(著・ゆりな)
私がマウンティングしているのなら、他にも
「自分は人より、ましな引きこもりだ」と思っている参加者がいるのではないか
そう思った途端、思考が止まり、体が震えた。
今日、誰かとアドレスを交換して、連絡を取り合うことになったとしても
「どこかで悪口を言われてるかもしれない。」
「悩みの共有の果てに、交友関係の上下が待っているなら、いずれ"私が下"になる。そして悩みは大勢に嘲笑われ、自我が潰れて、結局これまでと同じ、二の舞だ。」
直感が、先の見えない未来を想像させた。
そして現状のこじれた人間関係と、会場にいる初めて出会った人の人格とがリンクしたすえ、
「自分のダメな所をこれ以上自覚したくない。恥さらしはもう御免だ」
と脳は限界を迎えた。
そうして汚い感情の整理はつけられぬまま、私の、会への足は遠のいた。
ひきこもりの集まりでさえも、誰かより優位でいたいと思うのは
私が、「女」だからなのか。
時の経過の中で、漠然と考察していた。
そして、その答えを求める気持ちは、別の集まりを探す原動力となった。
1つ1つの当事者会の雰囲気は様々で、
運営する方の人柄が会の空気を決めていた。
色んな会に継続的に顔を出すなかで、気付いたことがある。
それは、当事者に男性の割合が多くなった時、男性同士の会話には「誰が上で、誰が下」という隔たりがあまり感じ取れなかったということだ。
引きこもり経験のある男性の多くは、「自分」というものをしっかりと持っていた。
興味のあること、好きだと思うことを
ためらわず楽しそうに人に伝えている姿は毎回、印象に残った。
その人が正しいと感じることを、思うままに行動し、コミュニケーションをとる様は、私の目に羨ましく映った。
そして、その羨ましさを覚える根元には、私に欠けているものがあることを教えてくれた。
私は好きな事柄も、好きなものを好きと言える自信もなかった。
物事を好きだと言えないことは、感情を抑圧し、本心を見て見ぬふりすることになる。 自己を無視することは、自分も、他者も大切に出来ないことにつながり、関わりを持った人をはじめとして、無差別に"苦しみに対してランク付けしたい衝動"が暴走を始める。
・「女性はマウンティングをしている」という潜在意識
・尺度を持たずに「自分がない私」として生き続けてきたこと
この2つが重なったことで、自己愛が歪み、極端に"人の上に立ちたい"という気持ちが強くなって表れていることに気付いた。
もしあの場に、同じ感情を抱いている人がいたとしたら……
今後、私が当事者として活動に長く関わり続けることで、人間関係の悩みにさらされる機会が増えると思うと怖くなる。
人が集まれば集まるほど 当事者会というものが"一般化"し、マウンティングしようとする人数が増え、その思考が蔓延化する。
それが原因となり、いずれ、当事者本人の足を運びにくくするのではないかと、ふと思った。
本当に人との接点を作らないと生き延びていけないような人ほど、
このマウンティングの中に埋もれ、窒息して、
この世からいなくなってゆくのではないか。
それが頭をよぎった時、
自分を大事に出来ないことでわき上がった感情が
知らずに人を殺していないだろうかと
私は後ろを振り返らずにはいられなくなった。