「活動的なひきこもり
(B) 津波が来ても「部屋から出られなかったひきこもり

を、私が対極的に分けて考えているように聞こえてしまうかもしれない。
すなわち、

「ひきこもりの中には(A)のタイプもいます、(B)のタイプもいます。
二人は別人です」

というように。

しかし実際、私は(A)(B)が一人のひきこもりの中に共存しているものではないか、と考えているのである。

私のひきこもり当事者仲間のなかにも、地方選挙に打って出て政治を変えようとするかと思うと、些細なことから傷つき部屋から出てこられなくなる者がいる。それも一人ではない。

かくいう私自身も、東日本大震災のときは、自ら生活保護で生きながらえる貧困層のひきこもりであるくせに、東京のひきこもり部屋と宮城県の沿岸被災地を往復して三年間の支援活動をおこなっていたし、いまも地方のひきこもり対話交流会に奔走したりしている。

私のそういう側面は、見かけ上は(A)だと他者には見えるだろう。

ところが、その一方で、私には親戚づきあいがない。近所づきあいもできない。近所のおばさんたちが怖くて仕方がない。町内会にも加入せず、ユウレイ住民として身を隠してひっそりと暮らしている。民生委員も、おそらく私の存在を知らない。(*2)

 

もし私が3.11のときに被災地と呼ばれる地域に住んでいたならば、瞬時の選択として、私は(B)への道を選んでいただろうと思うのだ。すなわち、

「いま部屋から出ていって、避難所とされている近所の体育館へ行くと、そこには近所のおばさんたちが集団で炊き出しをしている。いろいろ訊かれて厄介だ。恐ろしい。ここはひとまず、部屋から出ていかず、もう少し様子を見よう」

と考えて、そのまま逃げない選択をしただろう、と。

運よく生き延びられて、地域が復興を考える局面にさしかかったならば、私は非力ながらもそれにコミットし、奔走し始めるのではないか。すなわち(A)になると思うのである。

このように(A)と(B)がけっして別人ではなく、一人のひきこもりの中に共存するということは、精神医学的に双極性パーソナリティということで説明し満足してしまう問題ではないように思われる。

(A)と(B)の共通点は何か。

いろいろあるだろうが、私は少なくともその一つが、「市民社会で平均的な存在であるその他大勢と、長いあいだ一緒に居たくない、居られない」ということのように思う。

すなわち、自分が住む地域のおじちゃんおばちゃんたちと同じ視点に立って、同じペースで、同じ行動をくりかえす、ということに耐えられないのだ。もし行動するなら、彼らよりも先んじた形か、あるいは遅れた形でしか行動できない。

マジョリティから見た時の、こうした不可解な行動が見かけ上「無行動」となり、「ひきこもり」と称されたりする。ようするに、ひきこもりになる人は、何らかの意味で「市民の平均値」から外れているだけなのである。

 

一人のひきこもりが(A)にも(B)にもなりえた。
しかし、8年前の3月11日、生身の人間として生きていたひきこもりたちを、残酷にも(A)(B)、二つのグループに分かち断ったものは、いったい何であったのだろうか。