文 ドミトロ H.
翻訳・編集 ぼそっと池井多
僕はいま30歳のウクライナのひきこもりだ。
これから僕は、戦争が続いているこの国で、どのように自分がひきこもりになったのかを皆さんにお話ししていこうと思う。
過去というものは、振り返るといつもバカバカしくて、小説や映画のようにビシッと決まらない。ときには、こんなことが本当に自分の身に起こったのだろうかと疑うこともある。
長い話になるだろう。だから3つの章に分けて、シリーズで配信してもらう。すべて終わりまで読んでくれたら、僕はとっても嬉しい。
子ども時代
僕はとても元気で、好奇心が旺盛で、やんちゃな子どもだった。でも、両親はけっして僕の感動や関心事を見出したり支えたりしてくれることはなくて、僕が「いたずら」をしたと言って厳しく叱るだけだった。父は体罰もよく加えた。
幼稚園は行かなかった。僕はいつも、いとこの女の子と遊んでいて、大きくなったら彼女と「結婚する」と言っていた。学校や近所には、僕はほとんど友達ができなかった。
小学校に入って1年半が経ったころ、僕たち家族は他の町へ引っ越すことになった。
引っ越し先では、僕は他の子どもたちから疎外された。やがて中学高校は一貫校へ通うことになったけど、これは両親の選択で、そこには僕の興味や希望はまったく入っていなかった。あのころ僕はまだ幼すぎて、学校を出て自分はどうなりたいのかという考えなんか、まるで持てなかったんだ。
中学高校では、僕はぜんぜん友達ができなくて、ずっといじめられっぱなしだった。僕を守ってくれる人なんか誰もいなくて、僕はいじめられていることを誰かに語ったり、いじめてくる連中相手に戦ったりすることはしなかった。僕はひたすらいじめに耐えた。
卒業の2年前になって、僕はようやく「本当の友達」ができた……と、はじめはそう思ったんだ。それは友達というよりも、それぞれへのいじめを回避するために結んだ同盟のようなものだった。
ところが、この「友達」はじつはとんでもない奴だということがだんだんわかっていった。
彼とつきあっているために僕は成績が急に下がってきて、ほとんど最低レベルをさまようことになった。授業をサボることも多くなった。
ある時なんか、この「友達」はクラスメートの携帯を盗んで、僕にある不本意な協力を強いたんだ。僕はしぶしぶそれに従ってしまった。だって、「本当の友達」はいざというとき裏切らないものだと思ったからさ。そうだろ?
この「本当の友達」は高校2年が始まる前に他の学校へ転校させられていった。これで僕は彼とのつながりは完全に切れた。でも、これで僕はまた友達ゼロの状態に戻った。しかし、もう僕をいじめてくる奴はいなかった。年齢も上がって、みんなそれなりに成長していたんだろう。
思春期
中学高校の時期を通じて、僕は4人の女の子に恋をしたことになる。でも、どの場合も僕は恥ずかしがり屋すぎて自分からアクションを起こすことができなかった。
5人目に好きになった女の子は、他の街からやってきた、うちと家族ぐるみでつきあいのあった
高校2年のときに、僕はこの5番目に好きになった女の子と、それから何人か適当に選んだ生徒たちといっしょに、国を横断してロンドンまで旅行をすることになった。僕が期待していたのは、この旅行が「未来の妻」とのハネムーンのような体験になることだった。
けれども、現実はその反対となった。僕はルームメイトたちから中学高校時代の体験をはるかに超えるような強烈ないじめを受け続けた。彼女に僕の気持ちを伝えようとしても、彼女は僕にまったく関心を示さず、僕は完全に拒否された形となった。それどころか、彼女は旅行先で、僕をいじめる連中と街へ繰り出していったのだった。
また、これは僕の人生で初めて両親から遠く離れて外国の異なった環境で2週間もの日々を過ごす体験でもあったわけで、僕はカルチャーショックを受け続けていた。
でも、泥沼の中に一輪の花とでもいうべきか、この旅行で少しだけ良い体験もあって、数人の親切な子たちと最後の最後になって少し仲良くなることもできた。
高校時代の最後の2年はいろいろあった。僕は、それを何かに使いたいといった下心なしに、「知りたい」「学びたい」という純粋な欲望だけのためにさまざまなことを勉強した。僕はほぼすべての科目で学年で3位の成績をとるようになり、それまで僕を劣等生だと思っていた教師たちを驚愕させた。
この時期、僕は二つの恋をした。最後の恋は、まるでジェットコースターに乗るみたいで、もっとも悲惨な体験となった。初めてデートみたいなことをやったのだけど、せいぜい10分か20分くらいお互いの趣味とか興味とかを語る会話をしただけだった。
僕は高校の卒業パーティー(*1)で彼女を踊りに誘いたいという考えを頭のなかでふくらませていたけれど、彼女を誘う勇気がなかった。そこで自分では会場の片隅で、
「あんなダンスだのワルツだの、何の役にも立たないバカバカしいことをやって何になる」
と白けて突っ立っていた。
でも、そうしたら驚いたことに彼女が僕を踊りに誘いに来た。彼女には先を越された形になった。なんという展開だ。それは僕にとってある意味、恥ずかしい状況として感じられた。だって、それじゃあ僕は「男らしくない」じゃないか。
*1.卒業パーティー:西洋文化圏ではプロム (prom)といって、高校の卒業式と成人式を兼ねたような盛大なパーティーが行なわれ、教師など学校関係者の他、生徒の保護者たちなども参加する。
そこで恋人たちはいっしょに踊るのが通例であるため、逆に曖昧な関係を持っていた生徒たちはプロムで誰と踊るのかによって、自分は誰とつきあっているのかを皆に表明する場となる。
ダンスとかそういったことは、まあまあうまく運んだ。でも本会が終わってアフターが始まると、みんな他の生徒たちはエチルアルコールというろくでもない毒物 …… まあ一般には「酒」というようだが、…… を摂取し始め、その場はおそろしく俗悪な情景になっていった。
そのときに撮られた動画をあとになって視てみると、僕はビクビクして、イライラして、そして落ちこんだ顔で映っている。あと姿勢が悪い。今も僕は姿勢が悪いのだけど。
いっしょに踊った彼女と僕は、ともに首都キーウ(*2)にある別々の大学へ進んだ。でも、キーウでは彼女と会うことはなかった。例外的にフェイスブックでときどきチャットしただけだ。
あるとき彼女がチャットで僕に、「いっしょに映画でも観にいこう」と誘ったことがあった。またしても彼女がイニシアティブを取ったわけだ。僕は、予定が忙しかったのか、彼女に押されてタジタジとなったのか、返事もしないままになってしまった。それも、そのことに気づいたのは、何年もあとになって過去のフェイスブックを読み返した時だった。
*2. キーウ(Kyiv) ウクライナの首都キーウは人口約300万人、創建は882年にさかのぼり、これはロシアの首都モスクワ(人口1250万)の1147年よりはるかに古い。そのためキーウは、モスクワを含むロシアの都市たちの母(キエフ・ルーシ)と呼ばれる。
長らく「キエフ(Kiev)」とロシア語読みの名称で呼ばれてきたが、ウクライナの要請により2006年ごろから世界中で呼び換えが始まった。日本に呼び換えが到達したのは、実質的にロシア軍の侵攻が始まった2022年からである。当初、駐日ウクライナ大使館はウクライナ語の発音に忠実に「クィイヴ」とカタカナ表記することを求めたが、日本側の判断により現在の「キーウ」となった。
若者の野望
人間というのは、…… とくに男性ならば …… 若いころは、この世界のすべての人間が自分を尊敬したり崇拝したりするような偉大な人物になりたいという幻想を抱くものではないだろうか。僕もそうだった。
大学で、僕は熱狂的なファンだったジミー・ニュートロン(*3)や「ミート・ザ・ロビンソンズ」のルイス(*4)のような天才発明家になって、自分の「発明品」を製造する会社を創業しようと考えていた。
*3. ジミー・ニュートロン (Jimmy Neutron) 2001年に公開され世界的にヒットしたアメリカのアニメ映画作品 "Jimmy Neutron : Boy Genius(ジミー・ニュートロン 僕は天才発明家)" の主人公。科学的な知識と発明を使って問題を解決する非常に知的な少年。ちなみに、その姓ニュートロンはアイザック・ニュートンと中性子(ニュートロン)を掛けたものと思われる。
*4. 「ミート・ザ・ロビンソンズ」のルイス (Lewis from "Meet The Robinsons") 2007年公開のウォルト・ディズニーによるアニメ映画「ルイスと未来泥棒 (Meet The Robinsons)」の主人公のこと。養護施設育ちの孤児で発明に情熱を燃やす天才。
こんな考えを持っていたために、僕は悲劇的なまでにまちがった大学を選択してしまった。会社をつくるには経済を知らなくちゃ、と経済を勉強する大学( *5)へ進んだのだった。ウクライナの社会ではこの大学は人気があったし、うちの家系は法律の大学へ進む者が多かったから、それに反発したいという気持ちもあったからだ。
でも、いざ通い始めてみると、経済大学には僕からすると退屈な学生しかおらず、大学の4年間を通して友人はできなくて、他の学生たちからはほとんど疎外され、せっかく滞在している首都の観光地にも足を運ばないまま過ごすことになった。寮の生活は、かなり狭い部屋をシェアするのでとても大変だった。
大学最後の年になって、両親は僕のためにアパートを借りてくれた。けれど、このころ僕はすでにかつて抱いていた野望にすっかり幻滅し、愚かな選択で自分の将来をすべて台無しにしてしまったことに気づいていた。
*5. キーウには、キーウ工科大学、キーウ教育大学など9つの大学がある。原作者が進学したのはキーウ経済運営大学(Державний торговельно-економічний університет)だと思われる。
これで僕は、初めてガチこもりになった。
大学にはまったく通わなくなり、かかってきた電話にも出なくなった。両親からかかってきても出なかった。僕がやっていたことといえば、ひたすらポテトチップや冷凍ピザをかじり、コーラやクルトンスープを飲んで飢えをしのいでいただけだ。あとは一日中、映画とビデオゲームにハマって現実逃避をしていた。こんなことを1,2ヵ月続けていたら大学を放校されてしまった。
両親が心配して上京し、僕を訪ねてきた。
僕は父から「何やってんだ」とぶん殴られて、映画やゲームに使っていた強力なノートPCは没収され、母は首都に残って僕の生活を見張ることになった。父はいくらかの賄賂を使い、大学院から理系の仕事を外注で出してもらい、それをやることで、僕は退学にならずなんとか大学に留まり、卒業できることになった。
経済学部の卒業証書という紙っきれを一枚もらったが、これはそのとき以来一度も役に立ったことはない。こうして僕は首都キーウを離れ、故郷のヘルソン(*6)へ帰ってきた。
*6.ヘルソン (Kherson) ウクライナの南部にあるヘルソン州の州都、人口28万人。黒海に近い港湾都市であるため古来から多くの戦争の舞台となってきた。今回のウクライナ戦争ではまっさきにロシア軍に侵攻された都市の一つで2022年3月2日に陥落、占領された。市長だったイーゴリ・コリハエフは同年6月6日にロシア軍に拘留され、2023年6月現在も行方不明となっている。2023年6月6日、へルソン郊外にありロシア軍が管理していたカホフカダムが決壊し、洪水によって多くの地域が水没し、住民10名が死亡確認され、42名が行方不明となっている。編集者がこの翻訳をおこなっている同年6月17日現在、ダムの麓であるノバカホフカではウクライナ軍とロシア軍による激しい攻防戦が繰り広げられている。
僕は、さらに2年間勉強して修士号を取るように強く求められた。そこで今度は地元の大学に入学し、修士を取るべく学外コースで勉強することになった。何人かの女子学生から注目されたようだったが、この時点で僕はもう恋愛の類には興味を抱けなくなっていた。
今に至るまで僕は「愛」というものは存在せず、フィクションの中だけにある捏造された抽象概念に過ぎないと確信している。
修士号を取ったあと、僕はまたひきこもりに戻った。
もう勉強もしなくていいので、それはすべての義務から解放された生活だった。僕はただひたすらゲームをやり、YouTubeや映画やアニメを見て過ごした。
ゲームをプレイする者たちのインターネット上のプラットフォームであるSteamで、スペインからアクセスしている奴と知り合った。彼はひきこもりではなかったかもしれないが、無業者という意味では僕と同じだった。僕たちはいろいろなゲームで協力プレイをして戦った。今でも彼とのやりとりは続いている。彼にはリアルで会ったことはないけど、僕の唯一の友人だと思っている。
あるとき、両親にすすめられて運転免許を取ることになった。医療関係者が運転教習所にやってきて、事故が起こったときの応急処置について講義している最中に、僕は血なまぐさい情景を鮮やかに想像して意識を失ってしまった。おおぜい受講生が見ている前で、僕一人だけひっくり返ってしまったんだ。みっともないったらありゃしない。
でも、最終的には免許試験に合格できた。それでしばらくは家族の車を運転していたんだけど、父が後ろの座席から強引な運転指示を出すので、すっかり運転が嫌になった。それで僕はもう運転することをやめてしまった。当時は身につけていた運転技術も交通ルールの知識も、今ではすっかり忘れて失われてしまっている。
仕事と人づきあい
このままではいけないと、僕は人づきあいと職を得るための計画を立て始めた。
人づきあい計画の一環として、僕は地元のアニメファンクラブに参加してみた。アニメによく出てくる、孤独な主人公が内向的でかわいい「ソウルメイト」を見つけて同じ趣味を持つ仲間たちとつながるような、そんなアニメクラブを想像していたのだ。
ところが、現実はまったく違っていた。
そのアニメファンクラブに来ている人たちは、誰もが社交的で外向的だった。とくにアニメにだけ興味があるというのでなく、他にもあらゆる趣味を持っていた。彼ら彼女らはだいたいソシャゲ(*7)やアクティビティに関心を寄せていた。
僕はそのファンクラブへいくとき、時間に遅れてはまずいだろうと、走り始めたバスを追いかけたところ、転んで脚を折ってしまった。このようにして、僕の人づきあい計画は
*7. ソシャゲ ソーシャル・ゲーム(Social Network Game)。インターネット上、主にSNSで提供されるオンラインゲームのこと。
この事件があってから、僕は自分のスキルを磨くことに集中することにした。
子どものころからコンピュータにはいつも夢中になれたし、成長してからもコンピュータは大好きだった。自分が人間を相手にうまく意思の疎通ができないという事実を受け容れるようになってからというもの、僕は人間のかわりにコンピュータといかに上手に意思の疎通をおこなうかということを自己課題とすることにした。
僕はインターネット上の無料講座などからプログラミング言語のC++ を独学した。さらに僕は自分でゲーム・エンジンを作ってみた。でも、それらは基本的な実験の域を出なかった。なぜって、ゲームとしての飛び抜けた斬新なアイデアが思い浮かばないからだ。
こうした独学を1年ほど続けた後、僕は「ジュニアC++プログラマー」という求人広告を見つけた。このような求人があることは、僕たちの小さな地方都市ではかなり珍しいことだったので、僕は機を逃さずさっそく応募し、採用された。
初めのうちは、すべてがスムーズに進んだ。自分でも信じられないくらい、人並みに仕事をこなせるようになった。しかし、時間が経つにつれて、状況はしだいに悪くなっていった。
比較的小さなオフィスで働く人数は、5人から9人に増えた。同僚のほとんどはすでに婚約しているか結婚している者で、自分の交際や結婚生活をよく自慢していた。中に一人だけ、異様なまでに僕に関心を寄せる女性がいて、僕を「殻から引きずり出す」、「社交的にする」ためにあらゆることを仕掛けてきた。
その会社は、働いている者たちの「チーム力を高める」ことを目的として、しょっちゅう大きなパーティーを開き、そこでは大量のエチルアルコール毒物が消費された。これらのパーティーに参加することは社員として義務であり、参加しないとそれはズル休みと同じ扱いをされた。
受け取る給料は、政府に払う税金を免れるために、銀行振込などではなく封筒に入れた現金で支給されていた。この会社の主な収益源は、主にギャンブル依存症の日本人たちによる投資信託だった。僕が開発を手伝っていたプログラムはトレーディング・シミュレーターで、この顧客の多くも日本人だった。直接取引ではなかったが、人々に投機というギャンブルを正当で簡単な金儲けであるという幻想を抱かせる可能性がある仕事に自分も加担していることが嫌だった。
だから僕は1年後、これらの社会的習慣に毒されて自分が完全におかしくなる前に、関わっていたプロジェクトが一区切りついたのを機にこの会社を辞めた。
敵の来襲によって破られたガチこもり
無職に戻ると同時に、僕はまたバーチャルな世界へ逃げこみ、それから2年半のあいだ完全に外の世界から自分を孤立させることになった。
これが今までの僕の人生のなかで最も幸福な時期だっただろう。僕は働いて貯めこんだお金を ……税金を免れて貯めこんだ「汚い金」だったけど…… じゅうぶんに持っていた。
さらに、僕にはもう心配ごとやうつになる原因はなかった。スペックのよい、とてもパワフルなゲーム用パソコンも持っていた。PCの冷却効率を上げるためのカスタムMODを作ったりすることもできた。これらの作業に好きなだけ現実逃避することができたんだ。
ところが、とつぜん予想もしない敵がやってきた。
2022年2月24日、ヘルソンの南東にある、ロシア占領下のクリミアからロシア軍がヘルソン市にやってきたのだった。
現実逃避で至福の時間をすごしていた僕は、突如として自分が現実の戦争地帯の真っ只中にいることを知った。面白いことに、僕が第二次世界大戦などのシューティングゲームをやっているときに、部屋の窓の外から本物の銃声が聞こえてきたのだった。
僕が住んでいるヘルソン市は、侵略者たちにとっては重要な戦場となっていた。僕たちは市内でも住宅街のエリアに住んでいたから、爆弾やロケット弾、迫撃砲などの攻撃から身を守るために、つねに寒くて湿った地下室に避難しなければならなかった。幸いなことに、僕たちの家の近くでは何も起こらなかったが、わずか2キロメートル先では激しい戦闘と爆発が繰り返されていた。
3月2日、僕らの街はあっけなく陥落し、ロシア軍の支配下に置かれることになった。補給線が絶たれたため、市内の商店から食料が枯渇してしまい、僕たちは飢餓に直面する恐怖を味わった。
水と電気の供給も大きな課題になった。ウクライナ側からの反抗に備えて、もうすぐ若者はロシア軍へ強制的に徴兵され、市民は大砲の盾にされるという情報が出回ってきた。
そのため僕たち家族は、たとえ危険を冒してもヘルソンから脱出し、まだロシア軍に占領されていないウクライナ国内へ避難しようと考えた。しかしそのためには、双方から攻撃されずに市民が安全に通行できる「緑の回廊」は作られなかったので、何の保証もない危険な荒野を突っ切っていく非公式のルートしか、避難する道はなかった。
...…第2章「決死の占領地域脱出」へつづく
訳者らくがき
自動翻訳やAIといったものが出てきてから、外国語は習得しなくてもよくなったという人々がいる。そうかもしれない。むなしい。多くの外国語の知識を持っていた人ほど、とたんに価値のなくなったハズレ馬券を握っている気分になるのではなかろうか。
しかし私は、ちょうどファーストフードがあふれる時代にスローフードの価値が認められるように、自動翻訳全盛の時代にあえて人間翻訳をおこなう価値というものが存在すると考えている。
私による人間翻訳は、自動翻訳とちがって逐語的に完璧ではないことだろう。また私という人間の語感を通したぶんだけクセが出ているだろう。
けれども、ほんらい翻訳とはそういうものであり、訳者のクセが加味されてこそ楽しめる代物だと思う。古典落語を異なる落語家で聞いたり、同じ交響曲を異なる指揮者で聴いたりするのと同じだ。
原作者のドミトロ H.氏は最近、私が代表世話人を務めるGHO(世界ひきこもり機構)に加入してくれた人である。これまで私はロシアのひきこもりとは接触があったが、ウクライナのひきこもりは彼が初めてであった。さっそく手記を送ってもらい、加筆をお願いし、弊誌に連載、配信させていただくこととなった。
今まで私にとってウクライナ戦争は、遠い海の向こうの出来事としてニュースで見る対象でしかなかった。ところが、戦火の国から刻々と送られてくるメールを読み、また、翻訳しているテキストの舞台を地図で確かめたりしていると、まさに今、自分が戦場に立たされているかのような感覚にとらわれるのである。
こんな環境でも人はひきこもるのだ、いや、こんな環境だからなおさらひきこもるのかもしれない、といったことを改めて考えさせられている。
なお、私の翻訳行為はあくまでも原作者であるひきこもり当事者の内的世界を日本社会に伝えることを目的としており、ウクライナ戦争に関して国際政治的な価値判断を下すためではないことを申し添えておく。
続編第2回はいま急ピッチで翻訳を進めており、来週に配信の予定である。
ぼそっと池井多
この記事の英語版(原文)へ