ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

『ひきポス』は、ひきこもり当事者、経験者の声を発信する情報発信メディア。ひきこもりや、生きづらさ問題を当事者目線で取り上げます。当事者、経験者、ご家族、支援者の方々へ、生きるヒントになるような記事をお届けしていきます。

私の頭のなか

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 文・写真 ゆりな

 

 私は「触れられないもの」に魅力を感じる。

それは例えば、言葉であったり、感情であったり、思考であったり…。

 

本を読むと、頭のなかを「言葉」が”席捲”する。

本にしたためられた一節一節が、私の感情を呼び覚まし、言葉の源泉を刺激して、思いが堰をきって溢れ出る。

 

ページを捲るごとに積年の思いが溢れ出て、

なかなか読み進められないことは、私が本を読む時の常だ。

 

あるフレーズや、ある言葉に記憶が共鳴し、過去の出来事が映像となって、頭のなかで自動再生され始めると、私は目の奥を満たす"映写"に浸り、記憶がゆっくりと舟を漕ぐように、遊覧を始める。

 

本は、私の細部を呼び起こす。

 

 

 

指が、書物の方へ向かう。

 

届いたばかりの本を開く。

思いっきり飛びつきたい気持ちを抑えて、

指の腹で、およそ物語の3分の2辺りを開く。

 

紙の束は押し開かれ、

その"扉"に鼻を寄せて、息を吸う。

紙からほのかに漂う「木」の香りを受け止め、

印字された一文字一文字を思う。

しっとりとした森のおおらかさが、身を包む。

 

静寂のなかで本を読むことは、心地よい。

著者の紡ぎだした言葉を、著者が必死に捻り出した鉱脈を、私は歪ませて読みたくない。

 

本を読み始めるとき、

『これから頭のなかで反射し合う大量の記憶と闘い、文字の意味、著者の意志、行間を、身体の底に落とし込んでいく』

そう自然と覚悟を固めると、心に広大でふくよかな内膜を敷く。

 

読み終えると、私の身体はひと1人分重たくなったように、心が水分を含む。

 

 

「触れられないもの」は、

私にとって、どんなに手を伸ばしても届かない

高貴なもの。

 

姿勢はいつだって、「触れられないもの」を得ようと

身体は内側を向く。

 

 

 

肌がリズムを欲する。

音楽を再生すると、歌詞の言葉一つ一つについているオーラが、私の身体に"海流"を巻き起こす。

 

自ずと言葉のビロードに惹かれ、反芻し、その響きを耳に仕舞う。

感情は掻き立てられ、思わず身体の関節が動く。

リズムの持つ強度と空間に、私も入り込みたくなる。

 

耳元で一緒に過ごした時間の分だけ、音に閉じ込められた人の思いを氷解させていく。

 

『あなたはいま、どこにいるのだろう』

 

『あなたはどの地点で、どんな思いを抱いているのだろう』

 

私の頭のなかで

角を整えて畳んであった風呂敷を、

「せーのっ」で一気に広げて

音や言葉の中の、人の気配を丹念に汲み取り、包み込む準備をする。

 

 

触れられるものはいつか、どこかへ行ってしまう。

物質化されたものは、常に消費される。

そこに「物」たりえることは、

ありとあらゆる人の手が触れられるということ。

その恐怖は、常につきまとう。

そして、私を支配する、「物」そのものへの恐怖。

形あるものが即物的に扱われていく日々の描写は

生きていると身体さえも蝕まれていくのではという想像に達する。

 

どこに仕舞えば、誰の手にも触れないだろう。

 

触れられないものに魅力を感じ続けているのは、

誰も触れることのできない自分だけの世界に

それらをとどめておける神聖さを含んでいるからだろうか。

 

頭のなかを言葉にすることで、

私はわたしに寄り添いたい。

届きそうで届かない今日を、今日も生きる。

 

遠くから愛でられる

その奥ゆかしさを

距離を置くからこそ感じる儚さや愛おしさを

大切にしていたい

それを失いたくない

 

 

<プロフィール>

執筆者  ゆりな
2018年2月にひきポスと出会い、物書きデビュー。
以降、自身の体験や心に触れる違和感・痛みを書き綴る。
自己否定の限界が訪れた先で、社会とぶつかった接点に残る傷は、今も薄い皮膜を帯びながら、「生きること」への恐怖を訴えてくる。
苦しさの根源に向き合い、自己と社会の-あわい-の中で、言葉を紡いでいけたらと思う。