(文 喜久井伸哉 / 画像 Pixabay)
執筆者の喜久井(きくい)さんは、「引きこもり」の経験者です。しかし自ら引きこもったのではなく、世の中の側に「引きこもらせる圧力があった」といいます。それを「押しこわし」という造語で表現し、従来の見方を逆転。「引きこもり」論ではなく、「押しこわし」論を展開します。
「引きこもり」は自分を守るための活動
「ひきこもり」、という言葉は、平凡な日本語で、できている言葉だ。
ソトにある社会から、身を「引いて」、ウチ(家・内側)に「籠もっている」、ということだろう。
「引き・籠もり」だ。
しかし、弁護士の多田元(はじめ)は、別の読みとり方をした。
「こもる」ことは、三つの、大切な意味がある、と言って、以下を挙げた。
①当人にとって、己を守るという意味で「こもる(己守る)」。
②親にとって、子を守るという意味で「こもる(子守る)」。
③私たちの社会にとって、個人、すなわちオンリーワンの「個」を守るという民主的な意味で「個守る」。
(芹沢俊介編『引きこもり狩り』 雲母書房 2007年)
「(引き)籠もり」、ではなく、「(引き)個守り」だ、という。
私には、しっくりくる表現だった。
あれは、避難的で、防衛的な、「個守る」ための、活動だった。
「状態」ではなく、「活動」だ。
よくある解説では、「ひきこもり(引き籠もり)」は、「状態(象)」だ、といわれる。
「籠もり」のイメージだと、静的というか、止まっているように、感じられる。
しかし、特定の「状態」に、留まっているのではない。
どう守るか、という、切迫した、「活動」があった。
「引きこもり」の前に「押しこわし」がある
なぜ、あれほど、傷つかねばならなかったのだろう。
「引き・個守り」が、防衛的な、活動なのだとしたら。
それに先んじて、世の中から、攻められることがあった、といえるのではないか。
対称的に考えると、人を、世の中に「押し」出し、「壊し」てしまうような、暴力性。
「引き・個守り」の前に、「押し・壊し」とでもいえるものが、あるのかもしれない。
造語になってしまうが、一度、この、「押しこわし」について、考えてみたい。
(反対語としては、「押し個攻め(おしこぜめ)」、とでも言う方が、たぶん、合っている。しかし、語感が良いので、ここでは、「押しこわし」とする。)
世の中には、「引きこもる」人を生むような、人を「押しこわす」、暴力性がある。
親からのプレッシャーがかかって、心がつぶれてしまうこと。
性的な被害を受けて、人を信じられなくなってしまうこと。
上司からの圧力によって、会社に行けなくなってしまうこと。
同級生からの嫌がらせのせいで、教室からはじき出されてしまうこと。
「圧を受ける」、という表現は、一般的だ。
「威圧感がある」「高圧的な態度」「圧迫面接」「重圧につぶされる」「抑圧を受ける」……など。
「圧」、という、何かから「押される」感覚は、実は、世の中に多いのではないか。
「重荷になる」「急(せ)かされる」「心が折れる」、といった表現も、「押しこわし」に、関係してくる気がする。
「押しこわし」の例は、そのまま、「引きこもり」の「原因」として、挙げられやすいものだ。
人間関係のいさかいや、失業や、挫折や、「不登校」。
これらを、「引きこもり」、として見るのではなく、「押しこわし」、として見ることで、見方が反転する。
当人に、「あなたはなぜ『引きこもり』になったのか」、と聞くことは、その人自身に、問題があるかのように、感じさせる。
質問をするだけで、「あなたには問題がある」、と、言っているようでもある。
これを、「何があなたの『押しこわし』になったか」とたずねることができれば、それだけで、考え方が変わる。
「パワハラを受けて、会社に行けなくなくなり、『引きこもり』になった」、という、見方ではない。
パワハラをした上司や、それを看過した会社や、抑圧を生みだすような制度や、世の中の労働環境に、「押しこわし」があった、という、見方になる。
(やや専門的に言うと、「問題」の所在を、外在化させられる。
外部で発生した「問題」なので、自己責任にならない。
ここに、当人への、免責が起こる。
外在化と免責は、「問題」と向き合いやすくさせるための、力のある手立てだ。)
何が「押しこわし」か、を考えることで、新たに見えてくるものが、あるのではないか。
「こもりびと」の名称には反対
「ひきこもり」を別の名前で言うことで、とらえ方や、「問題」の見え方が変わってくる。
改称の試みの一つには、「こもりびと」、がある。
神奈川県大和町では、支援の際、「ひきこもり」ではなく、「こもりびと」、と言うようにしている。
当事者や家族が、ネガティブなイメージを持たないことで、相談しやすいように工夫した、という。
NHKでも、ひきこもりを特集するサイトが、「こもりびと」を打ち出している。
2020年には、『こもりびと』のタイトルで、ドラマも放送した。
しかし、この言い方は、すべきでないと思う。
けっこう、危ない使い方だ。
「こもりびと」は、「籠もり・人」、という意味だろう。
「人」だと、「問題」を、社会全体ではなく、引きこもる個人に、矮小化しかねない。
社会的孤立や、人とのつながりの貧困は、個人にとどまる問題ではない。
それが、「こもりびと」では、当人や家族が、何とかせねばならない「問題」のようになる。
これでは、いけない。止めるべきだ。
一応、この言葉は、親の立場から、引きこもる子どもを肯定し、受け入れよう、という、誠意の表れでは、あるのだろう。
多田氏のとらえ方に習い、「籠もり人」を、「子守り人」や、「個守り人」、ととらえるなら、まだ、格好がつく。
親の方が、「私は『子守り人』だ」、と言って、子どもを、真剣に見守ることを宣言するなら、(メディア受けの良さそうな、)何か、立派なことに、感じられる。
また、当人にしても、「私は『個守り人』だ」、と考え、堂々と、自分のあり方を肯定するなら、たしかに、ポジティブな意味に使える。
それでも。
せっかくなら、せめて同時に、反対の言葉を発明して、使っていくのはどうか。
「個守り人」の、反対語。
たとえば、「壊し人(こわしびと)」、とでも言おうか。
(「個攻め人」、だと、語呂が悪い気がする。)
「個守り人」をどうするか、ではなく、「壊し人」をどうするか、と考えられるだけの、柔軟さがほしい。
(その「壊し人」が誰か、を探っていくと、残念ながら、支援者であったり、親であったりするのだが。)
学校や、会社や、家庭内で、「壊し人」と、それを生みだしてしまうような、システムがある。
この社会には、苦しいものが多い。
子どもを苦しめている、学校教育の頑迷さ。
生活を不安定にさせる、非正規雇用の多さ。
あらゆる場所に見られる、女性蔑視のひどさ。
(これは、「男性」の私にとっても、有害だ。母親に負担がかかっていたことで、親子関係を、ずいぶん悪くさせた。)
マイノリティへの配慮も、欠けている。
LGBTへの、差別禁止法案一つ、作られていない。
これらは、私にとっての、「押しこわし」だった。
「引きこもり」ではなく「押しこわし」を問題にする
個人に「引きこもり」があるのではなく、世の中に、「押しこわし」がある。
「引きこもり」をいかに減らしていくか、という「解決」を探るのではなく、「押しこわす」ものを、いかに減らし、どうすれば、「解決」していけるか。
そうとらえるだけで、「問題」の風景が変わってくる。
また、「寄り添う」、という、(流行りの、)抽象的な言葉がある。
「寄り添う」ことは、具体的には、当人と視線を重ね、物事の見え方を共有する、という要素が、あるのではないか。
当人が、何に、どう苦しんでいるかを、よくわかるように努める、という、態度のはずだ。
だとしたら、「なぜ引きこもったか」、という、個人に向けた、一方的な見方をすべきではない。
それよりも、「どこに押しこわしがあるか」、という、当人と視点を重ねて、共に考えていく見方の方が、理解の幅が広がる。
「押しこわし」の視点に立つことで、本当の意味で、寄り添えるのではないか。
当人を、今以上に傷つけないようにする手立ても、見つけやすくなるのではないか。
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文 喜久井伸哉(きくいしんや)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。 ブログ https://kikui-y.hatenablog.com/entry/2022/09/27/170000