(文 喜久井ヤシン 画像 Pixabay)
「長い距離を下るときには、じっとすわっていることも大切なんだ」
(カヌーの達人からの助言)
世の中では、ある二文字が頻繁に使われている。
「プロジェクト」「プロダクション」、「プロダクト」「プロセス」「プロデュース」……など、頭に「プロ」がつく言葉だ。
この二文字は、経済をはじめとした現代社会で必要不可欠となっている。
「プロ(pro)」は、ラテン語の「前方」を意味する言葉だ。
「プログラム(programme)」、「進歩(progress)」、「起業(project)」なども、「プロ」=「前」を語源に含んでいる。
経済を重視する環境では、常に「前」へ進むこと、「先」へ流れていこうとする力がはたらいているといっていい。
そのような流れのなかでは、同じところにとどまっているというだけで、心身を消耗させられる。
私が経験してきたものでは、周囲が進学していくなかでの不登校。
二十代になり、同世代が就職していくなかでの無職。
三十代以降での、非正規雇用の状態や未婚。
それらが抵抗感をもつ要因の一つは、社会的な流れよりも、自分が「後(おく)れ」をとっていると感じてしまうためだ。
私は長い「ひきこもり」の期間を経験し、「前」へと進む社会的な流れを一身に受けてきた。
「ひきこもり」への典型的な批判に、「怠け」や「甘え」だというものがあるが、内実はまるで反対で、緊張感に満ちている。
激しい流れに落ちたとき、同じところにとどまるためには、全力を尽くして泳ぎ、周囲にしがみつかねばならない。
私は通学、就職、自立、恋愛など、世の中の「こうあるべき」という流れに、必死で耐えていた。
「ひきこもり」の生活で、おそろしいまでに体力を消耗するのはそのためだ。
(仮に流されてしまっていた場合、その「先」にあったのは、自ら死を選ぶことだったように思う。)
動物的な本能においても、危険が迫っているときには身を縮めるようにできている。
突然車にひかれそうになったとき、飛びのいた方が生存の確立は高くなるだろうが、実際は体の動きを止めて、衝撃にそなえるため筋肉を硬くさせる。
「止まっている」状態は、身を守るための必然的な反応だ。
動かないこと、止まっていることは、今の世の中では評価されにくい。
しかしコロナ禍での外出自粛のように、冷静な判断として「動かない」ことが必要になる。
シェルターや防空壕など、危険を避けるための知恵も生まれてきた。
「動かない」ことが闘いであった歴史もある。
デモによって不正を訴える人々は、座り込みによって巨大な権力を相手にする。
ガンジーの無抵抗主義は弱さではなく、真の意味での強さだったはずだ。
1955年のある日、バスのなかで黒人の女性が白人のための席に座った。
運転手や乗客は彼女をののしり、警察を呼んだ。彼女の逮捕によって抗議活動が起き、社会には大きなうねりが生まれた。
黒人女性のロウザ・パークスの名前が歴史的人物の列に加わったのは、特別な活動のためではない。
「座る」という、その場にとどまる選択をしたためだ。
「動かない」ことは、無力さや 無能さのあらわれではない。
自分や他の誰かを助けるための力にもなりえる。
蝶のはばたきから生まれたささいな風が、いつか地球の裏側で竜巻を起こす、という説のように、「動かない」ことが、いつかどこかで、重大な意味をもつこともありえるはずだ
さらにつけくわえると、道端の草花は、種の落ちた地面から「動かない」生き方をしている。
動植物や貝類に見られるこの生態は、「固着性」といわれる生存方法だ。
今の人間社会では、どれだけ活動的に動けるかによって評価されてしまう。
しかし「動かない」ことで何億年も生き抜いてきた生物史があり、「動かない」ことで物事を成し遂げてきた人々がいる。
先へ先へと急ぐこの社会では目立たないが、世の中には「動かない力」がある。
その影響力の大きさが、再評価されてほしいと思う。
参照 鷲田清一『誰のための仕事』 講談社学術文庫 1996年/ロバート・フルガム『気がついた時には、火のついたベッドに寝ていた』集英社文庫 1996年
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執筆者 喜久井ヤシン(きくい やしん)
1987年生まれ。8歳から20代半ばまで、断続的な「ひきこもり」を経験している。
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